大和西大寺

大和西大寺

京都や奈良へ行く時、しょっちゅう乗換しているのが大和西大寺駅。昔、近鉄が「スルッとKANSAI」に加盟する前は大和西大寺駅で途中下車できたので近鉄百貨店などに寄っていましたが、途中下車できなくなってからは乗換でしか使っていません。そうそう生駒駅や布施駅でも途中下車できました。

駅の改札を出て、駅のすぐ近くにある西大寺へ。名前の通り東大寺に対して造られたお寺です。造ったのは聖武天皇と光明皇后の一人娘だった称徳天皇です。西大寺が出来たきっかけは聖徳太子の四天王寺と同じです。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起きた時に称徳天皇が対仲麻呂戦の勝利を祈願して、四天王寺の発願をしました。物部守屋との戦での四天王寺の守護を受けて物部氏を倒した故事にならいました。乱がおさまり約束通りに四天堂を建立。これが西大寺に発展していきます。

大伽藍でしたが平安時代の火災などで建物が消失。西大寺の面影を残すのは五重塔基壇だけです。

大仙古墳

三国ヶ丘駅

三国ヶ丘駅近くでお仕事。三国ヶ丘というのは、和泉、河内、摂津の国境にある丘のことを言います。まとめて呼ぶと摂河泉(せっかそん)になります。

三国ヶ丘駅はJRと南海の2つがあって便利がよい所です。駅のすぐ近くにあるのが大仙古墳です。昔は仁徳天皇陵と日本史で習いましたが、どうも履中天皇陵ではないかという説があります。古墳ですが、見ても単なる巨大な森ですねえ。まあ広大な古墳で、横をJRが平行に走っていて三国ヶ丘駅から百舌鳥(もず)駅まで一駅分あります。当時は海の近くで巨大古墳が海岸線に沿って3つありましたから、住吉津に向かう外国使節などには、すごいモニュメントに見えました。

暗峠奈良街道の終点

朱雀大路

近鉄・尼ケ辻駅の北側にある暗峠奈良街道を下っていくと阪奈道路と合流し広い道になります。そのまま東に進むとJR奈良駅を過ぎたあたりから観光客があふれる三条通りになって猿沢の池と興福寺の間を通り、春日大社の一之鳥居にぶつかります。ここが暗峠奈良街道の終点で江戸時代は南に下って、初瀬から伊勢を目指しました。

さすがに春日大社まで歩くのはしんどいので、もともとの街道の終点であった平城京の朱雀大路で終了。幅75mの朱雀大路が羅城門から朱雀門まで4kmにわたって続いていました。この朱雀大路は藤原京の下つ道と連結していました。

昔の暗峠奈良街道

近鉄・尼ケ辻駅のすぐ北側を暗越奈良街道が通っています。Googleマップではまっすぐな道が暗越奈良街道と表示されていますが、これは現在の国道308号線を、そのまま街道としたためでしょう。大正元年の奈良広域図では垂仁天皇陵に沿った路が暗越奈良街道になっています。

昔の暗峠奈良街道

垂仁天皇陵は古墳時代初め(5世紀初め)ですので、古墳を周遊する道が古代の暗越奈良街道で明治頃に今の国道308号線のまっすぐな道が造られたのでしょう。写真の道標から左の道を行くと昔の暗越奈良街道で、まっすぐな道が現在の国道308号線(暗越奈良街道)です。

暗越奈良街道(垂仁天皇陵)

暗越奈良街道をゆくシリーズです。

■垂仁天皇陵
追分を超え酷道308号を行くと近鉄・尼ケ辻駅近くにある垂仁天皇陵に出ます。第11代が垂仁天皇で娘が倭姫命です。倭姫命は各地を行脚し、最終的に伊勢神宮へたどりつきます。漫画「アマテラス」(美内すずえ)の主人公です、そういや「ガラスの仮面」はどうなったんですかねえ。垂仁天皇は相撲発祥でも有名で野見宿禰と当麻蹴速の天覧相撲を催しました

■田道間守(たじまのもり)
垂仁天皇は和菓子発祥にもかかわっています。田道間守を常世の国に派遣し、橘を探させます。橘は菓子でしたので田道間守が菓子の祖としてまつられることになります。

■フェークニュース
垂仁天皇陵の濠に小さな島があり、田道間守の墓と言われています。ところが、江戸時代の絵図などに島は描かれておらず、明治になって灌漑用に濠を拡げる時にもともとは外堤だった一部を残したようです。外堤を実際に歩いていますと途中で途切れていて、外堤の延長上に小島があります。それで、田道間守の墓と誰かが言い出し、壮大なフェークニュースとなりました。

暗越奈良街道(追分)

暗越奈良街道をゆくシリーズです。

追分

矢田丘陵にある榁木峠を越えて、坂を下っていくと森の向こうから、たくさんの犬が吠える声が!!まさか熊でもいるんかいなと思ったら郡山警察犬訓練所がありました。ここはドッグスクールなどもやっているんですね。さらに坂を下っていくと追分神社という小さな神社があり、道が交差しているところに出ます。今はふつうの交差点ですが、ここが追分でした。角には村井家住宅という古い建物があり、ここが大和郡山藩主の休憩用の建物でした。追分ですので暗越奈良街道から大和郡山への街道が分かれています。

暗峠に大和郡山藩の本陣が置かれたこともあり、暗峠に今も残る石畳は大和郡山藩が敷きました。大和郡山藩といえば柳沢氏ですね。元禄時代、将軍綱吉を補佐したのが柳沢吉保です。赤穂事件の時の当事者でもあり、よく時代劇に登場します。ちなみに駒込にある六義園はこの柳沢吉保が作りました。柳沢吉保の長男が甲府から大和郡山に転封となり、柳沢家が藩主となります。大和郡山の柳沢家は明治にまで続きます。

榁木峠

暗越奈良街道ファンの皆さん こんにちは!

榁木峠

近鉄・南生駒駅から矢田丘陵をひたすら登ると榁木峠(むろのきとうげ)に到達します。暗越奈良街道は国道308号線に沿っていますが酷道と言われるぐらいなので、ほぼ農道です。矢田丘陵の急坂を登ると榁木峠の切通しのようなところに到達します。ここは矢田丘陵遊歩道が交差していて、前に遊歩道を歩いていた時に山道から、いきなり舗装された道に出たので驚いたことがあります。20メートルほど車道を歩いて、また山道に入り、矢田丘陵遊歩道はトレイルコースやMTBコースでも有名で走っている人や自転車を持った人ともすれ違います。

峠の上には数軒の民家があるので、時たま軽が走っていますが、行き違いするのは、なかなか困難です。地元の人でないと国道といいながら車は無理でしょうね。

暗越奈良街道(矢田丘陵)

大阪と奈良を最短距離で結ぶ街道が暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)です。玉造駅近くの二軒茶屋からずっと東に向かい生駒山地の暗峠を超えて奈良側へ下っていくと近鉄・南生駒駅周辺に出ます。

生駒山地
Digital Camera

ここから奈良へ向かおうとすると、たちはだかるのが矢田丘陵です。生駒市から斑鳩町の法隆寺にかけて南北につらなる丘陵で、長さは約13キロメートル、標高は200m~300mと暗峠(標高455.8m)よりは低いのですが、登るのは、しんどいですね。途中で振り返ると生駒山がよく見えていて矢印部分が暗峠になります。

法隆寺付近を通る龍田道だと、もっと平坦なんですが距離が長くなります。コスパ重視なのか、昔の人は高低差があっても最短距離を選んだんですね。そうそう奈良へきた観光客が西に連なる山を見て「生駒山だ!」と言っている、ほとんどは矢田丘陵の間違いです。

ちはやふる竜田川

南生駒駅のすぐ横を流れているのが竜田川。

竜田川

実は竜田川は相撲取りの名前です(笑)。在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くぐるとは」の意味を聞かれた、ご隠居が知ったかぶりで話を作り始め、結局、大関まで昇進した竜田川が吉原に遊びに行ったところ千早太夫にふられてしまい(「ちはやぶる」)、いやになって大関をやめ豆腐屋になってしまい、おからの話へとなっていく落語がありました。

「ちはやぶる」とは次の「神」にかかる枕詞で、「いち(激い勢い)」「はや(敏捷に)」「ぶる(ふるまう)」という言葉が縮まったものです。鎌倉時代以降になると「ちはやふる」と濁らなくなります。百人一首の競技カルタの世界が「ちはやふる」というコミックとなり映画化もされました。

遠くに見えるのが生駒山です。南生駒あたりで見る竜田川には何の風情もないですね。

筒井さんの故郷

筒井城

近鉄電車・橿原線で西大寺から八木に向かう途中に高架駅があり、これが筒井駅。近くにはパナソニックの奈良工場があります。このあたりが筒井という土地で、ここを本貫にしたのが筒井氏です。有名なのが筒井順慶で大河ドラマ「「麒麟がくる」では駿河太郎が演じていました。大和の覇権を争う松永久秀(吉田鋼太郎)とバチバチやっていました。

■元の木阿弥
筒井順慶のお父さんが筒井順昭で大和の有力国人でした。ところが28歳で亡くなることになり、わずか2歳の筒井順慶が引き継ぐことになります。死を悟ったった順昭は重臣などを集め、まだまだ大和が安定していないので死んだことを秘し、その間自分に似ている盲目の法師・黙阿弥を身代わりにするよう命じます。一周忌を終え、順昭の死が公表されると黙阿弥は恩賞を受け取って元の法師に戻ります。これが「元の木阿弥」の語源となっています。

筒井順慶の後は従弟の筒井定次が継ぎます。秀吉政権となり伊賀へ改易となったことから伊賀上野城には筒井時代の天守閣跡が残っています。