家原寺

行基が生まれたのが堺の家原寺(えばらじ)。慶雲元年(704年)に行基が生家を寺にしたのが起源になっています。明治の廃仏毀釈で荒廃していましたが三重塔などが再建されました。

家原寺
家原寺

行基が出家したのは15歳で、その後、薬師寺で道昭に学んだのが大きかったようです。道昭は、遣唐使として定恵らとともに唐に入った僧で、しかも西遊記で有名な玄奘三蔵に法相教学を学びます。日本に戻ってから全国を遊行し、各地で土木事業したことが行基に影響を与えました。

行基も近畿地方を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業を行います。中百舌鳥駅から泉北高速鉄道で深井駅へ向かう時にトンネルを抜けると線路の両側に菰池が見えますが、これは行基が造った薦江池(こもえいけ)ではないかと言われています。

土塔

奈良の大仏作りの先導者といえば行基です。近鉄奈良駅前の待ち合わせ場所といえば噴水ですがこの噴水の上にいるのが行基です。

土塔
土塔

当時は僧が直接、民衆への布教を禁止されていた時代です。行基は畿内を中心に階層を問わず広く人々に教えを説いていました。これが集団でしたので政権側は異様に恐れていました。つまり反体制派です。しかし灌漑事業や橋をかけるなど民衆のために行っている行動がだんだんと評価され、最後は大僧正までになります。

行基は四十九院を建立したと言われていますが、その一つが生まれ故郷である堺にある大野寺の仏塔です。仕事で堺の深井まで来ましたので昼休みに久しぶりに寄ってきました。

塔といっても薬師寺や法隆寺のような木の塔ではなく土と瓦で作られた塔です。奈良にある頭塔と同じようなものですね。一辺53.1m、高さ8.6mの十三重の塔になっています。

残念塚

大河ドラマ「晴天を衝け」、あれよあれよという間に鳥羽伏見の戦いが終わり函館・五稜郭の戦いまで進んでしまいました。カッコよく土方歳三が出てましたねえ。

鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜は大坂城でもう一戦するチャンスがありましたが、部下をみすてて逃亡。大阪湾の制海権を幕府の軍艦が握っていたのですが、どうもイギリス側から局外中立を守らないかもしれないと脅しをうけていた模様で内戦となりフランスとイギリスの代理戦争になることを怖れた説があります。自分がいなくなった時にまつりあげられそうな松平容保(会津藩藩主)、松平定敬(桑名藩藩主)も連れていきます。

幕末の京都で幕府の政権を担当した一会桑の面々ですので、逃亡するにしても慶喜は用意周到です。主戦派の松平定敬は留守中に桑名藩の家老連中が恭順に決定したため、函館戦争にまで参加しています。最後の新選組に桑名藩藩士が多いのは藩主についていった主戦派の連中が参加したからです。

■残念塚
主がいなくなった大坂城では、逃げるしかなく兵士も船などに乗って江戸に向かいますが、潔しといない面々が残り城に火を放ち、次々と自刃していきました。新政府軍は焼け焦げた建物の中から遺体を回収し、武士の鑑と称賛し埋葬します。これが大阪で「残念塚」と呼ばれる城中焼亡埋骨墳で大阪城公園のはずれにあります。

残念塚
残念塚

■150年前、とてもヤバい国だった
カブールからガニ大統領がさっさと逃げ出し首都が陥落したニュースを見てサイゴン陥落を思い出した人も多いと思いますが、鳥羽伏見の戦いみたいだなと思っていました。今から150年ほど前の日本はとてもヤバい国で、「攘夷」と叫んで丸腰の商人や婦人が惨殺され、大使館が焼き討ちされるなどテロが日常茶飯事でした。あまりに危ない国なので多国籍軍を組織して砲撃したりしています。

安満遺跡

以前、JRや阪急で高槻駅を出てすぐのところに見えていたのが京大農場の広い緑でした。ところが工事がはじまり、「あ~あ、せっかくの緑が住宅地にでもなるのかな」と思ったら遺跡公園になっていました。

安満遺跡
安満遺跡

安満(あま)遺跡で昭和の初めに京大農場を作る時、遺跡があることが判明しました。安満遺跡は弥生時代の大環濠集落跡で何重もの堀と土塁で囲まれていました。つまり初期の城です(笑)。約2,500年前から800年間にわたって栄え、居住域の東西に方形周溝墓群からなる墓域があり東群では100基以上の方形周溝墓がありました。水田跡と一緒に、スキやクワといった木製品、石包丁などの農耕具もたくさん出土しています。

公園としてきれいに整備されレストランやスターバックスなどもあり高槻市民の憩いの場になっています。

古代の市役所 嶋上郡衙

今城塚古墳近くにあるのが嶋上郡衙です。ここに儀式の場・庁院や税を納める正倉などが整えられていました。住宅街の小道沿いに案内板はありますが、こんな何もない広場を撮影している人は他におりませんねえ。

嶋上郡衙
嶋上郡衙

郡衙(ぐんが)とは古代の役所のことで律令制度時代に郡の官人(郡司)が政務を執った所です。この辺りは高槻市郡家新町となりますが郡家という地名が残っているのは、郡衙があった場所に多いです。

今でいうと県庁のような国府があり、こちらには国司がいましたが、郡司は在地の有力豪族が勤めて戸籍や徴税を担当していたので今でいう市役所&税務署みたいなものですかね。701年の大宝令によって郡ができましたので、これ以降の行政機関です。

埴輪工場

今城塚古墳の墳丘には膨大な埴輪が並べられていましたが、埴輪を作っていた工房が発見されています。

埴輪工場
埴輪工場

工房は今城塚古墳近くの高台にあり、3棟の大形埴輪工房と周りに18基の埴輪窯が発見され一部が復元されています。窯はなんと登窯になっています。工房で埴輪を成型し、周りの18基の登窯で焼いていました。こうなると分業体制による工場生産ですね。働いていた工人の集落もすぐ近くにあり、職住一致です。帰り道に一杯やる楽しみがないのはいやだなあ。

集落から東海地方の土器が出土していますから、工人のなかには東海地方から来た実習生がいたのかもしれません。また新羅土器も出土しており、日本書紀に新羅人の子孫が住むという「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」という土地名が出てくるので、この場所だと言われています。

最初は太田茶臼山古墳用の埴輪を焼いていたようで、530年頃に規模を拡大して今城塚古墳の埴輪を大量に造っていました。他にも土保山古墳や昼神車塚古墳などの三島の有力者の墓用の埴輪をせっせと作っていました。

氷室

今城塚古墳の近くを歩いていると氷室町といういかにも涼しげな看板が。

氷室
氷室

本当にこんな所に氷室があったんですかねえ。炎天下を歩いていると、にわかに信じられません。

日本書紀・仁徳記に氷室の記事が出てきますが、これはどうやら奈良県都祁(つげ)の福住で発見された氷室跡のことと言われています。氷室は山中に深い穴を掘り、底に茅を敷いて、その上に冬に降り積もった雪を置き、さらに枯れ草や杉皮などで覆い夏まで貯蔵します。これが取り出され宮廷にまで運ばれました。

長屋王邸から発見された木簡では都祁から運んだ氷で日本酒オンザロックを楽しんでいたようです。夏にオンザロックは今も昔も最高ですね。

日本書紀に出てくる記事は仁徳記が最初ですが朝廷が管理した氷室は、山城国、近江国、丹波などにもありましたので高槻にもあったかもしれません。そういえば京都の西賀茂にも氷室町がありました。

今城塚古墳

高槻にある今城塚古墳。摂津富田駅から歩いていけます。

今城塚古墳
今城塚古墳

三好に対抗するために織田信長が古墳を改造して城砦として使ったことから今城塚と呼ばれましたが発掘の結果、地震による地すべりと確かめられました。今城塚古墳に葬られているのは継体天皇と言われています。宮内庁は近くの別の古墳を比定しているため、今城塚古墳は全国的にも珍しい「会いにいける大王墓」になっています。

継体天皇は応神天皇5世の孫で皇位継承からいうと「?」がつく存在ですが、ヤマト政権に迎えられ大王につきました。北陸出身ということもあり、この時に王朝が交代したのではないかという説が昔から出ています。物流の大動脈であった日本海−琵琶湖−宇治川−淀川−瀬戸内海の水上交通を抑えていましたので経済力があった大王でした。これが政治力にもなったでしょうし、半島情勢もからんでしたので北陸出身で知見がある人物でないと大王は務まらなかったのでしょう。

コーボックスへ

マンションが大規模修繕工事をしていることもあり、天満橋にあるコーボックスへ避難。

コーボックス
コーボックス

コーボックスから大学のオンライン講義をしておりました。コーボックスというのは全国でも珍しいファブラボの一つで、コワーキングスペース&ものづくりスペースになっています。3Dプリンター、レーザーカッター、UVプリンターなどが時間チャージで使えますので一人メーカーなどが活用しています。時たま知的生産の技術研究会・関西のセミナー会場としてもお借りしています。

久しぶりにコーボックスに行ったら3Dプリンターが4台に増え、スタジオセットが新たに増えていました。実はコーボックスのオーナーがパソコン通信時代からの知り合いで、当時はまだ20代と若かったですね。人のことは言えませんが(笑)。

そうそうコーボックスを根城にしている松本さんにもお会いしました。いろいろと発明されている方で最新作は「あしゆび洗浄専用タオル」です。なるほどお腹が出てくると足の指を洗うのは至難の業ですから目の付け所がいいですねえ。