宇土墓古墳

淡輪駅のすぐ横にあるのが宇度墓古墳。近くに陪塚が5基残っています。全長200mの前方後円墳で作りだし部分もよく見えます。

宇土墓古墳
宇土墓古墳

宮内庁では垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の墓と比定しています。五十瓊敷入彦命は日本書紀の逸話に出てくる王子で垂仁天皇が兄弟に欲しいものを聞いたところ五十瓊敷命は弓矢を、弟は皇位を望んだので弟が即位して景行天皇となります。

■お父さんの垂仁天皇も同じ
どっかで聞いた話で崇神天皇が兄弟のどちらに皇位を継がそうとした時に夢占いをしました。兄は三輪山に登って,東に向かって槍や剣を振った夢を見たといい,弟は三輪山の山頂で縄を四方に張りめぐらして粟をついばむ雀を追い払う夢を見たと言ったところ弟を垂仁天皇にし、兄は東国を治めることになり上毛野君,下毛野君の始祖となります。2代にわたってこんな話になっているんですね。

垂仁天皇の娘が倭姫命で御杖として天照大御神を伊勢へ連れていき伊勢神宮を作った人物です。景行天皇の息子がヤマトタケルですね。まだまだ国としてまとまっていない時代ですので皇子といえども戦っていた時代です。このあたりは紀伊と和泉の中間点となり海の交通路の要所でしたので古墳群が形成されています。

池上曽根遺跡

池上曾根遺跡
池上曽根遺跡

せっかく泉大津に行ったなら、はずせないのが池上曽根遺跡です!南海からJRの方まで歩いて行ってきました。

池上曽根遺跡は弥生時代中期頃の環濠集落で真ん中には大型の掘立柱建物があり復元されています。出土した柱のうちの1本が紀元前52年に伐採されたことが分かっていますので、この頃に建てられのではと言われています。

環濠つまり堀は二重になっていて環濠の中には大型建物の他に金属器の製作工房がありました。巨大な井戸もあり、大型建物は神殿&集会場として使われていたと類推されています。

環濠の周りにたくさんの竪穴住居が建てられ、水田が拡がり遺跡は南北約1000メートル、東西500メートルと広大です。こうなると都市ですね。こういった都市が最初のクニとなっていくのでしょう。

峯ケ塚古墳

羽曳野市商工会の目の前にあるのが峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)。世界文化遺産・古市古墳群の中にあり5世紀末頃につくられたようです。前方後円墳で上に登ることができ、眺めはいいですね。発掘で二重濠があったことが判明しており、被葬者は大王級の権力のある人物と想定されています。今城塚古墳と同様に「会いに行ける大王墓」です。

峯ケ塚古墳
峯ケ塚古墳

古墳群はもともと大和の東側にありオオヤマト古墳群を形成していましたが北の佐紀古墳群へと移り、西の馬見古墳群が作られ、やがて百舌鳥・古市古墳群となります。王権のなかで主流派・反主流派などのいろいろな動きから分裂していったようです。

■大坂の陣 誉田の戦い
戦国時代となり羽曳野一帯は大坂夏の陣の舞台となりました。道明寺・誉田の戦いでは応神天皇陵や仲哀天皇陵などを中心に真田信繁、毛利勝永、薄田兼相、明石全登らが防衛線をひきます。古墳が密集しているので徳川軍が進むには古墳と古墳の間を分散して進むしかありません。

大軍の利点をなくして迎え撃つ作戦でしたが八尾・若江の敗戦が伝わり、大坂城へ引き返すことになります。峯ヶ塚古墳の上からも徳川軍を眺めていたかもしれません。

白鳥陵

竹内街道(飛鳥と難波を結ぶ古代の国道1号線)沿いに日本武尊白鳥陵があります。

白鳥陵
白鳥陵

ヤマトタケル(日本武尊)が東方に遠征をした後、伊吹山の荒ぶる神を倒すために山に入ったところ神の祟りによって病気となり、亀山の能褒野で亡くなります。ヤマトタケルは白鳥となって、西の大和を指して飛びったと日本書紀などに出てきます。棺には衣だけが空しく残されたと言われています。

この白鳥の飛行ルートが能褒野→奈良県御所市(大和の琴弾原)→河内古市と飛んだことになり、3箇所にヤマトタケルの墓が作られます。実はもう一回飛んで、降りたところに作られたのが堺の大鳥神社です。

煉瓦館(熊取)

大阪府よろず支援拠点のお仕事で熊取へ。大阪の南で関空の近くです。

煉瓦館
煉瓦館

熊取といえば雨山城と土丸城という山城で有名なところです。熊取にある煉瓦館(熊取交流センター)ホールで「インボイス制度とキャッシュレス」セミナーをしてきました。久しぶりの対面式セミナーで、主催は熊取商工会です。商工会にも会議室があるんですが煉瓦館の方が広いということでセミナーはもっぱらこっちなんだそうです。

煉瓦館はもともと綿布工場だったところを保存・再生したものです。中にはホールや会議室以外にレストランや染色教室などもありました。土地柄なのか、だんじりの展示もありました。山城以外に、こんなおシャレな所があるんですね。

家原寺

行基が生まれたのが堺の家原寺(えばらじ)。慶雲元年(704年)に行基が生家を寺にしたのが起源になっています。明治の廃仏毀釈で荒廃していましたが三重塔などが再建されました。

家原寺
家原寺

行基が出家したのは15歳で、その後、薬師寺で道昭に学んだのが大きかったようです。道昭は、遣唐使として定恵らとともに唐に入った僧で、しかも西遊記で有名な玄奘三蔵に法相教学を学びます。日本に戻ってから全国を遊行し、各地で土木事業したことが行基に影響を与えました。

行基も近畿地方を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業を行います。中百舌鳥駅から泉北高速鉄道で深井駅へ向かう時にトンネルを抜けると線路の両側に菰池が見えますが、これは行基が造った薦江池(こもえいけ)ではないかと言われています。

土塔

奈良の大仏作りの先導者といえば行基です。近鉄奈良駅前の待ち合わせ場所といえば噴水ですがこの噴水の上にいるのが行基です。

土塔
土塔

当時は僧が直接、民衆への布教を禁止されていた時代です。行基は畿内を中心に階層を問わず広く人々に教えを説いていました。これが集団でしたので政権側は異様に恐れていました。つまり反体制派です。しかし灌漑事業や橋をかけるなど民衆のために行っている行動がだんだんと評価され、最後は大僧正までになります。

行基は四十九院を建立したと言われていますが、その一つが生まれ故郷である堺にある大野寺の仏塔です。仕事で堺の深井まで来ましたので昼休みに久しぶりに寄ってきました。

塔といっても薬師寺や法隆寺のような木の塔ではなく土と瓦で作られた塔です。奈良にある頭塔と同じようなものですね。一辺53.1m、高さ8.6mの十三重の塔になっています。

残念塚

大河ドラマ「晴天を衝け」、あれよあれよという間に鳥羽伏見の戦いが終わり函館・五稜郭の戦いまで進んでしまいました。カッコよく土方歳三が出てましたねえ。

鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜は大坂城でもう一戦するチャンスがありましたが、部下をみすてて逃亡。大阪湾の制海権を幕府の軍艦が握っていたのですが、どうもイギリス側から局外中立を守らないかもしれないと脅しをうけていた模様で内戦となりフランスとイギリスの代理戦争になることを怖れた説があります。自分がいなくなった時にまつりあげられそうな松平容保(会津藩藩主)、松平定敬(桑名藩藩主)も連れていきます。

幕末の京都で幕府の政権を担当した一会桑の面々ですので、逃亡するにしても慶喜は用意周到です。主戦派の松平定敬は留守中に桑名藩の家老連中が恭順に決定したため、函館戦争にまで参加しています。最後の新選組に桑名藩藩士が多いのは藩主についていった主戦派の連中が参加したからです。

■残念塚
主がいなくなった大坂城では、逃げるしかなく兵士も船などに乗って江戸に向かいますが、潔しといない面々が残り城に火を放ち、次々と自刃していきました。新政府軍は焼け焦げた建物の中から遺体を回収し、武士の鑑と称賛し埋葬します。これが大阪で「残念塚」と呼ばれる城中焼亡埋骨墳で大阪城公園のはずれにあります。

残念塚
残念塚

■150年前、とてもヤバい国だった
カブールからガニ大統領がさっさと逃げ出し首都が陥落したニュースを見てサイゴン陥落を思い出した人も多いと思いますが、鳥羽伏見の戦いみたいだなと思っていました。今から150年ほど前の日本はとてもヤバい国で、「攘夷」と叫んで丸腰の商人や婦人が惨殺され、大使館が焼き討ちされるなどテロが日常茶飯事でした。あまりに危ない国なので多国籍軍を組織して砲撃したりしています。

安満遺跡

以前、JRや阪急で高槻駅を出てすぐのところに見えていたのが京大農場の広い緑でした。ところが工事がはじまり、「あ~あ、せっかくの緑が住宅地にでもなるのかな」と思ったら遺跡公園になっていました。

安満遺跡
安満遺跡

安満(あま)遺跡で昭和の初めに京大農場を作る時、遺跡があることが判明しました。安満遺跡は弥生時代の大環濠集落跡で何重もの堀と土塁で囲まれていました。つまり初期の城です(笑)。約2,500年前から800年間にわたって栄え、居住域の東西に方形周溝墓群からなる墓域があり東群では100基以上の方形周溝墓がありました。水田跡と一緒に、スキやクワといった木製品、石包丁などの農耕具もたくさん出土しています。

公園としてきれいに整備されレストランやスターバックスなどもあり高槻市民の憩いの場になっています。