薬師寺荘園

薬師寺荘園
先日、大和郡山市の九条町を歩いていると”薬師寺荘園”という看板を見つけました。
薬師寺の荘園でもあったのかと思ったら、どうも地名のようで付近には薬師寺荘園第1号児童公園、薬師寺荘園第2号児童公園、薬師寺荘園第3号児童公園というのまでありました。九条の隣が西ノ京で薬師寺に近いですから昔、荘園があったかもしれません。
いろいろと調べると薬師寺は源氏の氏寺になっていて、薬師寺の俗別当を源氏長者がつとめていました。東大寺も源氏の氏寺になっています。どうも東大寺には手向山八幡宮があり、薬師寺には休ケ丘八幡宮があるからのようです。

1400年前に起きた乙巳の変 入鹿神社

入鹿神社

大和八木駅近くにあるのが小網町と曽我町、蘇我氏の本拠地です。
最近の研究では蘇我氏は葛城氏の一族で、曽我地域を拠点にしていたことから蘇我氏と名乗りました。乙巳の変(622年)のクーデターによって蘇我本家が滅びましたが、蘇我氏そのものは名前を変えて生き残り、有名なのが石川氏です。
蘇我一族
川辺臣氏-十市郡川辺郷
田中臣氏-高市郡田中宮
小治田臣氏-高市郡小墾田宮
桜井臣氏-高市郡桜井豊浦宮、河内郡桜井郷、石川郡桜井宮
岸田臣氏-山辺郡岸田村
高向臣氏-錦部郡高向村
小網町には入鹿神社があり、”全国にここだけ、蘇我入鹿公をまつる神社”という幟がはためいています。伝説では乙巳の変で入鹿の首がここまで飛んできて祀ったのがきっかけで頭痛に霊験があるそうです。
小網町の住人は筋金入りで守ってきたようで、明治時代に入り、皇国史観が中心となった時代に入鹿を祀るのはどうかと政府に言われ、祭神をスサノオに、神社の名前を小網神社に変更しろと言われましたが、拒否したそうです。また明日香村小原は中臣鎌足の母の出身地ですので絶対に縁組しないなどの伝説が残っています。

耳成山から藤原京へ

藤原京
耳成山へ登った後、せっかく大和八木まで来たので少し南にある藤原京跡へ行ってきました。
以前まで藤原京は大和三山に囲まれたエリアに作られたと考えられていましたが発掘調査の結果、めちゃくちゃ大きく、平安京や平城京よりも大きかったことが判明しています。北には玄武大路、南には朱雀大路が整備されていました。北をつかさどる玄武は耳成山です。
藤原京は飛鳥から694年に持統天皇が遷都しました。といっても平城京跡と一緒で、何も残っていません。大極殿の土壇が少し高くなって残っているのと、発掘調査したところの柱跡が再現されているだけです。あとは野球をやったり、運動場になっています。
日本書紀は新益京という名前でした。ここらあたりは藤原という土地名で、飛鳥京と同様に藤原京というのは学術用語です。藤原鎌足はこのあたりの出身のようで中臣から藤原に名前を変えました。

飛鳥苑

飛鳥苑
大晦日から正月にかけては津へ帰省。三重県産業支援センターへは実家から行っているので、あんまり新鮮味がないですねえ(笑)
2日、3日は奥さんの親戚が奈良の飛鳥苑(猿沢の池のすぐそば)に集まります。飛鳥苑の露店風呂は目の前に興福寺の五重塔が見えるのが値打ちですね。ちょうど夜明けにあわせて露店風呂に入ると、朝日をあびる五重塔を風呂から見ることができます。
写真は飛鳥苑のロビーにあった鹿の人形。

本当は十条まであった平城京

羅生門
平城京の朱雀大路入口にあった羅城門跡です。
実際に羅城門があった場所は佐保川の堤防の下で、佐保川にかかる羅生門橋からは遠く大極殿を望むことができます。この羅城門の礎石の一部は大和郡山城の天守閣の石垣に転用されています。石材がなかったため、なんでも転用したんですね。
羅城門は九条通りにあったのですが、実は平城京は最初、十条通りまであったことが発掘で判明しています。藤原広嗣の乱があった後、聖武天皇は都を平城京から恭仁京へ、次に紫香楽宮や難波宮へ移します。5年後に平城京に戻っていますが、この時までに九条までとコンパクトになったようです。
平城京の前の藤原京が十条でしたので平城京も最初はあわせたんでしょうね。朱雀大路の東側では遺構が見つかりましたが反対側の西側で遺構が見つからず、考古学の疑問の一つになっています。

正倉院展 天平時代も大変だった

正倉院展
山城などを3つ巡ってから奈良国立博物館へ。第67回正倉院展です。
いつも通りオータムレイトチケットで入場。閉館の1時間30分前から発売される当日券で、夜に行くと待ち時間なしです。入口を入ったところに紫檀の琵琶があり、さすがに人だかりしていました。裏面はルイビトンのモノトーンにそっくりですね。
正倉院展の入口に正倉院特集の読売新聞がいつも置いてあるんですが、そこにも「バッグの柄によく似ている」と書かれていましたので、皆、同じことを感じるんですね。
いつも楽しみにしているのが古文書。大津大浦という人が書いた書状が納期をのばしてほしいという内容。解説によると前に納期を伸ばしてもらったけど、責任者が出張中で、その納期に間に合いそうもないという理由が書かれているようです。いつの時代も大変なんですね。
あと反古紙になった文章の上に手習いで七夕の詩が書かれていました。七夕といっても「笹の葉さらさら~」ではなくて五言律詩。漢詩を覚えるために天平人がひたすら練習したんですね。出世に響いたのかなあ。本当にいつの時代も大変です。

身代り申(奈良町)

身代り申
奈良町を歩くと家々の軒先に赤いぬいぐるみが列になってぶら下がっています。身代り申です。
奈良町はかつて元興寺の敷地内で、火災で焼けてしまった本堂跡に建っているのが庚申堂。庚申とは人のお腹のなかには「三尸の虫」という虫がいて、庚申の日の夜に人々が寝静まってから体からぬけだし、その人がしてきた悪事を天帝に告げにいくといわれています。
天帝が天の邪鬼に命じてその人に罰を与えるので、人々は三尸の虫がぬけださないように寝ずに過ごす習わしがありました。上方落語の「宿屋仇」などのテーマにもなっています。
さらに心配な人は天の邪鬼が嫌いな「身代り申」を吊るし、三尸の虫の嫌いなコンニャクを食べて悪魔を退散させます。庚申の日に徹夜する風習はなくなりましたが身代り申をつるし信仰は奈良町に残っています。
元興寺は蘇我入鹿が建立した日本最古の法興寺を平城京へ移転したものですが、不思議なことに元の法興寺はそのまま残っています。また元興寺は童子による鬼退治で有名ですが、この童子がやがて法師となり、故郷へ帰って建てたのが尾張元興寺。金山駅のすぐそばにあります。

奈良の正月

せんとくん
大晦日から正月にかけて津へ帰省していましたが、仕事でしょっちゅう津へ行っているので新鮮味はほとんどなし(笑)。
2日、3日は奥さんの実家の奈良へ。
最近は猿沢池近くの飛鳥苑に親類中が集まって一泊しています。飛鳥苑には露天風呂があり朝6時からやっていますので毎年、入っています。露天風呂の目の前に興福寺の五重塔があり、朝6時には興福寺の鐘がなり、なかなか風情があります。黎明の中で見る五重塔もオツですねえ。
朝から飛鳥苑のすぐ近くの奈良町を散策しましたが、観光客が多いですねえ。円安の影響か海外からの観光客も多かったです。

正倉院展

正倉院展
正倉院展、いつもは平日の夕方に行くのですが、今年はうまく予定があわず本日、奥さんと出かけてきました。といっても混む昼間ではなく、オータムレイトチケットの時間帯。
オータムレイトチケットというのは閉館の1時間30分前より入場できる当日券で、今日は日曜で19時まで開館してますから17:30から入場できます。また800円の割引券にもなっていてお得。(通常は1,100円)
さすがに日曜なのでオータムレイトといえども少し混んでいました。 もっとも入場の待ち時間はなし。また18時半ぐらいに入口近くまで戻ると人はほとんどいませんので崑崙や酔胡従の伎楽面も間近で見られます。
正倉院展では毎回、写経生の古文書を楽しみにしているんですが、今年はなかったですね。その代わり恵美押勝が書いた、東大寺封戸処分勅書がありました。力強い筆跡の文章で最期には藤原恵美朝臣と記載。恵美押勝といえば藤原仲麻呂のことで、日本史に出てきた藤原仲麻呂の乱(孝謙天皇・道鏡と対立しクーデターを起こそうとして失敗した事件)の張本人。
以前、写経生が夜中に起こされて正倉院から武器を取り出した古文書が正倉院展で展示されましたが、これが藤原仲麻呂の乱に備えたものでした。写真は閉館間近の奈良国立博物館です。

うまし うるわし 奈良(新薬師寺)

新薬師寺
明日は雨になりそうですので、今日のうちに奈良へ。
山を越えたら生駒ですので、奈良までは30分ぐらいで着きます。猿沢の池から頭塔横を通って新薬師寺へ。十二神将と萩で有名ですが萩はまだはやかったですね。十二神将は奈良時代のもので全て国宝。十二支の守護神としても信仰されています。境内は暗く、天井からのライトとロウソクの炎で幻想的です。
奈良は秋の行楽シーズンに入ったためか修学旅行生などで一杯。興福寺の国宝館駐車場にも観光バスがずらっと並んでいました。国宝館には板彫十二神将立像があるんですが、展示のやり方が変わり、一直線にずらっとではなく三面に並べる展示に変わっていました。これから観光客がますます増えるシーズンですね。
三条通の中谷堂(高速餅つきで有名)前にはいつものように観光客が鈴なりになっていました。
→ うまし うるわし 奈良