大河ドラマ「真田丸」はいよいよ真田信繁が総構の外に築いた出丸・真田丸の登場になります。
ファイテング・コンサルタンツという、いつもは雑談して酒ばっかり飲んでいる研究会があるんですが、珍しく文化的に真田の史跡を巡る回でした。
朝、玉造駅に集合、三光神社へ向かいますが、団体客も来てすごい人。そうそうに退散して心眼寺の方へ。ここは堀跡が道路跡として残っていて、昔の切岸を体感できます。心眼寺を過ぎて、大阪明星学園へ。ここが真田丸跡の中心です。
昔は説明版も何もなく、知る人ぞ知る場所でしたが校舎横に説明版ができていました。大河ドラマの影響はすごいですねえ。
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司馬遼太郎記念館
枚岡祭り 太鼓台踏切越え
昨日、カタシモワイナリーから枚岡駅へ戻るとちょうど枚岡祭りの宮入の最中。
見所はいろいろあるのですが、枚岡駅横の踏切越えがいいですね。近鉄電車の職員が踏切にはりついて電車のタイムテーブルを確認し、余裕がある時間帯を見つけ太鼓台を通します。踏切を超えた先にはきつい登り坂がいきなり始まります。
昨日は祭りで沿線に人が多いこともあり電車も徐行状態。タイムテーブル通りに走らなくなってきたため最後の四條太鼓台の踏切通過では警報器が鳴る中、電車の方を止めて太鼓台を通していました。
▼四條 踏切越え
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枚岡祭り
雨が降ろうが風が吹こうが10月14日、15日は枚岡祭りです。
河内一ノ宮である枚岡神社の秋郷祭。なんせ枚岡神社は中臣連の神さんを祭っていて、奈良の春日神社の神さんはこの枚岡神社から勧請されましたので元春日とも言われています。なんせめちゃくちゃ古い神社です。
枚岡神社の氏子である出雲井・鳥居、額田、宝箱、豊浦、五条、喜里川、客坊、河内、四條から23基のふとん太鼓が出て、境内をねり歩き、「ちょうさぁじゃっ!!」「えんやさぁじゃ!」の掛け声が響きます。
夜、帰ってから祭りを見に行きましたが、いつみても勇壮ですね。金曜の夜というのに人で一杯でした。なにより楽しみは枚岡駅から額田駅までずらっと並んだ屋台です。
河内廃寺跡
近鉄奈良線が瓢箪山駅に向かって生駒山山麓を下る時、ちょうど瓢箪山駅手前のカーブ右手に見える空地が河内廃寺跡です。
ずっと空地でしたが、今は史跡公園にするための工事がすすんでいて、久しぶりに見に行ったら礎石などがきれいに並べられていました。ゴチャゴチャした住宅地の中にありますので、地図を見て行ってもたどりつくのはちょっと大変です。来年4月に一般公開の予定です。
河内廃寺は7世紀中頃に創建された古代寺院で発掘調査の結果、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置になっています。隣りには河内郡衙があったようです。郡衙(ぐんが)とは、古代律令時代の役所です。7世紀中頃というと白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に日本が大敗し、高安城や屋嶋城、金田城が造られ、その後に壬申の乱が起きた頃になります。
河内廃寺跡近くを東高野街道が古代から通っていますので街道を見下ろす微高地に寺が作られ、街道からは優美な姿が見えたでしょうね。発掘調査によると寺が廃寺になったのは鎌倉時代末期頃で土石流で崩壊したようです。
御厨天神社
流れの馬場跡(摂津)
昔、上新庄に住んでいた頃、もっぱら阪急京都線を使っていましたが、摂津市駅なるものはありませんでした。
駅ができたのは、けっこう新しく2010年。まだ6年目で、正雀駅と南茨木駅の間にできました。株式会社ダイヘンの跡地なんだそうです。駅の横を境川を流れていますが、駅のすぐ近くに「流れの馬場跡」があります。
織田信長は石山本願寺と10年にわたる戦いのあと、1580年に和睦します。顕如が石山本願寺を退去したのにあわせ、戦っていた門徒らも帰村しました。摂津に本願寺の末寺である勝久寺があるのですが、住職が門徒数千と、石山本願寺にたてこもって戦っていました。
和睦が成立し摂津に帰ってきていましたが、信長軍に不意に襲撃され堂舎を焼き払われたうえ、多数の門徒たちが捕らえられて殺害されたと伝わっています。その跡が流れの馬場跡です。
桶狭間の戦いの後、今川義元が討たれても鳴海城で今川方の岡部元信が戦っていましたが、信長との交渉し、今川義元の首級と引き換えに城を明け渡します。ところが帰る道中で信長方の刈谷城を攻撃し、城を焼いていますので当時、こういう話はよくあったんでしょうねえ。
境川
コナモン好きの大阪人
今朝のニュースでコナモンとご飯を一緒に食べる大阪人が多く、メタボの原因になっているという報道されていました。
でも焼きそば定食、お好み焼き定食ってフツウにランチメニューにあって、素直に食べますがなあ。昨日はソバ定食(ソバ+カヤクご飯)を食べたし。
報道によれば大阪府民でコナモンと一緒にご飯を頻度は、男性の約6割、女性の約半数が週1食以上になっているそうです。もちろんBMIの肥満度は高まります。
名古屋飯の代表である味仙が東京に進出したそうですが、あの台湾ラーメンはご飯という箸休めがなければ食べられませんよ!
上には猛者がいて先日、知り合いのタイムライン(Facebook)を見ていたら「お好み焼き+焼きそば+ご飯」の定食が映っていました。さすがにこれはやりすぎです。
とても古い地名 額田
我家の隣が額田(ぬかた)という土地。
とっても古い土地で地名の由来は古代氏族である額田氏に由来します。ここに額田寺(がくでんじ)という寺があり、弘法太子に由来すると書かれています。昭和になって焼けた本堂は天正年間にできたそうで、ちょうど織田信長が足利義昭を追放して、実質的に室町幕府が滅亡した頃です。そのまま残っていたらすごかったでしょうね。
近くには額田墓地がありますが、ここもめちゃくちゃ古く、行基によりに河内国に作られたとされる7箇所の墓地の1つ。河内七墓(かわちななはか)の1つですがつくられたのが奈良時代ですので、ざっと1300年ほど前の話です。河内七墓というのは盆の14日に七墓参りをすると極楽往生できるとの謂れがあります。
額田氏が住んだ地域には額田や豊浦の地名が多いようで、近くには豊浦という地名も残っています。豊浦という地名は由緒正しく、初めて飛鳥に宮ができたのが豊浦宮、そして仲哀天皇と神功皇后が山口県下関に造ったのも豊浦宮です。なにか関係あるんですかねえ。すっかり中小企業の街となった東大阪ですが地名などに古い記憶が残っています。