信太の森

信太の森

高石まで出かけたので、帰りは南海・高石駅ではなくJR北信太駅を目指します。駅の近くにあるのが信太の森です。といっても住宅街になってしまい葛葉稲荷神社の周辺だけにしか緑は残っていません。信太の森は安倍晴明「葛の葉伝説」の舞台です。京都の晴明神社には、毎日たくさんの参拝客が訪れますが、葛葉稲荷神社には誰もいません(笑)。

■信太の森
安部保名(清明の父)が信太の森で狐を助けたところ、恩返しとして狐が女性となって現れ、やがて結婚し童子丸という子供をもうけます。この童子丸がのちの安部清明です。生まれたのは阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅近くの熊野街道沿いに安倍晴明神社があり、ここが生誕地といわれています。葛葉稲荷神社よりは参拝客が多いです。

ところが童子丸が7歳のとき、妻の正体が狐であることがばれてしまいます。狐は全ては稲荷大明神の仰せと告白し「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌を残して消えます。

■葛葉城
大阪ではきつねうどんを「しのだ」とも言いますが、この信太の森からきています。また、ほとんど知られていませんが葛葉稲荷神社の境内一帯に葛葉城が築かれ土塁の一部が境内に残っています。

綾井筋

綾井筋

高石の地図を見ていると綾井筋という斜めに町を横切っている不思議な道があります。名古屋には栄のテレビ塔から斜めの道があり、こちらは飯田街道なので綾井筋も街道の跡かなと思って現地に行ってみました。なんの変哲もない道で案内も何もなく、市役所前通りなどを斜めにつっきっています。

古地図を調べると現在、鴨公園になっているところに鴨池という大きな池がありました。この池のへりを通る道があり、そのまま斜めに続いて今の取石中央線につながっています。第二阪和ができた時に、この斜めの道の一部がなくなって、高石駅周辺にだけ斜めの道が残ったようです。斜めの道の後に市役所前通りなどが作られます。

1935年(昭和10年)頃の地図に、この斜めの道はなく、戦後に作られたようですね。街道沿いにあった取石池もなくなっており、同じ頃に工事が行われたようです。

綾井の清水

綾井の清水

高石商工会議所の近くに綾井の清水がありました。綾織のように美しい水が沸くことから綾井になったそうで、綾井の地名の元になります。綾井の清水は農業用水などに利用されていましたが、今も街中に水路が通っており暗渠になっていないのがいいですね。

綾井はけっこう古い地名のようで中世には綾井荘がありました。綾井荘は広い範囲に分布していたようです。明治時代は取石村大字綾井として隣の取石(とろし)に取り込まれていました。取石も古い地名で奈良時代まで左溯れます。かって取石池があり万葉集に「妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぎぬらし」とうたわれています。聖武天皇が紀伊行幸の際には取石に頓宮がありました。渡来系氏族である取石造の居住地ともいわれています。

西国街道をゆく(山崎の合戦跡)

山崎の合戦跡

山崎宿から東を目指します。まずは山崎の合戦跡。天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が発生し、6月13日に行われたのが山崎の合戦です。摂津から西国街道を進んできた秀吉軍と明智軍がぶつかります。天王山の戦いとも言いますが、実際に戦いの舞台になったのは山崎宿から少し東にいった小泉川になります。今は大山崎JCTがあります。

明智軍は川沿いに柵をもうけ長篠の戦いの再現を目指したという説もあります。戦いは雨が降る中、夕方にはじまったようで、最初は双方とも互角の戦いだったようです。秀吉側の池田恒興らが小泉川を渡り、明智軍の側面から攻撃したため浮足立った明智軍の雑兵が逃げ出し総崩れになります。

中家住宅

中家住宅

大阪府よろず支援拠点のお仕事で一昨日は泉佐野納税協会で「DX化支援のための補助金」のセミナー、昨日は熊取交流センター「すまいるズ煉瓦館」で「IT/IoT・DX推進入門セミナー」というタイトルのセミナーをしてきました。すまいるズ煉瓦館は昭和初期の綿布工場を保存再生した建物で煉瓦塀などがよ風情あります。隣に中家住宅がありセミナー前にのぞいてきました。後白河法皇が熊野行幸の時に行宮とした旧家です。江戸時代の建物が残っていますが、中家はもともと源平の頃からの武士で往時は堀などもあったそうです。

日根野、熊取ともに関空のすぐ手前にあります。南海は難波から空港直通の急行が出ていますが、JRは天王寺から8両編成の急行が出ていて日根野で切り離し、前4両が空港行きで後ろ4両が和歌山行きになります。電車に乗るとインバウンド客であふれていますが、後ろ4両がねらい目です。途中アナウンスで「このまま乗っていると和歌山へ行ってしまう」と、停車駅でスーツケースを引きづり前の車両への移動が始まり車内がすきます(笑)。切り離しに時間がかかるので日根野駅で十分なんですが、そうは思わないでしょうね。

西国街道をゆく(多田街道との辻)

多田街道との辻

西国街道と多田街道と交差する辻があります。多田街道はここから北に向かい多田神社の参詣道として栄えました。多田神社は多田(源)満仲の屋敷跡で清和源氏発祥の地です。源満仲は多田を所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成します。大河ドラマ「光る君へ」でも描かれた花山天皇退位事件にも絡んでいます。

源満仲の三男の源頼信を祖とするのが河内源氏で、源頼朝はこの系譜です。足利尊氏も多田源氏を祖としています。家康は本当かどうかわかりませんが清和源氏と主張していたので江戸時代も多田神社に寄進などがされ賑わっていました。

西国街道をゆく(桂春団治の碑)

桂春団治の碑

弁慶の泉の近く、西国街道沿いにある受楽寺という寺の前に桂春団治の碑がありました。春団治といえば「酒や! 酒や! 酒買うてこい!」という浪花恋しぐれを思い出しますなあ。説明によると上方落語の名跡である桂春団治名継いだ2代目が清荒神に住んでいた頃、よく受楽寺を訪れ、先々代の住職と交流があったそうです。宝塚にある清荒神と池田ではまあまあ離れているんですけど、「池田の猪買い」など上方落語の舞台ではあります。

初代は一心寺に葬られましたが戦争などで墓碑が分からなくなったこともあり、1998(平成10)年、初代と2代目春団治の功績を称えて碑が建てられたそうです。池田市では受楽寺で初代・2代目・3代目 春團治の法要を行い、2000(平成12)年から「いけだ春団治まつり」を行っているそうで、今年は25周年だったそうです。

西国街道をゆく(弁慶の泉)

弁慶の泉

石橋から西国街道を歩いて中国自動車を通りすぎたところにあるのが弁慶の泉。義経は頼朝との対立から九州で体制を立て直すために京から落ちます。目指すのは大物(だいもつ)です。尼崎駅の手前に阪神の普通しか止まらない大物駅がありますが、昔は大物浦があり、ここが海上交通の要衝でした。

京から西国街道で西に向かい、ここらあたりで弁慶が泉で喉の渇きをいやしたと伝わっています。泉は時代とともに埋没していましたが、昭和53年に湧き水があるのが見つかり整備されました。義経一行は猪名川の渡しを渡ったところから南下して大物を目指したのでしょう。河尻に着いたあたりで多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退しています。多田行綱は義経と一緒に一ノ谷戦いなどに参戦していますが、頼朝に所領を没収され行綱自身も追放になっていたので、頼朝に取り入ろうと襲撃したようです。

義経一行は大物から船団を組んで九州へ船出しましたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまいます。

西国街道をゆく(石橋)

石橋

瀬川宿を抜けると西に向かっていた西国街道は南西へ方向を変えます。阪急・箕面線を超えて歩いていくと大阪大学・豊中キャンパスの横に出て阪急宝塚本線・石橋駅の南へと街道は続きます。石橋駅の南にある踏切近くに石橋村の高札場跡があり、北へ向かう能勢街道と交差していました。ここに石の橋がかかっていたため石橋と呼ばれるようになったそうです。

西国街道沿いには、お屋敷がんこ「がんこ池田石橋苑」がありました。がんこ寿司が文化遺産を守るために、屋敷で料理を楽しめや庭園などを眺めることができる店舗を運営しており、石橋は大正時代に北摂の土木建築で財をなした中井梅太郎の邸宅が使われています。

西国街道をゆく(瀬川・半町)

瀬川・半町宿

阪急電車箕面線の桜井駅前を通っているのが西国街道です。少し西に行くと瀬川・半町(はんじょう)宿になります。山崎宿からだと芥川(高槻)、郡山(茨木)の次の宿場が瀬川・半町宿です。といっても痕跡はなにも残っていません。大勢の軍が移動するには街道を使うしかありませんので、ここらへんで戦いが行われます。

瀬川合戦
護良親王による倒幕の令旨に従って播磨の赤松則村(円心)軍が六波羅探題軍と対峙します。猪名川付近の戦いで赤松側が敗退しますが、兵を率いて瀬川宿に陣をかまえていた六波羅探題軍に夜襲をかけ、打ち破りました。

豊島河原合戦
倒幕後、南北朝の時代となり足利尊氏と新田義貞・北畠顕家が戦ったのが瀬川宿から少し西に行った箕面川のあたりです。豊島河原合戦で足利尊氏は敗れ九州に落ちていきます。