秀吉が大坂という日本有数の都を造りましたが、人口密集地となりますので都市問題がいろいろと出てきます。
まず水問題です。京都は盆地の下に巨大な水がめがある土地なので湧水も多く、水には困りません。大坂も上町台地は良質な井戸が湧いていましたが、周辺の低地では井戸を掘っても塩気などが強かったので飲み水に適しません。大川の上流で汲んだ水を水売りが売り歩いていました。これで上水はOKですが、問題は下水です。
大坂城を造る時に城下町を都市計画し船場などが生まれます。道路整備とあわせて、町屋から排出される下水を排除するために下水溝が碁盤目状に整備しました。これが太閤下水で、今から400年以上前に造られました。太閤下水から東横堀川や西横堀川に排水され、さらには大川へ放流されていました。この下水、一部が今も現役で使われています。谷四(谷町四丁目)近くの南大江小学校の脇に、この太閤下水を見学できる所があります。
江戸は神田上水や玉川上水が整備されましたが、下水は整備されなかったようです。長屋から出た糞尿は近郊の農家に販売し、これが大家の貴重な収入になったので、商都だった大坂とは事情が違っていたようです。
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いくたまさん
大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
ランチを食べにマイドーム大阪を出ると松屋町筋(まっちゃまちすじ)と本町通の交差点近くに「生國魂神社」の大きな幟が何本も立っていました。いくたま夏祭りが7月に行われますので準備の幟なんですね。生國魂神社の本殿がある場所はずっと南に行った谷九(谷町九丁目)近くですが、本町通りと中央大通りの間に生國魂神社の行宮(あんぐう)があります。ビルとビルの間に入口がありますが、境内はけっこう広く、立派な社殿が建っています。ここも夏祭りの舞台となります。
いくたま夏祭りは天神祭、住吉祭と並ぶ大阪三大夏祭りの1つで、陸渡御では秀吉に追い出されるまで本殿があった大坂城へも向かいます。
”いくたまさん”は国そのものの神様で歴史はめちゃくちゃ古く、神武東征の時に作られたと言われていますが、乙巳の変(大化の改新)の後、孝徳天皇が遷都する難波京の資材にするために生国魂社の樹を切ったと日本書紀に記されていますので、古代に神社があったことは確実視されています。中世には信長と10年戦争を起こす石山本願寺が生国魂社のすぐ隣に造られます。これがために兵火で燃えてしまいました。
秀吉が石山本願寺の跡地を中心に大坂城を造る時に追い出されて、現在の地に移ります。移転して今度は大坂夏の陣が起きます。生国魂社の南側に毛利勝永や真田信繁が陣取り天王寺の戦いが行われましたので、またまた燃えてしまいました。国の神様なんですから、なんとかならなかったんですかねえ。
鳥飼八防
鳥飼八防、摂津市周辺にある地名です。
新幹線で新大阪駅を出てしばらくすると左手に車両基地が見えてきますが、これが鳥飼車両基地で、この付近が鳥飼です。他にも鳥飼五久という地名もあり、なんでこんな変な地名がついたんですかねえ。
鳥飼はわりと分かりやすく大化改新より以前に鳥類の飼育に従事した部民 (べみん) の名前です。鳥飼部で、ここらあたりに住んでいたことから地名がついたのでしょう。同様の名前は犬養部(いぬかいべ)、馬飼部(うまかいべ)があります。武具になると弓削部(ゆげべ)、矢作部(やはぎべ)があります。弓削は八尾市に弓削町があり僧・道鏡は弓削氏(物部氏)の一族で弓削町の出身です。
平安時代、この付近には都に牛や馬を供給する牧が整備されたようで本牧という地名が残っています。五久は御厩のよみに”あて字”にしたのでしょう。
八防は何からつけたのかなあ。戦国時代、このあたりに三宅城という平城があり、三好長慶軍に攻められ落城した時に城主の娘が出家して建てたのが防風庵で、ここから知名がついたのかなあ。
日本一低い山
日本一低い山と言えば大阪の海遊館の近くにある天保山が有名です。標高4.53mで国土地理院発行の地形図に掲載されています。山岳会が存在し登頂証明書も発行されています。もともとは江戸時代に航路を拡げるために安治川を浚渫した時に出た土でできた築山です。
先日、堺台場のある大浜公園へ行ったら、ここにも日本一低い山がありました。名前は蘇鉄山。標高6.97mで天保山より高いですが実は山頂に一等三角点があり、一等三角点のある山としては日本一低いそうです。天保山には二等三角点があるそうです。三角点に一等やら二等があるんですね。
堺台場と同様、天保山にも大砲が置かれ、異国船の警戒に当たっていました。さて蘇鉄山ですが5秒ほどで登頂できます。こちらも山岳会が結成されており、登山認定書を発行しているそうで国土地理院の地形図に掲載されています。
水の噴水
生國魂神社・御旅所
大阪府よろず支援拠点は上町台地の麓にあります。
上町台地の上にあるのが大坂城で、ここの一角に生國魂神社・御旅所があります。「いくくにたまじんじゃ」と呼びますが、めちゃくちゃ古い神社で、国の魂とあるように日本そのものを祭った神社。
天皇の即位儀礼の1つである八十島祭も生國魂神社で行われています。当時は上町台地の麓まで海で、遠くにはイザナミ、イザナギの国生み神話の元となった淡路島が見え、現在は島と言う地名で残っている枇杷島や柴島などがたくさんの島(八十島)が連なっていました。
戦国時代、石山本願寺を造った時もそのままでしたが秀吉が大坂城を造る時に天王寺に移転が命じられます。どこに元の神社があったかは分かりませんが、大阪城の外堀近くに御旅所が作られています。
大阪城の桜は5分咲きほど
夫婦塚古墳
原稿書きが終わったので散歩へ。
まずは中臣家の神様・枚岡神社へ。境内にある枚岡梅林はすっかり梅が散っていました。次に物部の神様・石切神社へ。いつもはホテルセイリュウの前を通るのですが、今日は一つ下の道を通り、住宅地の中にある夫婦塚古墳を見てきました。といっても2つの石室があるだけです。
ホテルセイリュウ前が近鉄で、大阪の街が見渡せる車窓で有名ですが、昔は谷町台地までずっと河内湖でしたので、とっても眺めがよかったでしょうね。眺めがよいので古墳も多く、今でもいくつか残っていて石切神社の参道商店街の中にもあります。
夫婦塚古墳は神並古墳群の1つで、ずっと山畑古墳群まで古墳群が続いています。近鉄・瓢箪山駅も瓢箪山古墳が地名の由来になっています。
額田戎の福引で三等が当たる!
大阪府立貿易館
大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪や大阪商工会議所、シティプラザ大阪が建っている所は、江戸時代、西町奉行所でした。明治になって初代大阪府庁が置かれ、その後大阪博物場ができます。中之島図書館や天王寺動物園の前身となります。
大正時代、大阪府立商品陳列所が堂島にあったのですが、火災で焼けてしまいます。1917年(大正6年)に現在、マイドーム大阪などがある所に再建されました。1930年(昭和5年)に大阪府立貿易館という名前になります。事業の内容は貿易助長や産業貿易思想の涵養(講演会、映画会、図書館)、時代らしく対満貿易の助長もやっていました。分館が新京、奉天、上海、天津、青島、広州にあり職員は73名だったそうです。
戦時中は貿易関係業務が集約され、南方資源調査などに当たることから大阪南方院という名前となります。戦後、大阪府立貿易館が復活しましたが大阪府の機構改革に伴い、1987年(昭和62年)に廃止されます。
この大阪府立貿易館には大阪府立貿易専門学校もありました。それでマイドーム大阪の前に専門学校の碑が建っているんですね。