もともとは後鳥羽上皇の水無瀬離宮がありました。広大な離宮で、かなり離れた場所で庭園跡などが見つかっています。当時の天皇は離宮を作るのが好きだったようで鳥羽離宮などが作られました。離宮八幡宮(山崎)も嵯峨天皇が作った河陽宮という離宮跡です。
■承久の乱
後鳥羽上皇といえば承久の乱を起こした人物です。「鎌倉殿の十三人」でも描かれていました。後鳥羽上皇が城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行う名目で西国の武士を集めると1700ほどが集まりました。これはいけると判断し鎌倉を攻めることにします。鎌倉側は迎撃論が主流でしたが、公家出身の大江広元が出撃しなければダメだと主張します。ちなみに大江広元の子孫が長州毛利家になります。
後鳥羽上皇は敗北し軍備の放棄を宣言します。古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐に流されます。
■鎌倉幕府が全国組織に
源平合戦で源氏が手に入れた平家の荘園は約500ケ所でした。承久の乱では6倍になり、西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。ところが、西国に領地をもらった御家人は貨幣経済に巻き込まれてしまいます。陶器や茶道具などを買うにはお金がいるため土地を担保に金を借ります。これが借金をチャラにする徳政令につながります。結局はシステム的に破綻し、倒幕になります。
■百人一首は後鳥羽上皇の鎮魂?
「ちはやふる」の百人一首ですが、作ったのは藤原定家です。歌い手の多くが政争で負け零落した人物が多いのが特徴です。また藤原定家は後鳥羽院と近かったのですが、承久の乱が起きた時に裏切っています。これが百人一首を作る動機の一つになっているようです。
離宮跡に作られた水無瀬神宮は鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を祭っています。