”商売繁盛で笹持ってこい!” 宵えびすです。
家から歩いてすぐの額田戎へ。ふだんも全然、密でなく地元の人しか行かないえべっさんですがコロナ対策がなされていました。狭い境内がワンウェイに、いつもの甘酒コーナーやお神酒コーナーもありませんでした。境内前にいつも一つだけ出ているベビーカステラの屋台も今年はなしです。
お参りして、裏から木戸をたたき、さっそく縁起物を買ってきました。去年はコロナで大変でしたが、今年は商売繁盛になるよう、えべっさん、頼んまっせ!
”商売繁盛で笹持ってこい!” 宵えびすです。
家から歩いてすぐの額田戎へ。ふだんも全然、密でなく地元の人しか行かないえべっさんですがコロナ対策がなされていました。狭い境内がワンウェイに、いつもの甘酒コーナーやお神酒コーナーもありませんでした。境内前にいつも一つだけ出ているベビーカステラの屋台も今年はなしです。
お参りして、裏から木戸をたたき、さっそく縁起物を買ってきました。去年はコロナで大変でしたが、今年は商売繁盛になるよう、えべっさん、頼んまっせ!
今日は大阪産業創造館にある大阪府よろず支援拠点で土曜日の相談当番。
大阪産業創造館の最寄り駅は堺筋本町駅なんですが駅のすぐ横に以前は帝人本社がありました。地下鉄からそのまま帝人ビルのエスカレータで地上まで上がれて便利だったんですが、今は階段しかありません。
帝人本社は移転してしまい跡地には高層マンションができることになり、だいぶ出来上がってきました。地上37階建てで眺望抜群とありますが、高所恐怖症にとっては何の魅力もないですなあ。4階を超えると御免こうむりたいです。
これが山城になると高い切岸(崖)の上にいても平気でして、ここらへんの感覚は不思議ですねえ。
大阪中心部にあるのが堺筋本町。いわゆる船場ですが繊維街はだいぶ衰退してしまって帝人本社跡地はタワーマンションに生まれ変わっています。
堺筋本町にあるのが大阪国際ビル。1階には紀伊国屋書店が入っていて、よく利用していますというか、けっこうな金額を使っているはずです。近くに本屋があるのがいいですねえ。
この大阪国際ビルから大阪の町が一望できますが、写真は東側、生駒山の方角です。生駒山のずっと左側の山の上にあったのが飯盛山城。
大阪城はビルの陰で見えませんが左の方にはランサムウェアの攻撃を受けたカプコン本社のビルが見えています。
昨日は大阪府よろず支援拠点のお仕事でJR久宝寺駅へ。昔、八尾に住んでいたので、時たま来ていたのですが、駅前はすっかり変わっています。
このあたり古代は物部の土地で、お昼休みに近くにある渋川天神社へ。ここの境内で見つかったのが渋川廃寺跡。
発掘調査から飛鳥時代前期の7世紀前半頃の創建と考えられています。日本史では蘇我馬子と物部守屋が仏教導入で争ったと習いましたが、渋川廃寺は物部氏の氏寺だったようで、争った原因は新羅や百済など半島情勢への考え方にあったのではと言われています。
物部守屋が滅ぼされた河内国渋川郡の館も少し南に行ったところにあります。
江口城から淀川沿いに歩くと江口の里があります。江口は淀川が神崎川へ入る分流点で、江(川)の口から名づけられています。長岡京の造営がはじまった頃の延暦3年(784)に淀川と三国川(昔の神崎川の名前)を江口付近でつなぐ工事が行なわれ現在の神崎川ができました。神崎川が都と西日本を結ぶ主要水路となり、江口は交通の要衝となります。昔はトラックなどがなかったので物資を運ぶのは船運が中心でした。
■江口の君
西行が四天王寺参詣のため、江口の里までやってきたところ、にわか雨にあいます。一夜の宿を頼みましたが、主人の遊女は断ります。遊女をなじる歌を歌った西行に対して、遊女屋に宿を求める西行を皮肉った歌が返ってきて、この言い合いの歌(歌問答)が新古今和歌集にのっています。これを題材になって能の「江口」にもなっています。
この主人ですが、平資盛の娘で平家没落の後、乳母の郷里に移り遊女となったと言われています。遊女といっても格式高かったんですねえ。こうなると網野史学ですなあ。
さて西行と出会った後、主人は仏門に入り庵を結んだのが寂光寺で江口の君堂と呼ばれています。淀川沿いにある、なかなか鄙びたお寺です。
松永久秀屋敷跡の近くにあるのが明治・大阪工場。
大阪から京都方面に向かいJR摂津富田駅を過ぎてすぐ左側に見えてくるのが大きな板チョコ。明治・大阪工場の巨大看板です。昭和30年にできた工場でチョコレート、きのこの山、たけのこの里などを造っています。看板は高さ27.6メートル×幅165.9メートルで工場がすっぽり隠れる大きさになっています。
近くで見るととっても大きいですねえ。
戦国時代の堺は堀で囲まれた城塞都市でした。城塞に櫓が建ち並び、こうなると都市というより平城ですね。織田信長が「矢銭を払わんと攻めるぞ」と脅しますが、戦うかどうか審議したのは戦える能力があったからです。結局、堺は信長の命に従うことになります。
堺といえば第12代将軍・足利義晴(「麒麟がゆく」向井理が演じる足利義輝の父親)と争っていた異母兄の足利義維が堺公方として支配していました。足利義晴は京都を離れ近江の朽木などに逃げていましたので、うまくやればとって変わるチャンスがありました。結局はできませんでした。
■堀跡
さて戦国時代に作られた堀が土居川で土居とは堤防のことです。秀吉が天下をとってから堀は埋められてしまいます。元あった土居川よりも外側に堀を再度、造ったのが徳川家康です。南海堺東駅から大阪湾の方へ向かうと阪神高速道路の下に大小路橋という陸橋があり、阪神高速道路沿いに土居川公園が続いていて、ここが家康が造った堀跡です。
大小路橋から大小路が大阪湾へ向かって伸びていますが、この通りが堺の語源となる摂津国と和泉国の国境になりました。
秀吉や秀忠、家光が造ったのは大阪城ではなく大坂城です。坂の字が違い、戦国時代は大坂が使われていました。
幕末、浜松歌国という狂言作者が「摂陽落穂集」に「坂」は土に反(かえ)るいう意味なので「阪」を使おうと提唱しています。これで急激に代わったわけではなく江戸時代頃から大阪の字が使われてボチボチと変わっていったようです。
もともとは上町台地に小坂という坂があり、一帯を小坂と呼んでいました。石山本願寺を造った時に蓮如が大坂にしようと言い出してから大坂になったようです。最初は上町大地一帯を指していましたが、やがて摂津、和泉、河内全体をさすようになっていきます。
松阪牛で有名な松阪でも同じで、蒲生氏郷が城下町を作った頃は松坂でした。明治になり大阪が変えたのにあわせて松坂になったそうです。
佃煮の発祥には諸説あるんですが、もともとは漁に出る時の保存食でした。悪天候時や船内食として小魚や貝を塩や醤油で煮詰めたものを持参していました。
後に江戸の佃島へ移ってから住吉神社へ奉納したのが佃煮の元となったという説がありますが、住吉神社は佃にあった田蓑神社(住吉明神)を分霊したものです。それなら佃時代から田蓑神社に奉納していただろうということで、ここが佃煮発祥の地という説もあります。
田蓑神社は神功皇后が三韓からの帰途に佃に上陸し、漁師が白魚を献上したという伝説が残っていますが、古代、住吉大社の領地だったようです。境内には東照宮もありました。
お仕事で阪神電車・千船駅へ。千船駅は神崎川と左門殿川に囲まれた佃にあります。そうそう佃煮で有名な東京の佃島の故郷がここ佃ってご存知ですか。
徳川家康が兵庫にある多田神社へ参詣します。多田神社は摂津源氏発祥の地ですから、源氏を名乗る家康としては参詣しないわけにはいきません。この時に佃村の漁師たちが船を出して川を渡したことから徳川家と縁ができました。
将軍家に献魚の役を命じられ、漁師の一部は江戸に行くことになります。また、どこで漁をしてもよいという特権を与えられ、隅田川下流の干潟を造成し、できたのが今の佃島です。