鎌倉宮

いざ鎌倉へ

鎌倉宮

永福寺跡近くにあるのが鎌倉宮。ちょうど茅の輪が置かれていたので一足早く、夏越の祓をやってきました。鎌倉宮は大塔宮・護良親王を祭るために明治になってからできた神社です。

大塔宮・護良親王、日本史で習いましたね。後醍醐天皇の皇子で、後醍醐天皇が隠岐に流された後も鎌倉幕府を滅ぼすために吉野で挙兵します。吉野で幕府軍に敗れ高野山へ逃れます。幕府側は楠木正成、護良親王の二人を倒すために躍起になりますが、足利尊氏、新田義貞らによって鎌倉幕府は滅亡します。

建武の新政では足利尊氏の危険性を当初から見抜いていて対立。ところが後醍醐天皇が阿野廉子との間に生まれた義良親王(後村上天皇)を次の帝につかせたいと考えており、邪魔になった護良親王を鎌倉にいた尊氏の弟・足利直義の元に送ります。護良親王が幽閉されていたのが東光寺で、北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉に攻め込んできた時に足利直義によって殺されます。まだ28歳でした。この東光寺跡に建てられたのが鎌倉宮です。

永福寺跡

いざ鎌倉へ。

永福寺跡

鶴岡八幡宮から、けっこう歩いた所に永福寺跡があります。こんな所まで来る酔狂な観光客はほぼおらず、広い境内を地元の人がジョギングしています。永福寺跡を見て、平泉にある毛越寺跡や無量光院跡みたいだなと思ったあなた!正解です。

頼朝が義経と義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼした後に建てた寺が永福寺です。合戦で亡くなった義経や藤原泰衡らを供養するための寺でした。火事で焼失した後、発掘調査で池の前に3つの堂が並び立つ壮大な寺院だったことが分かり、基壇などが再現されています。ほんまに平泉の毛越寺跡みたいですねえ。

中学生の時に図書館にあった「義経記」を読むと金売吉次が義経を平泉に誘うシーンが出てきます。現実は義経のお母さんである常磐御前が再婚したのが藤原長成で、義経はしばらく長成に養われた後、鞍馬寺に預けられました。陸奥守がこの長成の親戚で、この親戚の娘が藤原秀衡の妻になっていました。ですので秀衡と義経は遠い親戚だったんですね。

また奥州藤原氏の祖となったのが前九年の役で敗れて殺された藤原経清。平将門を破った藤原秀郷の後裔と言われています。西行が2度、平泉を訪れていますが西行はもともと北面の武士で、先祖は藤原秀郷。そんな縁があったんですね。

北条義時のお墓

いざ鎌倉シリーズ。

北条義時のお墓

と言いながらお墓の話題が続いています(笑)。今度は「鎌倉殿の十三人」の主人公、北条義時のお墓です。源頼朝墓のすぐ近くなんですが、観光客の数は、がたっと減ります。「鎌倉殿の十三人」では後妻の伊賀氏に毒殺された風になっていましたが、本当かどうかは分かりません。なんせ62歳で亡くなっていますので、当時としては長生きです。

吾妻鏡に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記載されていたことから、2005年に北条義時の法華堂跡の発掘調査が行われ墳墓堂(法華堂)の遺構が見つかります。遺構は埋戻しされたために調査で見つかった柱跡などが地表に示されています。

■承久の乱
北条義時といえば承久の乱ですね。目をかけていた実朝暗殺などに怒った後鳥羽上皇が義時追討の命を出します。城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で武士を集めると西国武士が1700ほどが集まりましたが、朝廷の権威をあまりにも過大評価していました。朝敵扱いになっても東国武士は立ち上がり京都を攻め、後鳥羽上皇に味方した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。敗北した後鳥羽上皇は戦争放棄、軍備の放棄を宣言、古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

ただ西国に領地をもらった御家人は貨幣経済に巻き込まれてしまいます。陶器や茶道具などを買うにはお金がいるため土地を担保に金を借ります。これが徳政令につながり、ますます御家人を苦しめることになり、幕府滅亡の遠因へとなっていきます。

三浦氏のやぐら

いざ鎌倉シリーズ。

三浦氏のやぐら

「鎌倉殿の十三人」では山本耕史さんが三浦義村を佐藤B作さんが三浦義村のお父さんの三浦義澄を演じていました。三浦義村はクセのある人物として描かれていましたが、梶原景時の変、畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦、実朝暗殺、伊賀氏事件など鎌倉で起きたあらゆる事件にからんでいます。北条義時が病死し、後を北条泰時が継いでからは宿老として幕府を支えています。最後は病死でした。

三浦氏は北条氏と並ぶような存在となったため、宝治元年(1247年)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅ぼされます。ただ吾妻鏡にしか出てこず、三浦氏は北条と安達に騙し討ちされたではないかという説もあります。この三浦氏を弔った「やぐら」(横穴墳墓)があります。さすがに、こんなところまで来る観光客は数人ですね。

頼朝墓

いざ鎌倉シリーズです。

頼朝墓

鶴岡八幡宮から畠山重忠邸宅跡を抜けて行くと白旗神社と石塔があります。相模川で催された橋供養からの帰路に源頼朝は体調を崩します。「鎌倉殿の十三人」では落馬するシーンが描かれていましたが、死因は定かではありません。「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けていて、謎になっています。建久10年(1199年)に頼朝は亡くなります。

亡骸は持仏堂に葬られましたが、江戸時代に薩摩藩主が現在の石塔(頼朝の墓)を建てました。明治になって廃仏毀釈により持仏堂を継承した法華堂が壊されて今は頼朝を祀る白旗神社が建てられています。

鶴岡八幡宮には山のような観光客がいましたが、頼朝墓まで訪ねる人は少数で、ほとんど観光客はいません。

サザン

エボシ岩

茅ヶ崎館で23時頃まで宴会して寝たはずが、朝日で部屋が明るくなると起きる歳になってしまったため5時には目が覚めます(笑)。他のメンバーがグースカ寝ているなか、旅館のすぐ近くにある茅ヶ崎の海岸へ出て散歩。朝早くから釣りやサーフインをする人やランニングする人などたくさんいて、関東人は朝から元気ですねえ。地引網もやっていました。

海岸沿いの道を歩くと烏帽子岩を見ることができます。茅ヶ崎はサザンの聖地になっていて、なんの変哲もない道にサザン通りという名前がついています。そういえば「チヤコの海岸物語」の歌詞にエボシ岩が出てきました。そうそう道の途中に「C」のモニュメントがあって、写真を撮っている人がいたのですがサザンのジャケット写真に使われていたんですね。私は烏帽子岩のモニュメントを撮っていました。

畠山重忠邸宅跡

畠山重忠邸宅跡

鶴岡八幡宮のすぐ近くにあるのが坂東武士の鑑と言われた畠山重忠邸宅跡。碑は建っていますが、碑しかないので誰もいませんねえ。「鎌倉殿の十三人」では中川大志さんが畠山重忠を演じていました。武蔵国男衾郡畠山郷が本貫です。頼朝を助け幕府創業を助けた立役者ですが、やがて北条時政と対立。鎌倉にすぐ来いとの呼び出しに、わずかな手勢で鎌倉に向かう途中、謀反の疑いがあるということで北条義時が差し向けた大軍と激突して討死します。

謀反の疑いは北条時政の讒訴ではないかと、いうことで北条義時は時政を糾弾したと吾妻鏡には記載されていますが、歴史書は勝者のものですから本当のところは分かりません。畠山重忠は吾妻鏡では謹直で真面目な人物として描かれており、梶原景時と正反対。梶原景時は頼朝の汚れ役をやっていたので、メチャクチャ能力は高いのですが、嫌われる役職にいた石田三成によく似ています。となると畠山重忠は加藤清正というところかなあ。

鶴岡八幡宮の大銀杏

いざ鎌倉へ

鶴岡八幡宮

パソコン通信(古いなあ)時代の仲間が集まるイベントが茅ヶ崎で開催されますの、少し早い目に出て鎌倉へ。40年ぐらい前に大仏を見に来た覚えがあるのですが、全然、土地勘がなく横浜から電車に乗ると鎌倉駅は横須賀へ行く途中なんですねえ。京都ほどではありませんが鎌倉も観光客であふれていました。

まずは定番の鶴岡八幡宮へ。この参道で公暁が実朝を暗殺しますが、公卿が隠れた大銀杏が2010年に倒れてしまいました。樹齢は1000年を超えていますので建保7年(1219)の事件でも現役でした。倒れた後から若芽が芽吹き、だいぶ成長していました。案内も何もないので、観光客は素通りですね。

異界彷徨

異界彷徨

大阪歴史博物館で開催されている特別企画展「異界彷徨 ―怪異・祈り・生と死―」へ。常設展のチケット(大人600円)で見ることができます。河童や天狗など盛りだくさん内容でしたが、目的は百鬼夜行図です。

京の大路を夜な夜な練り歩く化け物を書いた絵巻です。日本では付喪神(つくもがみ)と呼び、長い年月を経た道具に精霊が宿ると考えますので、絵巻には琴など様々な道具の化け物が描かれています。

面白かったのが蕪村妖怪絵巻で、与謝蕪村が妖怪絵巻を書いていたんですね。手拭をかぶって踊るマタネコや「のっぺらぼう」など、なかなかユーモラスですね。6月26日(月)まで開催されています。

ATC

ATC

久しぶりに咲洲にあるATC(アジアトレードセンター)でお仕事。商い繁盛館があった頃はネットショップセミナーの相談担当などで、来る機会がありましたが、最近はさっぱりです。ここのエレベータがシースルー型になっていて高所恐怖症にとっては地獄ですね。操作盤ちかくにはりついておりました。帰りはひたすらエスカレータを乗り継いで帰りました。