大阪府よろず支援拠点の住所は本町橋になっています。
近くに東横堀川があり、川の上を阪神高速が通っています。川にかかっているのが本町橋。東横堀川は「堀」と名前がついているように、もともとは豊臣秀吉が大坂城の西惣構堀として造ったもの。
大坂冬の陣では本町橋に塙団右衛門が床几をおいて、どっかと座り、蜂須賀軍などに夜討ちをかけ成功します。しかも「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒いて宣伝していました。すごいプロモーションですねえ。来年の大河ドラマ「真田丸」にこのシーンは出てくるかなあ。
本町橋の脇で、ずっと本町橋船着場の工事をしていましたが工事が終わったようでオープン記念のクルーズがシルバーウィークに行われます。東横堀川をずっと南に行くと、西に90度曲がって道頓堀になります。クルーズでは本町橋船着場から道頓堀へ出て、引っかけ橋(戎橋)の下を通って湊川船付場(難波の向こう)まで運行します。
■道頓堀
大阪といえば道頓堀ですが、工事が開始されたのが1612年。巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した年です。始めたのが安井道頓という商人で、大坂城の外堀を造ることに尽力したことから秀吉から大坂城の南側の土地をもらいます。
この土地開発のため東横堀川と西横堀川を結ぶ運河を作ろうと考え工事を始めました。ところが安井道頓は大坂夏の陣で秀頼側につき、大坂夏の陣で討死してしまいます。一族が跡を継いで完成したのが道頓堀。阪神優勝で飛び込むのとグリコの看板で、すっかり有名になりました。
カテゴリー: 大阪の話題
天野屋利兵衛が使った牢屋敷
大阪府よろず支援拠点があるマイドーム大阪の裏側にあるのが天野屋利兵衛の碑。
天野屋利兵衛の屋敷が近くの大手橋(通称思案橋)にあったからということで碑が建っていますが、天野屋利兵衛に関する資料を調べていると歌舞伎の演目に「第一場 天満与左衛門町牢屋敷の内部」というのがあるのを見つけました。
天野屋利兵衛は、大石内蔵助らが吉良邸に討ち入る直前、槍数十本をつくって赤穂浪士を支援していたとして大坂西町奉行所に捕縛されます。厳しい拷問にあった時、「天野屋利兵衛は男でござる」と言って自白しなかったシーンは、忠臣蔵で有名にです。
問題は天満与左衛門町牢屋敷の場所。マイドーム大阪と大阪商工会議所のある所が大坂西町奉行所跡で、すぐ近くに中大江小学校や中大江公園があります。この辺りが与左衛門町牢屋敷があった場所。というと屋敷のすぐ近くに捕まって拷問にあっていたことになります。ほんまですかいなあ。歌舞伎の演目が「第二場 思案橋詰利兵衛離座敷」ですので、ほんまにマイドーム大阪近辺なんですね。
与左衛門町牢屋敷ですが、大塩平八郎の乱が起きた時には、事件の嫌疑をうけたものが多かったため、新牢を建てて収容したそうです。
河内寺廃寺跡
自転車のパンクを直しに、瓢箪山商店街へ。結局、タイヤ交換になってしまったので交換時間の合間に河内寺廃寺跡を見てきました。
近鉄奈良線で瓢箪山駅を過ぎると生駒山の山麓を登りながら生駒へ向かいます。ちょど線路が生駒山にぶつかって大きくカーブする高台に河内寺廃寺跡があります。
先日、市政だよりを読んでいたら平成29年4月をめどに史跡公園として整備すると書いてありましたが、まだ礎石を掘り起こしたぐらいしか工事は進んでいませんでした。以前は単なる空地でしたが、さすがに「国史蹟 河内寺廃寺跡」という小さな看板がついていましたので、少しは知名度があがったでしょう。
■河内寺廃寺跡
7世紀中頃に創建された古代寺院跡。発掘調査の結果、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置の寺だったことが判明。河内寺廃寺は有力な渡来系氏族「河内直」により氏寺として建立され、のちに律令制度の発達とともに河内郡衙に付随した郡寺として発展していったと考えられています。
摂河泉(せっかせん)
大阪市営地下鉄?に乗っていると住之江ボートレースの吊広告があって摂河泉レースと書かれていました。
摂河泉!!
また古式ゆかしい名前をレースにつけましたなあ。でもそんな古い名前を知りながら舟券を買っている人がいるのかなあ。
現在の大阪府は、昔、3つの国から構成されていました。摂津、河内、和泉で摂河泉とはこの3つの国をまとめたもの。
摂津は大阪の住吉あたりから能勢あたりの北部まで、兵庫県の神戸、有馬、三田も摂津の国です。信長時代に摂津の国をおさめたのが荒木村重。
河内は大阪府東部で枚方から寝屋川、東大阪、河内長野や千早赤阪村などが含まれています。戦国時代は信長よりはやく天下をとった三好長慶が河内を支配していました。
和泉は大阪府の海側で堺から関空のある泉佐野市などを含み和歌山との県境までです。和泉は「いずみ」と呼び、もともとは泉でしたが、国名を二字にする法令ができた時に「和」をつけて「和泉(いずみ)」にしました。和は発音しません。
摂津・河内・和泉三国の国境は、堺市の三国山にあり、方違神社があります。三国ヶ丘の三国というのは摂河泉をさします。
八尾飛行場の予備滑走路
日本一短い商店街・肥後橋商店街の近くにあるのが靭(うつぼ)公園。ここが終戦後にアメリカ軍が作った靱飛行場跡というのは有名な話です。
八尾飛行場は現在もありますが戦時中は大正飛行場と呼ばれていました。アメリカ軍による飛行場への攻撃が多くなったため近くに予備滑走路が作られたそうです。現在の府道八尾枚方線の一部がそうで、戦後は府道に転用されました。確かにまっすぐな道路が続いています。
戦後70周年特集を関西のテレビ局でやっていて紹介していました。予備滑走路が八尾にあったんですねえ。一時、八尾の高安に住んでいましたが、知りませんでした。
この滑走路跡の近くには大坂夏の陣・八尾・若江の戦いで、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と戦い敗れた木村重成の墓があります。徳川家康が木村重成の首実験をした時に、兜をとった髪から香の香りが漂ったことから戦いに挑む姿勢に感心し、ほめたたえます。
家康の本陣跡
今年は大坂の陣から400年。今日の日経新聞の文化欄にも大坂の陣の話題が載っていました。
家から少し歩いた豊浦という所に児童公園があるのですが、東高野街道から少し登った、高台になっていて眺めがよい所です。今は無理ですが、400年前なら大坂城がよく見えていたでしょう。この公園にあったのが中村屋敷。中村家は佐々木源氏の一派で、もともとは近江にある鯰江(なまずえ)城にいました。鯰江城は「河岸段丘」を利用して築城された城でした。室町時代に豊浦村に移ったようです。
中村屋敷は冬の陣では家康が、夏の陣が秀忠が最初の本陣にしました。ここから大坂の陣がスタートしたんですね。
そういえば今日は八月一日、八朔の日です。
新しい穀物を収めて祝う行事が各地で行われ、祇園では挨拶まわりが行われます。徳川家康が江戸に正式入府したのが八朔の日です。江戸時代は神君・家康公が江戸入府した日として幕府の重要な式典の日になりました。
全国の渡辺さんの故郷
天神祭を見に行った時、天満橋近くの大川に渡辺津の碑が建っていました。おお!こんな碑が出来たんですね。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷です。
渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。時代がくだると渡辺津近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、信長との10年戦争に突入します。
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じたので坐摩神社は本町駅の南にある久太郎町に移転しました。この坐摩(いかすり)ですが、宮中に「座摩の巫」が祀られていて、都下(つげ)造氏の童女が祭祀をしたそうですので、ツゲですので古代朝鮮に関係していたようです。実際、渡辺津のあたりは旧新羅江とも呼ばれており、坐摩神社が移転した久太郎町は百済の当て字でしたので、渡辺党のほとんどはもともと渡来人のツゲ氏だったようです。
大阪締め(天神祭)
大阪よろず支援拠点で窓口相談。
大阪よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますので、ちょっと歩くと中之島。中之島から少し行けば大阪天満宮です。窓口相談が終わってから天神祭を見に出かけてきました。天神祭の日に大阪にいることは珍しく久しぶりです。天満宮へ行くとちょうど宮入の最中で、大阪締め(おおさかじめ)が行われていました。
大阪締めとは大阪を中心に行われている手締めで、物事が無事に終わったことを祝い関係者が掛け声とともに打つ手拍子。
【大阪締め】
「打ちましょ」でチョンチョンと2回手を打ちます
「もひとつせ~」でチョンチョン、
最後に「祝うて三度」でチョチョンがチョンと打って締めます
大阪では天神祭以外でも証券取引所などでもこの大阪締めが行われます。大阪中小企業診断士会の交流会でも締めは必ず大阪締めです。なかなか風情があっていいですよ。
大阪活版所
マイドーム大阪のすぐ近くにあるのが大阪活版所跡の碑。
活版印刷というのは活字を組み合わせて版を作り、印刷するやり方です。銀河鉄道の夜の冒頭で主人公ジョバンニが小さな箱に活字を拾って版を作るアルバイトをしているシーンがでてきますが、あれが活版です。
コンピュータで印刷するDTP時代となり活版印刷は、すっかり見なくなりました。活版の歴史は古く、764年に藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇によって印刷された百万塔陀羅尼があります。時たま古書業界に出回っており、700万円ほどで買うことができます。ほぼ正倉院の時代のものですので安いものでしょう。(笑)
その後は木を削った木版印刷が主となりました。ところが天正遣欧少年使節の時にヨーロッパから活字と印刷機を持ってきて作られたキリシタン版などが登場します。イエズス会が発行した書物ですが、これは部数も少なく、天理図書館や上智大学などにあります。徳川家康も活版印刷をしており、これが駿河版。美術本として有名な本阿弥光悦の嵯峨本などはありましたが江戸時代は木版印刷が主流となります。
やがて明治となり活版印刷が復活します。まず長崎に新町活版所が作られますが、その後にできたのが大阪活版所。明治3年に五代友厚の懇望をうけ本木昌造が作りました。マイドーム大阪のすぐ近くにある地から大阪の近代印刷がスタートします。
天野屋利兵衛は男でござる
マイドーム大阪の裏口が東横堀川となりますが、この一角に「義侠 天野屋利兵衛之碑」があります。
天野屋利兵衛って、あの忠臣蔵の天野屋利兵衛!!
忠臣蔵十段目に登場する堺の商人が天野屋利兵衛(忠臣蔵では天河屋義平)。吉良邸への討ち入り用と判っていながら、赤穂浪士に武器を援助する商人として登場。役人(実は天野屋利兵衛の真意を疑う赤穂浪士が変装した姿)の取り調べを受けますが、決して口を割りません。武具が入っている長持の上に座り、有名なせりふをはきます。それが、「天野屋利兵衛は男でござる」。
天野屋利兵衛は実在した人物で、熊本藩細川家と岡山藩池田家の大阪屋敷に出入りしていたと伝わっています。屋敷が東横堀川に架かる大手橋(本町橋から北に2つ目の橋で、マイドーム大阪のすぐ近く)のたもとにあったと伝承されています。それで碑が建っているんですね。
天野屋利兵衛は忠臣蔵で有名ですが、赤穂浪士とは関係がなかったというのが定説です。ところが赤穂浪士の一人である大高源吾が墓のある薬王寺に共に葬られていますので、なにかあったのかなあ。竹本座のパトロンでもあったので、自分が登場するように画策したとの説もあります。
そういえば幕末、高杉晋作を助けた政商として白石正一郎の名前がよく上がりますが実際はそれほどでもなく、入江和作が幕末の志士たちを援助し、高杉晋作の住居の世話や「おうの」
の面倒もみていましたが、あまり世間に広まっていません。