額田、喜里川は松平容保の知行地だった!

額田駅
我が家の隣町が額田と喜里川で、枚岡神社の秋郷祭ではそれぞれ町から太鼓台が出ます。
先日、額田の歴史を調べていたら豊臣時代は長束次郎兵衛が奉行としておさめていて、徳川時代は代官でしたが、幕末の慶応2年に松平容保の知行地になっていました。
松平容保!!
って、あの会津藩の松平容保!
そうです、新撰組の生みの親の松平容保です。
幕末の京都は勤王浪士のテロで治安は最悪でしたので、会津藩主・松平容保が京都守護職に任じられます。しかし京都を守るためには金が要ります、そこでその賄いの知行地として喜里川村と額田村があてられました。
しかも、金だけでなく会津藩の人足が各村に割り当てられたので、それぞれの村から、費用村持ちで、京都に詰めなければならなくなったそうです。東大阪の我が家の一角も幕末の動乱に巻き込まれていたんですねえ。

織田有楽斎の近くにいた片桐且元

茨木
織田有楽斎の領地だった摂津・味舌を通っていたのが亀岡街道。亀岡街道は、大阪から北摂を経由して丹波の亀岡に向かう街道です。亀岡街道は味舌から5kmほど北に行った茨木城の近くも通っていました。
織田有楽斎が味舌を領していた頃の茨木城・城主は片桐且元と弟の片桐貞隆です。方広寺鐘銘事件の処理などで大坂方から疑われ、結局、徳川方についたあの片桐且元です。
片桐且元、織田有楽斎ともに大坂城につめていたので領地では会わなかったかもしれませんが、けっこう近接した場所でした。茨木城から京都寄りにある高槻城は大坂の陣の頃、徳川氏の直轄地になっており、大坂の陣で高槻城は補給基地となります。南の兵站基地は堺で、こちらは大坂方に焼きうちされます。

摂津の織田有楽斎

摂津市
大阪府よろず支援拠点の出張相談で摂津商工会へ。写真は阪急摂津市駅から商工会へ続く遊歩道で小川が流れています。
摂津商工会は摂津市にありますが、摂津といえば昔の国名で摂津国です。現在の大阪府と神戸などを含む兵庫県の東側が摂津国でした。よくこんな国名を市の名前につけましたねえ。他の市からクレームはでなかったんですかねえ。まあ三重と言えば伊勢の国ですが、伊勢市とつけたりする事例もあることはあります。
昔から要衝の地で、摂津市商工会から少し行った味舌(ました)をおさめていたのが織田有楽斎です。大河ドラマ「真田丸」では井上順が演じています。豊臣秀吉の時代、現在の摂津市の味舌で2千石を知行していました。関ヶ原の合戦では東軍で戦い、大和国山辺郡に恩賞として2万7千石を加増され、味舌とあわせて3万石を領し大名となります。真田丸に出ている今はこの3万石時代です。
織田有楽斎はお茶を千利休に学び、利休十哲の一人です。津にある真宗高田派・専修寺の庭に茶席「安楽庵」があり、伏見城から移築されたと言われていますが、茶席の名前は、千利休の長男・ 道安と有楽斎から命名されています。織田有楽斎が江戸に構えた屋敷跡が明治時代になって有楽町となって現在に続いています。

上田秋成も訪れた河澄家

河澄家
足立氏館跡の近くにあるのが旧河澄家。2年ほど前から家屋や枯山水庭園が一般公開されています。東大阪の市政便りに載っていたのですが、ようやく行きました。
河澄家は南北朝時代にさかのぼり、江戸時代は日下村の庄屋をつとめていました。主屋敷の横に棲鶴楼という名前の書院造りの建物があり、ここから庭を眺めることができ文芸サロンになっていました。
怪異小説「雨月物語」で有名な上田秋成はよく日下村を訪れており、「山霧記」「鳴鶴園記」などの作品を残しています。この棲鶴楼にも立ち寄っています。
河澄家の場所は東大阪市日下町7丁目で、近くには安岡正篤の旧宅もあります。安岡正篤って言っても今の若い人には知られていないでしょうね。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳といった歴代総理の指南役だった人です。そうそう「平成」の名付け親が安岡正篤というのはガセネタのようですね。

中之島図書館

中之島図書館
仕事が終わってから中之島図書館へ。
調べたい業界があったのでビジネス支援サービスへ行くと、いろいろと本やデータベースを調べてもらえました。こりゃありがたいと、せっせとコピーしておりました。ビジネス系に調べものをするのに中之島図書館はとっても便利ですよ。
■野口孫一
3階で「中之島図書館と野口孫一の建築術」(無料)という展示をしていました。中之島図書館には中心にドームがあり、古代ローマのパンテオンのようですが、これを設計したのが野口孫一。
欧米では知の殿堂に後期ルネサンス様式を採用していますが、もともとがパンテオンがモデルなので、重厚な建物になるんですね。展示は11月末までです。日中、中之島図書館へ来るのは本が目的の人は半分で、重厚な建物を見に来る観光客が半分といったところです。
帰りに大阪コーナーをのぞくと、「幻の高安城」の記録本が2冊あり、ひたすら読んでいました。(笑)

千利休屋敷跡

千利休屋敷跡
昨日、遠里小野の環濠を見た後、すぐ近くを走っているチンチン電車(阪堺電車)に乗って堺へ。
宿院ちかくに新しく「さかい利晶の社」という施設が出来ていました。利晶って、なんのこっちゃいなと思っていたら千利休と与謝野晶子なんですね。なかなか贅沢な施設で隣にはスターバックスもありました。「さかい利晶の社」のすぐ隣にあるのが千利休屋敷跡。ここは昔と変っていなく井戸などが健在でした。
新しく碑ができていて、碑によると千利休の祖父は千阿弥といい、足利義政の同朋衆と書いてありました。同朋衆というのは将軍のそばで雑務や芸能にあたった人々で、猿楽能の観阿弥も同朋衆です。茶道は利休からなんで、なんの芸能で仕えたのかなあ。
千家はもともとは田中家だったんですね。この田中家は新田里見氏の一族といわれています。

信長も陣をはった遠里小野環濠

遠里小野
本日も大阪市内で仕事でしたので、近くの遠里小野へ。
大阪の難読地名でよく出てくる土地です、もちろん”おんりおの”ではありません。遠里小野は少し微高地になっていて戦国時代や江戸時代は環濠集落でした。周りを掘で囲まれているので防御力が高く、しかも熊野街道が集落を通っており、交通の要衝ということで、よく陣がおかれました。
織田信長も遠里小野環濠に陣をはったことが信長公記に出てきます。さすがに環濠は埋められて道路になってしまいましたが、微妙に高さが違っていることが分かります。環濠集落の古地図を見ると、当時の道路が今もそのまま使われていることが分かります。細かい路地も中世の時代そのままの位置にあり、なかなか感激します。

能「弱法師」の舞台 俊徳塚

俊徳塚
今日は大阪で仕事でしたので、ついでに能「弱法師」の故郷である俊徳塚へ行ってきました。
近鉄大阪線に俊徳道駅があります。駅の南側を通る俊徳道から名前をとっていますが、俊徳道は俊徳丸からきています。
■能「弱法師」
俊徳丸は、人のザンゲンを信じた父により家から追放され、盲目となってしまい、乞食坊主として四天王寺で物乞いをすることになります。後に後悔した父親と四天王寺で再開することになります。能なので、そのあといろいろあります。
■俊徳塚
もともとは河内国高安の山畑にいた長者が長年子供がいなかったが、清水観音に願をかけることでもうけた子供の名前が俊徳丸でした。ですので現在の八尾市山畑に俊徳塚があります。最寄駅は近鉄 服部川駅になります。住宅地の真中に横穴式の石室墳墓がデーンとありました。

権現塚

権現塚
大坂冬の陣で家康は茶臼山に陣をかまえますが、京都から大坂へ向かう時に通ったのが生駒山山麓の東高野街道。
家のすぐ近くを東高野街道が通っていますが、隣の豊浦町に権現塚があり、このあたりに中村正教(まさのり)の邸宅がありました。家康は冬の陣、夏の陣ともに中村家に泊ります。中村家は佐々木源氏の流れなので、氏の長者である家康に従ったのでしょう。宿泊した時に正教が菖蒲の節句にちなんで木綿を献上したところ、家康は「勝布」と言い、大いに喜んだという逸話が残っています。東高野街道から少し登ったところに中村家はありましたので、当時は大坂城までよく見通せたでしょう。
家康は東照大権現になりましたので、その関係で権現塚が作られました。もう少し登って、近鉄奈良線が通っているホテルセイリュウあたりだと大坂平野が一望できますので、当時の民衆はこのあたりから大坂の陣を見物していたでしょうね。

自分のことは占えない

石切参道
近くに石切神社という物部の古い神さんがあり、散歩がてら、よく石切参道商店街をブラブラしています。ここは占い関係のお店が多く、一度、店を数えてみましたが30軒以上はあり、中にはアパートのような占い横丁まであって正確な数はよう分かりません。
そんななか派手な傘が置いてあったのが陰陽道占いのお店。廃業したのか移転したのか店は閉まっており看板だけでした。占い激戦地区ですので、店の出入りも多いです。初期投資が机と椅子だけと安いことも特徴です。当然、占いなので商売がうまくいくかどうかを占ってもらえますが、こと自分のこととなると占えないもんですね。
これはコンサルタントも同じです。人の会社のことは言えますが、いざ自分のこととなると客観的に自分のビジネスを見られないこともあり、自分で自分のコンサルはできません。自分自身がコンサルタント業なのに外部のコンサルに自分のコンサルを頼むことは、ままあることです。商売とは難しいものですねえ。