大極門・東楼

大極門

平城宮・大極殿の正門が大極門です。扁額に大極門と書かれていますが、門の名前は分かっていません。第一次大極殿院では大極門の横に東楼と西楼があり、遠くから見ると門が3つ並んでいるようにみえます。平城京が造られた頃は大極門だけでしたが、730年頃に回廊を改造して、左右対称の楼を作り、豪華に見せるように工夫したようです。

楼の2階は屋根付きのオープンテラスのような構造になっており聖武天皇が楼の上で宴会をしたという記録がありますので、宴会場として使ったのでしょう。東を見ると若草山、東大寺が見えるし、西は西大寺、生駒山が見え、塔以外に高い建物はないので平城京が一望できたでしょう。東楼ができあがるのは2026年頃のようです。

朱雀大路の延伸

平城京の朱雀門前に幅90mで220mにわたって朱雀大路が再現されていますが、大宮通りで途切れています。その先に住友化学の工場があったのですが、なくなって三条通りまで空地になっています。おお朱雀大路が伸びそうだなと調べてみると、公園が造られる計画だそうで、うまくいくと朱雀大路が三条通りまで延伸されるようです。

朱雀大路

平城京があった頃は、ここから4km先の羅城門までつながっていました。羅城門で出迎えた外国の使節は、この朱雀大路を通り、平城宮へ入りました。朱雀大路が延伸する三条通りは暗峠奈良街道と交差しており西に行けば鶴橋で東は興福寺につながっています。

天平祭り

天平祭り開催中の平城京跡へ

天平祭り

朱雀門近くで、いろいろとイベントをやっており、屋台も出ていました。天平祭りなので平城京にあった西市・東市の雰囲気になっています。と言っても売っているのはビールや焼きそばなどふつうの物です。天平衣装の貸出もしていて、天平人が海上のアチコチを歩いておりました。

頭塔

ファイティング・コンサルタンツ研究会という、創建時の崇高な思いはどこへやら、単なる飲み会組織に変貌した集団です。前回、山の辺の道の途中で断念したので、そのリベンジのために近鉄・奈良駅の行基像前に集合。とりあえず昼飯ということで、高速餅つきで有名な中谷堂のすぐ近くにある和食ダイニング拓というお店へ。小さなオチョコ100円でお酒が飲めるお店です。風の森などお酒が豊富なので、いろいろと試していると必然的に宴会に。奈良駅からJR柳本駅まで出て、山の辺の道リベンジのはずが、1時間に1本しかない列車の発車時間は過ぎ去ってしまいます。

ということで目的地を変更。東向商店街は観光客とインバウンドで一杯でしたので、そのまま餅飲殿商店街を南下して奈良町へ。奈良町もそこそこの人出なので元興寺の塔跡や大乗院庭園など、人がいない所を狙って散策。そのまま新薬師寺を目指すと、途中の頭塔で特別公開をしていました。ラッキー。

頭塔

■頭塔
奈良時代に東大寺の僧が国家安泰を祈って築いた土塔でピラミッドになっています。よく似た塔が堺の深井にある土塔です。茨城県にも土塔森林公園という所があるので、他にあった可能性もありますが、復元されてみることができるのは2つだけですね。

追分

追分
追分

国道308号は大阪の難波から奈良(平城京)を結ぶ国道ですが、酷道という名前がついています。特に暗峠を超えるのは大変で車は4駆でないとまず無理です。暗峠を超え進んでいくと矢田丘陵上に追分があります。暗越奈良街道を、そのまままっすぐ進むと奈良に至ります。遠くに若草山が見えています。奈良時代から江戸時代にかけて、この道がメインルートで、多くの旅人が行き来しましたが、今は時たま車が通るぐらいです。

追分を右に曲がると大和郡山へと向かいます。追分には本陣・村井家住宅が残っていて江戸時代は大和郡山藩主の休憩に使われました。奈良に入ると大和郡山領でしたので暗峠に残る石畳は大和郡山藩が整備し、暗越奈良街道の管理もしていました。

霊山寺

霊山寺
霊山寺

大和角山城の近くにあるのがバラ園で有名な霊山寺で、寄ってみました。山に造られた寺院で山城みたいな伽藍です。さすがにバラは咲いていません。

寺の来歴によると敏達天皇の頃は小野家の土地だったそうです。小野氏といえば和爾氏ですなあ。敏達天皇というと物部守屋や、蘇我馬子が活躍した頃です。小野妹子の息子といわれる右大臣・小野富人は壬申の乱に加担したとかで職を辞して登美山に閑居。ここが今の霊山寺で薬草を育て、薬草湯屋を設け、湯治をしました。

神亀5年(728)に流星が宮中に落下する事件があったそうで、孝謙皇女(聖武天皇と光明皇后の娘)がノイローゼになった時に聖武天皇の夢枕に小野富人が現れて、薬草湯屋の薬師如来を祈念すれば治るとお告げします。そこで行基が代参し、皇女の病が直ります。ノイローゼなら、そら直るでしょう!天平6年(734)聖武天皇は行基に霊山寺建立を命じます。

富雄丸山古墳

富雄丸山古墳へ。

富雄丸山古墳
富雄丸山古墳

前例がない鼉龍(だりゅう)文盾形銅鏡と蛇行剣が出土した発掘現場が本日まで一般公開されています。富雄丸山古墳は全国で最大規模の円墳でホタテ貝のような造り出し部分から見つかりました。ちょうど近くへ行く用事があったので、のぞいてきました。まあ皆さん考えることは同じで、長い行列が待っていました(笑)。

1時間ほど列に並んで古墳の下へ、ここから20人程度を1組にして昨日の雨でぬかるんだ丘を登っていきます。けっこうな急坂で2人ほど見事にすべっていました。山城登りと同じですなあ。

被葬者は分かっていませんが富雄のトミは登美、鳥見という神武天皇以来の地名の地ですから、有力者でしょうね。

興隆寺町 八坂神社

椿尾上城へ行く途中に八坂神社があったので寄ってきました。八坂神社は尾根上にあり神社の両横が崖になっていて、まるで切岸のよう。山城として活用できそうな場所です。

八坂神社
八坂神社

八坂神社は興隆寺町にあります。ただ興隆寺町という名前ながら肝心の興隆寺が見当たりません。Googleマップにも出てこないので、こういう時は法人番号検索です。興隆寺町で検索すると4件ヒットして、八坂神社もありましたが、探している興隆寺がありませんでした。

近くにある興隆寺城について調べると中心部は藪だらけで踏破できないとあり、断念したんですが城へ登る途中に廃寺跡があるそうです。これが興隆寺だったんでしょう。

柿本寺跡

和爾下神社の階段を降りたところに礎石の一部があり、柿本寺(しほんじ)跡の碑がありました。和爾氏の一族が柿本人麻呂で有名な柿本氏で、ここらへんが本貫となります。柿本寺は柿本氏の氏寺になります。また神仏習合でしたので柿本寺は和爾下神社の神宮寺となります。

柿本寺跡
柿本寺跡

ここは戦場にもなったようで建武4(1337)年に北朝側が和爾下神社、柿本寺に陣取って南朝軍と戦った記録が残っています。和爾下神社は山城のような様相ですから、陣を構えるには最適だったのでしょう。

柿本寺には柿本人麻呂が葬られたと伝わり、人麿信仰が盛んになるにつれ歌塚として有名となります。梅原猛の「水底の歌」では、鴨島沖で柿本人麻呂は刑死していて、いずれにしても石見国(島根県)が終焉の地なのに、なんでここに葬られたことになっているんですかねえ。

和爾下神社

JR櫟本駅を東に行くと和爾下神社があります。階段をずっと登っていく高台にある神社ですが、実は前方後円墳の上に建っています。周りが森になっているので眺めは全然、ゆありません。

和爾下神社
和爾下神社

古代、このあたりを地盤としたのが和爾氏。和爾氏は大和朝廷の外征を担当したようです。隣が天理で物部氏の地盤でしたので、何らかの関係があったのでしょう。また各天皇の后妃に和爾氏が出しており、葛城氏と同様に有力な豪族でした。蘇我氏が台頭してくるとすたれていきます。

仁徳天皇の頃に大宅氏、布留氏、春日氏、柿本氏、小野氏、粟田氏、櫟井氏に分かれていきます。部曲 (かきべ)という私有地が全国にありましたが近江にもあり、湖西線の和爾駅、小野駅という形で名前が残っています。