東海道57次

京街道

東海道53次と学校で習いましたが実際に整備されたのは57次でした。歌川広重が東海道五拾三次之内という浮世絵を発表し、これが大ヒットしたため、53次が世間の常識になってしまいました。

京都で大名が公家と接触しないよう大名行列の行先を変更します。大津宿から山科の手前の髭茶屋追分で分かれて伏見から大坂へ向かうルートになり京都を通りません。東海道の延長として道中奉行の管轄下となり、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられます。ゴールは高麗橋で京街道と呼ばれます。

ということで守口宿の文禄堤から高麗橋を目指して出発です。今市、千林を超えて関目に到達。関目神社を目指す予定がルートを間違えて南下することに。蒲生四丁目に着いてしまったのでリタイア。地下鉄で帰ってきました。

文禄堤

文禄堤

秀吉が朝鮮出兵したのが文禄・慶長の役です。文禄は1592年~1596年までの期間ですが、この時に淀川左岸の堤防道を造りました。これが文禄堤で守口に一部が残っています。枚方から長柄(大阪)まで続く全長27kmの大堤防で、秀吉が毛利(毛利輝元、小早川隆景、吉川広家)に命じて作らせました。また堤防の上には大阪ー京都を結ぶ京街道が整備されます。高い土地の一角が守口宿跡に残っていて京阪守口駅のすぐ近くに文禄堤の断面図を見ることができます。高台になった京街道を歩くのは、なかなか風情があります。

文禄3年に秀吉は伏見城を造っていて、伏見を物流基地にするため宇治川・淀川等の付け替えなど大規模な治水工事を行っています。巨椋池への流路などを大きく変えて、太閤堤と呼ばれました。秀吉といえば大々的な土木工事で戦をした人物でした。秀吉が行った都市の大改造が今も京都や大阪にそのまま残っています。

ダイエー創業地

ダイエー創業地

価格破壊で松下電器産業の松下幸之助と戦ったダイエーの中内功。ダイエー・松下戦争と呼ばれましたが、今では知らない人も多いでしょうね。ダイエーは1957年で神戸市に大栄薬品工業株式会社という名前で設立されます。同じ歳に千林商店街に1号店「主婦の店・大栄(ダイエー)薬局店」をオープンします。千林商店街に行ったついでに創業の地に寄ってきましたが今はドラッグストアになっています。ちゃんとGoogleマップに出てきます。

この千林からダイエーの快進撃が始まりますが、今はイオンの傘下になっています。ひょうご産業活性化センターが三宮のサンパルにあった時、隣にダイエーとジュンク堂があったので、よく昼休みに利用していました。ダイエーのマークだったのが途中でイオンフードスタイルのマークに変わってしまいました。

太鼓櫓(西本願寺)

太鼓櫓

新選組は最初、壬生にある八木家を屯所にしていましたが、池田屋事件で脚光を浴びたため、幕府からの支援もあり、新規隊員募集で200人を超える大所帯になります。手狭になったので慶応元年(1865年)に西本願寺へ移転します。新選組の隊士がいたのは北集会所で隣にあったのが太鼓櫓です。北集会所は姫路に移築されましたが、太鼓櫓は残っています。

北集会所は約200畳で、200人には狭く、一人一畳のスペースで、医者の松本良順が訪ねた時は隊士の約3分の1が病人というありさま。松本良順は病室を分け、「衛生と滋養」が何よりも大切とアドバイス。土方歳三はさっそく西本願寺にかけあって浴室の整備などを始めます。

西本願寺も困ってたようで新たな屯所を用意して、現在のリーガロイヤル京都がある場所へ移転してもらいました。しかし新しい屯所にいたのは、わずか6ケ月で伏見奉行所に移り、ここで鳥羽伏見の戦いが勃発します。

朱雀門

朱雀門

■朱雀門
平城京の正門が朱雀門で、ここから南の羅城門まで朱雀大路がのびています。平城京には12の門がありましたが、「天子南面す」が基本でしたので南の朱雀門が一番、重要な門になります。現在の朱雀門は1998年に復元され、休日に近鉄電車に乗ると「右手に平城京の朱雀門が左手には大極殿が見えます」とアナウンスされます。

藤原京などでは大伴氏が守っていたため大伴門とも呼ばれていましたが、714年に南方を守護する朱雀の名を冠した朱雀門になりました。外国使節は羅城門をくぐる決まりがありましたので、朱雀大路を進んで朱雀門に至り門前で歓迎会が開催されました。平城京ですが、「へい・じょう」は漢音、呉音の組み合わせでありえず、本当は「ヘイ・ゼイ」か「ヒョウ・ジョウ」のいずれかで呼んでいたはずです。

■SDGs
当時は資材が貴重でしたので、基本的に再利用です。藤原京から平城京遷都となった時、使える瓦は平城京に運ばれ再利用されました。平城京用に新規で焼いた瓦は黒っぽくなっていて、色で平城京の瓦か藤原京の瓦か見分けられます。

大極殿は中心となる建物なので全部新調されました。現在、平城京跡に大極殿と朱雀門が復元されていますが、大極殿には平城京で新調された黒っぽい瓦、朱雀門には藤原京の瓦が使われたことから白っぽい瓦で復元されています。

大極門・東楼

大極門

平城宮・大極殿の正門が大極門です。扁額に大極門と書かれていますが、門の名前は分かっていません。第一次大極殿院では大極門の横に東楼と西楼があり、遠くから見ると門が3つ並んでいるようにみえます。平城京が造られた頃は大極門だけでしたが、730年頃に回廊を改造して、左右対称の楼を作り、豪華に見せるように工夫したようです。

楼の2階は屋根付きのオープンテラスのような構造になっており聖武天皇が楼の上で宴会をしたという記録がありますので、宴会場として使ったのでしょう。東を見ると若草山、東大寺が見えるし、西は西大寺、生駒山が見え、塔以外に高い建物はないので平城京が一望できたでしょう。東楼ができあがるのは2026年頃のようです。

朱雀大路の延伸

平城京の朱雀門前に幅90mで220mにわたって朱雀大路が再現されていますが、大宮通りで途切れています。その先に住友化学の工場があったのですが、なくなって三条通りまで空地になっています。おお朱雀大路が伸びそうだなと調べてみると、公園が造られる計画だそうで、うまくいくと朱雀大路が三条通りまで延伸されるようです。

朱雀大路

平城京があった頃は、ここから4km先の羅城門までつながっていました。羅城門で出迎えた外国の使節は、この朱雀大路を通り、平城宮へ入りました。朱雀大路が延伸する三条通りは暗峠奈良街道と交差しており西に行けば鶴橋で東は興福寺につながっています。

大阪城天守閣

大阪城
  • 大阪城天守閣へ前回、行った時は長蛇の列で早々に退散。ということで土曜日はゴールデンウィークの終わりだし、雨が降りそうな天気、きっと観光客は少ないはずだと行ってみたら同じように長蛇の列でした。
  • 短そうに見えますが、実は右に折れて金蔵の方まで列は続いています。確かに日本人観光客は少ないのですが、周りはインバウンドの観光客ばかり、フランス語や韓国語やよく分からない言葉など、まず日本語が聞こえません。海外の博物館に並んでいるのと同じですね。
  • ■豊臣大坂城史
    さて目的は「豊臣大坂城史」というテーマ展です。エレベータも長蛇の列ですので、階段をひたすら登ります。テーマ展では秀吉などの朱印状や大坂冬の陣配陣図などがありました。屏風には有名な真田丸が二階建てで描かれ、寄せる徳川側も仕寄攻めのための竹束、塹壕、築山などが描かれています。堀には夜討ち防止のための提灯があります。大阪府よろす支援拠点のすぐ近くにある本町橋の戦いも載っていました。

天平祭り

天平祭り開催中の平城京跡へ

天平祭り

朱雀門近くで、いろいろとイベントをやっており、屋台も出ていました。天平祭りなので平城京にあった西市・東市の雰囲気になっています。と言っても売っているのはビールや焼きそばなどふつうの物です。天平衣装の貸出もしていて、天平人が海上のアチコチを歩いておりました。

頭塔

ファイティング・コンサルタンツ研究会という、創建時の崇高な思いはどこへやら、単なる飲み会組織に変貌した集団です。前回、山の辺の道の途中で断念したので、そのリベンジのために近鉄・奈良駅の行基像前に集合。とりあえず昼飯ということで、高速餅つきで有名な中谷堂のすぐ近くにある和食ダイニング拓というお店へ。小さなオチョコ100円でお酒が飲めるお店です。風の森などお酒が豊富なので、いろいろと試していると必然的に宴会に。奈良駅からJR柳本駅まで出て、山の辺の道リベンジのはずが、1時間に1本しかない列車の発車時間は過ぎ去ってしまいます。

ということで目的地を変更。東向商店街は観光客とインバウンドで一杯でしたので、そのまま餅飲殿商店街を南下して奈良町へ。奈良町もそこそこの人出なので元興寺の塔跡や大乗院庭園など、人がいない所を狙って散策。そのまま新薬師寺を目指すと、途中の頭塔で特別公開をしていました。ラッキー。

頭塔

■頭塔
奈良時代に東大寺の僧が国家安泰を祈って築いた土塔でピラミッドになっています。よく似た塔が堺の深井にある土塔です。茨城県にも土塔森林公園という所があるので、他にあった可能性もありますが、復元されてみることができるのは2つだけですね。