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1日は自宅近くの枚岡神社へ初詣へ。
2日、3日は興福寺のすぐ近くにある飛鳥荘という旅館に宿泊。奥さんの親戚関係が集まって毎年、泊まっています。朝6時になると興福寺の鐘の音が聞こえ、起床。朝風呂に入っていました。至福の時ですなあ。
春日大社に初詣に行ってきました。枚岡神社を勧請してできた神社なのに本家以上に賑わっています。社殿に入る参詣道では毎年、入場制限が行われています。制限といっても、ちょっと待ったら入れますので伊勢神宮ほどひどくはありません。
帰省している息子が25歳の厄年で、厄落としをするとか言い出すので、春日神社の祈祷所に行ってきました。正月のせいか、たくさんの人が祈祷していました。神主が唱えている内容を聞いていると厄落としやら商売繁盛などのほかに大阪大学合格祈願という切実なもののありました。
神楽などがついて大体30分ほど。1回あたり20名ほどで、小祓いが5000円、大祓いは10000円でした。20名で5000円としても1回あたり10万円。入れ替えなどがありますから45分かかるとすると1日あたり10回ほど可能ですから、ざっと100万円。人件費は神官3名&巫女2名分です。祈祷所さえできてしまえば、お守り代と人権費だけですみますので、なかなかいいビジネスモデルですね。
カテゴリー: 奈良の話題
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大乗院庭園(奈良)
本薬師寺跡
土曜日に畝傍御陵前駅近くでセミナーでしたので、近くにある本薬師寺跡へ行ってきました。写真は塔跡から見た畝傍山です。
大和三山に囲まれた地域で古代には藤原京がありました。西ノ京に薬師寺がありますが、平城京遷都の時に移転しましたので、、ここは「本薬師寺跡(もとやくしじあと)」と呼ばれています。
本薬師寺跡は住宅街を抜けたところにあり、入口に案内がなければ通り過ぎるところでした。小さなお堂と金堂の礎石が残っています。周囲は湿地帯になっていて2つ盛り上がったところがあり、ここが塔跡で、こちらにも礎石が残っています。伽藍配置は西ノ京の薬師寺と同じだったんですね。
680年、、天武天皇が鵜野讃良(うののさらら)皇后【後の持統天皇】の病気平癒を祈願して建立されました。従来は平城京への移転説が主流でしたが、発掘調査によるとしばらく併存していたようで、今は西ノ京の薬師寺は移転ではなく新築説が有力です。ただ本薬師寺と同じ古い瓦が出たこともあり、、西塔は藤原京からの移築だったとする説もあるようです。
ここが邪馬台国? 唐古・鍵遺跡
専門家派遣の帰りに田原本町へ寄ってきました。
ここには弥生時代の環濠集落遺跡、唐古・鍵遺跡があり、楼閣が描かれた土器が見つかったことで有名です。
「出雲と大和」(岩波書店)では田原本町を邪馬台国に比定しています。田原本町という場所は、まさにヤマトの中心地。
都がおかれた飛鳥の地はヤマトの中心部ではなく、少し高地になっていて、中心部からかなり離れた土地です。なんでこんなところへ都を作ったのかなと不思議なんですが、当時、中心部は湿地帯だったという説もあります。
もしくは、唐古・鍵遺跡あたりの部族と、なにかあったかもしれません。神武東征以前にヤマトにいた部族としてはナガスネヒコとニギハヤヒ(物部氏の先祖)ですので、根城にしていたのが田原本町だったのでしょうか。
唐古・鍵遺跡には姫川のヒスイや尾張、吉備の土器も入ってきていて交易の中心地のようでした。この後にできる巻向遺跡も各地から土器が集まっていますので、唐古・鍵遺跡の経済面を継承したかもしれません。
ミュージアムもあり、いろいろな土器が飾られていました。中には土器に犬の歯型がついていて、土器を焼く前に犬がいたずらしたようです。ネズミがひっかいた跡が残っている土器もありました。
水谷神社にお参り
初詣は奈良の春日神社へ
さすがに人が多く、本殿に入る前には入場制限もあります。境内はごった返しているのですが、境内のちょっと離れたところに水谷神社があります。
手向山八幡宮から若草山沿いに歩いて春日神社の神域に入ったすぐの所にある摂社です。水谷家の総本社でして、毎年お参りしています。
というのはウソで、本当は水谷神社(みずやじんじゃ)という名前。
素盞鳴命、大巳貴命、奇稲田姫命が祭られています。疫病難病をはらい病魔を退散する神様。近くを水谷川が流れていて川沿いに水谷茶屋が有り、川には水谷橋がかかっています。と、水谷がてんこ盛り(笑)。
WikiPediaを見てみると兵庫県養父市には本当に水谷神社(みずたにじんじゃ)があるそうで、こっちはぜひお参りしてみたいですね。
天平時代にもあったパワハラ
午後に仕事が終わったので正倉院展へ出かけてきました。奈良へ着いたのは夕方。
正倉院展では閉館90分前からオータムレイトチケットという割引(1000円→700円)があります。この時間帯になると並ばずに会場へ入れ、会場内も人が少ないのでゆっくり見られます。もっとも目玉である瑠璃坏(コバルトブルーのグラス)には長い行列ができていました。
今回はガラス玉とスゴロクなどの遊び道具の展示が多かったですね。白と黒の碁石も展示されていました。いつも楽しみにしている古文書が少なかったのが残念。
古文書の中に天平時代のパワハラ文章がありました。主人公は角勝麻呂という人部。写経生でしたが仕事でミスをしたようで、上司や同僚から「宴を必ず設くべし」と迫られ、親族と思われる角恵麻呂が連帯保証しています。この念書が古文書として残りました。
上司や同僚がミスを表沙汰にしない代わりに宴会を強要したようで、まさにパワハラ。本当に宴会を開いたかどうかは分かりませんが、後の古文書にも角勝麻呂が登場しますので、無事に切り抜けたようです。
先日、「平城京に暮らす」(馬場 基著・吉川弘文館)を読んでいたら、この話が出ていて現物を見られたのはラッキーでした。
「平城京に暮らす」によると、当時は役所でも酒が支給されたそうで、酒がほしいという木簡が残っています。それも「二升ばかり」や「一ニ升」とあり、二升ほしいと直接的に書かないところがいじましいですね。
また腹痛など休暇願の木簡が残っていますが、中には図太いのもいて無断欠勤がけっこうあったようです。役所が無断欠勤者のリストを作って呼び出したりしています。呼び出しがあると別の理由をつけて、また休む厚かましいヤツもいて、いつの時代も変わりませんね。
奈良の正月
1月2日&3日と奥さんの実家の奈良へ。最近は興福寺近くの飛鳥荘に泊まり、親戚が集まるスタイルになっています。
まずは春日大社へ初詣。奈良駅からずっと人の列が続き、神社の境内にはずらっと屋台が並んでいます。去年は入口階段で入場制限していたのですが、今年は入場制限なく、そのまま入れました。やっぱり境内は人でごった返していました。
飛鳥荘にそうそうに戻り、16時から大浴場に入れるので、さすがにこの時間から入っているお客はいませんでした。(笑)広々としたお風呂でのびの
びと。夜は露天風呂へ。飛鳥荘の目の前が興福寺の五重塔なので、露天風呂からライトアップされている五重塔が目の前に見れます。なかなか幻想的。食事は正
月仕様になっていて、なかなか華やかなんですが量が多かったですね。
朝は夜明け前の興福寺に行ってきました。南円堂は7時前からお参りする人が多いんですね。お坊さんの般若心経の声が響いていました。高校ラグビー
チームが奈良のいろいろな宿舎で合宿していますが、南円堂に30名ほどがお参りしていました。今日にでも花園で試合があるのでしょう。
織田信長が切り取った蘭奢待
正倉院展へ行ってきました。
土曜日の昼中はとんでもなく混雑していますので、閉館1時間半前から入れるオータムレイトチケット(割引チケット)を買って入館しました。
すっかり日が暮れた興福寺と春日神社の参道を通って奈良国立博物館前へ。少し切符売り場で並んでオータムレイトチケットを買い博物館入口へ。列は100メートルほどで、すんなり入れました。中はまだ混雑していましたが終了30分前になるとガラガラです。
入口近くにあった蘭奢待をじっくり見ておりました。蘭奢待とは香木で正倉院に伝わっています。蘭奢待の文字の中に”東・大・寺”が入っています。
この香木、天下を取った権力者が切り取ることで有名です。蘭奢待には3つの白い紙が貼られていて、足利義政、織田信長、明治天皇が切り取ったあとと書かれ
ていました。明治天皇まで切り取っていたんですね。しかも織田信長よりも大きく切り取っています。
以前、新聞に東大寺の大仏足元から明治時代に見つかった刀が1250年間行方不明だった宝剣「陽宝剣」「陰宝剣」とエックス線調査で分かったと報
道されましたが、光明皇后が献納したもので刀の名前が印された国家珍宝帳も出展されていました。いつもに比べると古文書の出展が少なかったですね、天平時
代の欠勤願いなど楽しみにしていたんですが。
写真は猿沢の池から見た夕焼けです。
朱雀門(平城京)
JR奈良駅から関西線で伊賀の企業さんへ
帰りに平城京跡をのぞいてきました。近鉄の車窓からいつも見ているのですが、歩くのは久しぶりです。夕方で施設などは全て閉まっていますので、とりあえず朱雀門へ。朱雀門の前には朱雀大路が復元されており、幅は70mで、大宮通りまで220m続いています。実際に立ってみると実に幅広いです。
朱雀門から大極殿一帯では去年、平城遷都1300年祭を行いましたが会場跡はすっかり片付いていました。復元された遣唐使船はそのままで、平城京歴史館はまだ営業しているようです。平城京の中心地が大きな公園として残っているのはいいですね。