磐余若桜宮

磐余若桜宮

上之宮遺跡から下っていき桜井駅が近づいてくると稚櫻神社があり、ここが第17代履中天皇の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)比定地です。

境内には桜井の名前の元になった「櫻の井」という井戸もあります。日本書紀によると履中天皇は磐余池を造り、船遊びをした時に杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、磐余稚桜宮としたとされています。ところが磐余池がどうもずっと西にある東池尻・池之内遺跡(中ツ道沿いにあります)だったようですので、近くにある磐余稚桜神社が磐余若桜宮のようです。こっちも高台になっています。

上之宮遺跡

多武峰街道を少しはずれて上之宮遺跡へ

上之宮遺跡

河岸段丘の上ですので高台になっていて住宅地の真ん中に公園があります。このあたりから6世紀末ぐらいにつくられた大きな邸宅跡が見つかりました。邸宅だけでなく庭園も整備されていて石組みによる園池遺構が見つかり復元されています。水の祭祀場遺構という説もあります。

■聖徳太子の上宮?
遺跡が見つかった時、大騒ぎになったのが聖徳太子の上宮(かみつみや)ではないかという報道です。聖徳太子が幼少の頃、磐余(いわれ)に住んでいました。宮殿は上宮と呼ばれ、聖徳太子は上宮厩戸豊聰耳太子と呼ばれていました。日本書紀によると斑鳩に移るまで住んでいたようで、父である用明天皇の磐余池辺犨槻宮の南に上宮があったということです。

磐余池辺犨槻宮の伝承地が2つあり、1つが石寸山口神社周辺で、もう一つが吉備春日神社です。これなら上之宮遺跡が南側にあるので上宮の可能性が高くなります。ところが2011年に人工池の堤跡などが発見され、これが磐余池ではないかといわれています。伝承地のずっと西にあります。こうなると上之宮遺跡は東南になりますので、このあたりを拠点にした安倍氏関係かもしれません。

崇峻天皇陵

崇峻天皇陵

倉梯柴垣宮のすぐ近くに崇峻天皇陵があります。592年、崇峻天皇は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されて、その日のうちに倉橋岡上陵に葬られました。東漢直駒は口封じなのか蘇我馬子に殺されました。

明治になってから崇峻天皇陵として比定されましたが、崇峻天皇をまつった金福寺が以前にあり、跡地を古墳でもないのに比定したようです。江戸時代までは近くにある赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵と言われていました。赤坂天王山古墳は石室に入ることができ、「会いに行ける大王墓」ということで今城塚古墳(継体天皇)と同じですね。

尼ヶ辻駅からずっと西に行った安康天皇陵も戦国時代の城跡を天皇陵に比定したようで、けっこうめちゃくちゃです。飛鳥の牽牛子塚古墳は八角形墳ということが分かり斉明天皇陵と言われています。

倉梯柴垣宮

倉梯柴垣宮

下居出城跡から多武峰街道を下っていくと倉橋という集落があります。倉橋は高台なので桜井や耳成山が見え、遠くには二上山がのぞめます。ここに第32代崇峻天皇の倉梯柴垣宮(クラハシシバガキノミヤ)の伝承地があります。倉橋は倉梯と書かれていました。崇峻天皇は暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇です、犯人は東漢駒、蘇我馬子が命じたといわれています。蘇我馬子に擁立されて即位したのに、えらい梯子外しです。

倉橋はけっこうな高台で飛鳥からも離れていますので、蘇我氏や大夫(マヘツキミ)と距離をとらざるをえない事情があったのでしょう。倉橋から飛鳥に出るには談山神社まで登って西に下るか、多武峰街道を下って上の宮から山田道に入るしかないです。崇峻天皇の後は推古天皇が即位します。

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

神武天皇は吉備高島宮から船で大阪湾に入り、大阪平野は梅でしたので生駒山の麓の港である日下に到着。ここから生駒山を超えて大和に入ろうとしましたが、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。

長髄彦の本陣が生駒市白庭台の住宅地にあります。近鉄けいはんな線の白庭台駅からちょっと行った矢田丘陵の北の先にあり生駒山を超えてきた敵を高台から迎え撃てます。もっとも生駒山に前線をおいていました。長髄彦は登美能那賀須泥毘古と記載され頭に登美(とみ)がついています。現在も登美ヶ丘や富雄駅の名前が残っているので、このあたりに本拠地があったようです。

正倉院展2024

夕方からインバウンドで賑わう奈良へ。

正倉院展

東向商店街を歩くと修学旅行生以外、日本語が聞こえてきませんなあ(笑)。明治以来120年ぶりに保存修理工中の五重塔を抜けて奈良国立博物館へ。正倉院です。16時過ぎからレイト割(昔はオータムレイトチケットでした)になりますが16時30分過ぎに入れば誰も並んでいませんし、会場も混んでいません。

■天平時代の盗難届
面白いのが古文書で棚卸の記録など、いろいろありましたが盗難届がありました。下級完了が天平7年(735年)に左京職へ提出した文書です。服はもちろん酒器、弓など家財も根こそぎやられていました。

盗難届を受理した左京職から東市司に盗品は市で売りさばかれるから目を光らせておくように出した命令書もありました。無事に見つかったかどうかまでは分かりません。

正倉院展2023

正倉院展

正倉院展はコロナ禍以降、予約制になっていますのでレイトチケットを予約、平日だと入場は16時からで500円割引されて1,500円になります。インバウンドで一杯の「ひがしぬき商店街」を抜け、修理工事が始まった興福寺の五重塔を眺めながら国立博物館に16:30頃に行くと入口には誰もいません。会場内はそれなりに混雑していますが17時で入場がストップになるので、どんどん人が減っていきます。

螺鈿装飾された鏡と琵琶は目玉ということもあり人気ですね。面白かったのが常陸国から送られた白の反物です。古代の税制で租庸調を習いましたが、調とは繊維製品を納めるのが基本で布で納めると調布と呼ばれます。展示されている反物は調布そのものでした。あと道鏡直筆の文章がありました。「鏡」は独特の書体のサインで鏡とはよめませんね。道鏡は孝謙上皇の病気を治したことから寵愛を受け、道鏡を天皇の位につけようとした時に和気清麻呂が阻止した事件で有名です。道鏡は物部氏系の弓削氏で、孝謙上皇がたびたび行幸した由義宮はJR志紀駅のすぐ近くにあります。

空白の4世紀(西山古墳)

船場総研の待ち合わせ時間が午後でしたので少し早い目に天理へ。まずは天理ラーメンです(笑)。彩華ラーメンと天理スタミナラーメンの2つがあるのですが、商店街にあった天スタを食べてきました。本当は豊田城へ登ろうと考えていたのですが、朝まで雨でしたので、さすがに山道は無理だなとあきらめ、西山古墳を目指します。

天理スタミナラーメン

■空白の4世紀
西山古墳は天理高校の敷地内にある日本最大の前方後方墳です。長さは183mと100m超えになっています。変わっているのが形で1段目は確かに前方後方墳ですが、その上に前方後円墳がのるハイブリッド型になっています。なんで、こんな変わった古墳を造ったんですかねえ。石上神宮が物部氏の武器庫で天理といえば物部氏の本拠でしたので、被葬者は物部氏とみられています。

西山古墳

西山古墳が造られたのは「空白の四世紀」と言われる時代です。邪馬台国の時代から100年以上、中国の歴史書に倭が登場せず、「空白の4世紀」と言われています。先日、日本最大の円墳である富雄丸山古墳から、だ龍文盾形銅鏡と2mを超える蛇行剣が発見されましたが、こちらも「空白の4世紀」に造られました。富雄丸山古墳も100mを超えています。

大和西大寺

大和西大寺

京都や奈良へ行く時、しょっちゅう乗換しているのが大和西大寺駅。昔、近鉄が「スルッとKANSAI」に加盟する前は大和西大寺駅で途中下車できたので近鉄百貨店などに寄っていましたが、途中下車できなくなってからは乗換でしか使っていません。そうそう生駒駅や布施駅でも途中下車できました。

駅の改札を出て、駅のすぐ近くにある西大寺へ。名前の通り東大寺に対して造られたお寺です。造ったのは聖武天皇と光明皇后の一人娘だった称徳天皇です。西大寺が出来たきっかけは聖徳太子の四天王寺と同じです。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起きた時に称徳天皇が対仲麻呂戦の勝利を祈願して、四天王寺の発願をしました。物部守屋との戦での四天王寺の守護を受けて物部氏を倒した故事にならいました。乱がおさまり約束通りに四天堂を建立。これが西大寺に発展していきます。

大伽藍でしたが平安時代の火災などで建物が消失。西大寺の面影を残すのは五重塔基壇だけです。

暗峠奈良街道の終点

朱雀大路

近鉄・尼ケ辻駅の北側にある暗峠奈良街道を下っていくと阪奈道路と合流し広い道になります。そのまま東に進むとJR奈良駅を過ぎたあたりから観光客があふれる三条通りになって猿沢の池と興福寺の間を通り、春日大社の一之鳥居にぶつかります。ここが暗峠奈良街道の終点で江戸時代は南に下って、初瀬から伊勢を目指しました。

さすがに春日大社まで歩くのはしんどいので、もともとの街道の終点であった平城京の朱雀大路で終了。幅75mの朱雀大路が羅城門から朱雀門まで4kmにわたって続いていました。この朱雀大路は藤原京の下つ道と連結していました。