百済大寺

用明天皇の磐余池辺雙槻(なみつき)宮、もう一つの伝承地が吉備春日神社です。神社の横に吉備池(江戸時代に造られた溜池)があります。池にたどりつくのが大変なところで、迷いましたが結局は吉備春日神社からしか池に入る道はありませんでした。こんなところ観光客は絶対に来ないですね(笑)。吉備池廃寺跡で検索するとGoogleマップではでてきます。

吉備池
吉備池

■百済大寺
吉備池のほとりに塔跡と金堂跡がみつかり、吉備池廃寺と名づけられましたが、百済大寺とみられています。建てられたのは舒明天皇の時代とみられています。西の民は都を造り、東の民は寺を造るとの記載があり、百済大寺の西側には百済大宮があった模様です。

吉備池のほとりに大津皇子の歌碑がありました。大津皇子の辞世の句は磐余池で詠まれたので建てられていますが、吉備池は江戸時代にできた池なので絶対に磐余池と違うでしょう。もう少し西にいった池尻あたりと考えられています。

用明天皇の宮

大和桜井駅から少し行ったところにあるのが磐余(いわれ)です。神武天皇の日本書紀での名前は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)ですので、とっても古い地名になります。

磐余池辺雙槻宮比定地
磐余池辺雙槻宮比定地

聖徳太子のお父さんといえば用明天皇、用明天皇のお父さん欽明天皇の時代に仏教が伝来し蘇我氏と物部氏の対立が続きます。用明天皇の時代にも蘇我馬子と物部守屋との抗争が続き用明天皇は病に倒れます。後継の崇峻天皇は蘇我馬子に討たれることになる激動の時代でした。

用明天皇の宮が磐余池辺雙槻(なみつき)宮で伝承地が2つあります。1つが石寸山口神社周辺で、大和誌に双槻(なみつき)神社と呼ばれてたことがあり伝承地になっています。もう一つが吉備春日神社です。ということで石寸山口神社を探して行ってきました。住宅地から坂を登ったところにあり、案内板も何もありません。池そばにある高台にあり、守りやすい地になっていて三輪山もよく見えます。

用明天皇の磐余池辺雙槻宮ですが近年、ずっと西に行った場所で大型建物と池跡が発掘され、こちらではないかと言われています。

十三仏

小脇山城へは瓦屋寺から箕作山経由か十三仏経由で行くことができます。十三仏コースを選びましたが、これがなかなかきつい。麓から岩戸山頂上まで延々と石仏が並ぶ石段が続きます。あとで調べたら約800段なんだそうです。

十三仏
十三仏

十三仏というのは聖徳太子がこの山の南裏に瓦屋寺を建てた時、岩戸山に金色の光りを発する不思議な岩を見つけたそう。太子は仏のお導きということで、岩にたどりつき仏像を彫ろうとしたが道具がなかったので自らの爪で十三体の仏を刻んだということです。

岩戸山頂上には巨大な岩が何本かそそりたち、お堂がありました。古代から磐座として信仰されていた場所なんですね。眺めはよく、柴田勝家の瓶割山城がすぐ前に見えます。お堂を通り過ぎた奥から磐座に登る道があって、そこから小脇山城に到達できます。

釣狐 発祥の地

釣狐 発祥の地

釣狐 発祥の地
釣狐 発祥の地

勝楽寺城へえっちらおっちら登る途中に琵琶湖が一望できる眺めのよい場所があり、ここが狐塚。稲荷大明神が祀られています。ここが狂言の「釣狐」発祥の地なんだそうです。

「昔、この寺に白蔵主という和尚がいて、その弟に狩猟好きの金右衛門という男がおった。和尚はいつも殺生を戒めていたが、ある日、白蔵主は外出して山道にさしかかった時、金右衛門に見つかり、白狐とまちがえられて殺され、はじめて金右衛門は白狐が兄とわかり、平素の殺生の戒めに気づいた」と云い伝えられています。この話を元に狂言の「釣狐」が生まれたそうです。

へ~え。
ということで勝楽寺本堂では茂山家による「釣狐」が演じられているそうです。

婆沙羅大名 佐々木道誉

  • 少年ジャンプに「逃げ上手の若君」が連載されています。主人公は北条時行で、足利尊氏、新田義貞らによって鎌倉幕府が滅ぼされた時、一人逃げた少年です。ですので「逃げ上手」というわけ。後に中先代の乱という室町幕府存続に関わる大乱を起こします。

    ■婆沙羅大名・佐々木道誉
    連載では、ちょうど京都に来ていて魅摩というバサラで有名な佐々木道誉の娘と双六勝負などをしています。佐々木道誉といえば足利尊氏に協力し、政所執事や6ヶ国の守護をしていましたが、有名なのが婆沙羅(バサラ)です。バサラとは権威主義に反して派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識で、今でいうと「チョー、ヤバい!」ですかねえ。戦国時代の歌舞伎にも通じていきます。

    ■魅摩とは?
    佐々木道誉が本拠にしたのが近江の甲良荘勝楽寺。ここに館がありました。勝楽寺にお墓があります。「逃げ上手の若君」は漫画ですが、けっこう深い作品になっていて佐々木道誉の娘の「魅摩」は道誉の書状に出てくる「ミま」からきています。実際の「ミま」の素性については諸説あります。また信濃守護の小笠原貞宗など日本史の教科書に出てこない武将などが登場します。行儀作法といえば小笠原流ですが、その小河原流の中興の祖です。
勝楽寺
勝楽寺

越塚御門古墳

越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)

越塚御門古墳
越塚御門古墳

牽牛子塚古墳に隣接し2010年に発見された古墳です。整備のために牽牛子塚古墳周辺の発掘をしている時に見つかりました。牽牛子塚古墳が八角形の墳丘で、しかも石室が2つあった合葬墓から斉明天皇と娘の間人皇女が被葬者と考えられていますが、日本書紀に「皇孫太田皇女を、斉明陵の前の墓に葬す」と記載されているので、牽牛子塚古墳の目の前にある越塚御門古墳の被葬者は太田皇女でしょう。

■太田皇女とは
太田皇女とは斉明天皇の孫娘となり、天智天皇の娘で、後の持統天皇の姉にあたります。大津皇子のお母さんですね。持統天皇は息子である草壁皇子を天皇とすべく、競争者だった姉の子である大津皇子を謀反の疑いで殺してしまいます。太田皇女は大津皇子が4歳頃に亡くなっていて後ろ盾になりませんでした。ドロドロとした「天上の虹」の世界です。大津皇子の墓は二上山上にあるとされていますが、謀反人を山上に葬るとは考えにくく、麓の鳥谷口古墳ではないかという説があります。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)

牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳

以前に行った時は竹林の中にある土の山の古墳でしたが、きれいに公園として整備されました。牽牛子はアサガオの別称で八角墳の形がアサガオに見えるところから名づけられました。最初は円墳と思われていましたが、天皇しか使えない八角墳ということがわかり、しかも石室が2つあるところから日本書紀に記載されている斉明天皇・間人皇女の合葬陵と考えられています。

斉明天皇といえば中大兄皇子のお母さんです。乙巳の変では襲われた蘇我入鹿が天皇の前にすすみますが、とどめをさされました。白村江の戦など朝鮮情勢などに振り回された時代です。斉明天皇は九州へ出兵した時に那の津(福岡)にて急死しています。

斉明天皇は多武峰に両槻宮を作り、また運河を掘るなど土木工事が相次いだため、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄されました。明日香に残る亀形石造物や酒船石は斉明天皇の時代に造られています。そうそう大阪の四天王寺にあり、今も現役で使われている亀形の石造物がこの酒船石と同時代のものです。

薬水供橋

軽便鉄道だった吉野鉄道が走り始めたのが1912年(大正元年)。国鉄吉野口駅から吉野駅(今の近鉄六田駅)間で開業します。

薬水供橋
薬水供橋

吉野の木材輸送と観光客を運ぶための鉄道でした。吉野口駅からは山岳鉄道のようにひたすら坂を上っていきますが薬水駅を出発してすぐのところに薬水拱橋があります。開業した大正元年にできた煉瓦積みの2連アーチ橋で、現在も現役です。鉄道橋で現在は近鉄吉野線が走っています。

道路と水路で併用されている珍しい構造で、土木遺産になっています。鉄道橋なのに扁額がかかっていて、この地区の入口を表すように「薬水門」と書かれています。

浄教寺

奈良の三条通り沿いにある浄教寺へ法事で行ってきました。

浄教寺
浄教寺

隣には開花天皇陵とホテルフジタがあり、JR奈良駅から興福寺を結ぶ通り沿いですから観光客などで賑わう所です。三条通りはもともと平城京の三条大路でした。

浄教寺は浄土真宗本願寺派なんですが歴史が古く、寛元二年(1244)創建ですので「鎌倉殿の13人」の時代ですね。もともとは河内にありましたが大和に引越をして、しばらくは九条の里にあったことから本堂には九条山の額があがっています。織田信長と石山本願寺が戦った石山合戦では本願寺側で戦い、顕如上人から石山本願寺にあった阿弥陀如来を拝領したそうです。

徳川家康時代に現在地の三条通り沿いへ移転しました。

柳の渡し

六田城に向かうには美吉野橋を渡ります。吉野川にはいくつか橋がかかっていますが、昔は渡しでした。美吉野橋近くにあったのが柳の渡しです。六田(ムダ)と対岸を結んでいました。渡し跡には江戸時代の石灯篭や道標が残り柳も植えられています。

柳の渡し
柳の渡し

柳の渡し以外にも桜の渡し、椿の渡し、桧の渡しがありました。柳の渡しは景勝地だったようで万葉集に「音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川 六田の淀を 今日見つるかも」という歌が残っています。

吉野からさらに奥に入ると修験道の大峯奥駈修行があります。修行では75の靡(なびき)と呼ばれる行場を巡ります。柳の渡しが北の起点で75番目の靡になっていました。昔は、多くの行者が吉野川で禊ぎをして大峯を目指したそうです。ちなみに1番の靡は熊野本宮大社です。