木沢長政の墓

鳥坂寺跡から智識寺跡を目指そうと柏原市歩いていると安堂太平寺共同墓地に木沢長政の墓を発見!
調べてみると木沢長政の遺族が五輪塔を建立した可能性が高そうです。

木沢長政の墓
木沢長政の墓

木沢長政といえば飯森山城を築城した人物です。守護である畠山氏の有力な被官でしたが、力があり信貴山城や二上山城を築城しています。三好の遺児である三好長慶を畠山晴元のもとへ帰参させたのも木沢長政でした。畠山の家中はかなりグチャグチャで、ここに三好長慶、遊佐長教、室町将軍、一向宗、法華宗、筒井などがからんで、さらにグチャグチャになります。

河内や摂津の山城関係で必ず名前が出てくるのが木沢長政です。10年にわたり畿内で権勢をふるっていた木沢長政は最後に孤立することになり、遊佐軍、三好軍との戦いとなります。これが太平寺の戦いで、カタシモワイナリー付近で戦われ木沢長政は討ち死にします。この後に台頭するのが信長の前に天下人となった三好長慶です。

そうか、あの木沢長政の墓があったのか!

鳥坂寺跡

単なる野原のように見えますが、ここが鳥坂寺跡です。鳥坂寺跡の中心は近鉄大阪線が通り、こんもりとした森が塔跡になり、手前には金堂がありました。鳥坂寺は河内六寺の一番南にあった寺で孝謙天皇(聖武天皇の娘)が平城京から難波京へ行く途中、河内六寺を参拝した記事があります。

鳥坂寺跡
鳥坂寺跡

旧大和川沿いに6つの寺が近い距離で連続して建てられました。川沿いに6つの塔がそびえ立っていたことになります。当時の塔といえば庶民にとってが超高層建築ですので今でいうと梅田の高層ビル街を眺めるような感じでしょう。隋や唐からの使者も難波京から旧大和川に入って飛鳥や平城京に向かいましたので、林立する塔を船から見て感心していたでしょう。

竹原井頓宮

河内国・国分寺から大和川をはさんだ対面にあったのが竹原井頓宮跡地です。頓宮(とんぐう)とは仮の宮のことを言います。頓宮跡だと期待して現地に行っても何もなく広っぽい平地があるだけですのでご注意を。

竹原井頓宮
竹原井頓宮

続日本紀に養老元年(717)、元正天皇が和泉宮から平城宮へ還る途中に、竹原井頓宮に宿泊したという記事が出てきます。聖武天皇も難波宮へ向かう途中に竹原井頓宮跡地でよく泊まっていました。

平城京から難波宮へ向かうには斑鳩を通って龍田道に入り、亀の瀬を通っていきますが、竹原井頓宮は河内国にちょうど入ったところにあります。平城京と難波京のちょうど真ん中でしたので宿泊地にはよかったのでしょう。しかも大和川が湾曲するところで吉野宮(宮滝遺跡)に場所が似ています。

竹原井頓宮は光仁天皇の頃まで使われていましたが、長岡京遷都に伴って解体され、建築資材として大和川・淀川水運を利用して大山崎へ運ばれました。

河内国分

近鉄・大阪線の急行に乗ると布施駅の次は奈良に入る手前の河内国分駅まで止まりません。大和川を渡ったすぐの駅で河内国分駅前には餃子の王将と大阪王将の2つのライバル店が道を挟んでありましたが、先日、行ったら大阪王将はなくなっていました。この近くで大坂夏の陣で後藤又兵衛が徳川軍と戦い討ち死にした小松山の戦いが行われたところで、駅のホームから見えます。

河内国分寺
河内国分寺

さて河内国分なので河内国の国分寺が駅名の由来です。大和川沿いの小高い所に国分寺が建てられました。礎石が見つかっていて大規模な七重塔だったようです。小高い所に七重塔ですので、東京タワーのようなランドマークだったのでしょう。

龍田道

古代、物資を運ぶなら船でした。難波津から河内湖へ入り、大和川を遡って亀の瀬へ至ります。大和川は難波津と平城京を結ぶ交通路だったため大和川沿いに河内六寺の仏塔が林立していました。平城京へ向かう海外の使節も感心したでしょう。鳥坂寺、家原寺、智識寺、山下寺、大里寺、三宅寺の6つでしたが、すべて廃寺になっています。瓢箪山駅近くにあった河内寺の仏塔も目立っていたようです。

龍田道
龍田道

亀の瀬から先は岩だらけで進めないため荷物を陸揚げして龍田道を進みます。一番高いのが亀の瀬より40m高い標高80mの峠八幡神社です。峠を越すと大和川へ出られるので、ここから荷物を船に乗せ換えて平城京を目指したのでしょう。大和川は飛鳥の海石榴市(つばいち)まで続いていますので、遣隋使の小野妹子や裴世清はこの龍田道を通ったのでしょう。

奈良湖(亀の瀬)

皆さん、よくご存じのように奈良には奈良湖がありました。大和の古代氏族の本拠地を見てて不思議なのが大和盆地の真ん中に、どの氏族もいないことです。

亀の瀬
亀の瀬

奈良湖を作っていた舞台が大阪府と奈良県の境にあるのが大和川の亀の瀬。奈良中の川が合流し大和川になって大阪に流れますが、亀の瀬でせき止められたのでしょう。亀の瀬は地滑り地域で有名で昭和6年の地すべりでは川をせき止めてしまい王子町内が浸水しました。往年の奈良湖がよみがえりました。この時は2万人/日の観光客が押し寄せ、絵葉書が売りに出され、野天カフェも設置されました。

縄文時代から古代にかけてあった奈良湖は断層による陥没などができ、どんどん排水されて消滅していったようです。大和川は古代から物流の拠点でした。遣隋使で煬帝の親書を持参した裴世清も、亀の尾を通っていました。竹内街道が古代の国道1号線と言われていますが、こちらの方が古いようです。聖武天皇が難波宮に行幸する時もこの道を通っていました。

ただし船は亀の瀬までは剣先船で登れますが、そこから先は無理で荷物を陸揚げして龍田道を通り大和側で船に積み替えていました。

矢田丘陵

大和の西側にある馬見丘陵は大和川で途切れ、法隆寺のある斑鳩の地からは北に向かって矢田丘陵があります。丘陵の南北の長さは約13キロメートルあり、標高は200メートル~300メートル程度、馬見丘陵に比べると格段に高いですね。なだらかな山道が続くためトレイルランでも人気のコースになっています。

矢田丘陵
矢田丘陵

東大寺などから西を見ると生駒山ではなく矢田丘陵が見えます。大和の古代氏族の勢力図を見ると矢田丘陵の南側は平群氏ですが、北側の方は空白地になっています。矢田丘陵の北にあるのが饒速日命(ニギハヤヒ)のお墓。一説には矢田丘陵のように長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言ったそうです。神武以前の氏族がいたので空白地帯になっているんですかねえ。

馬見古墳群

馬見丘陵にあるのが馬見古墳群で総数は250基以上あり、葛城氏の墓域と言われています。馬見丘陵でニュータウン開発が進んだ時、古墳群などの保存のために馬見丘陵公園が計画され1991年に開園しました。

馬見古墳群
馬見古墳群

馬見丘陵公園の中には12ほどの古墳があり、丘かなと思って登ると前方後円墳の墳丘の上になっていたりします。古墳は丘陵の上に作られていますから麓からはよく見えるランドマークになっていたのでしょう。当時は葺石で覆われ、埴輪なども並んでいました。

山の上に風力発電の風車がいくつも並んでいると卒塔婆が並んでいるように感じられますが、古墳がいくつも連なっていると、古代人はどう感じていたのでしょう。

廣瀬大社 水の神

水の神、風の神といえば?

正解は廣瀬大社、龍田大社です。廣瀬大社は河合町川合にあり、地名通り佐保川、初瀬川、飛鳥川、曽我川、葛城川など、奈良盆地を流れる全ての川が合流する地にあります。ここから大和川になって大阪へと流れていきます。

廣瀬大社
廣瀬大社

天武天皇が水の神である大忌神を廣瀬大社に祀ったと日本書紀に出てきます。風水を治めれば天下が安泰するとして、龍田大社の風神と一対の社としました。龍田大社では風鎮めの祀りである風神祭を行い、廣瀬大社では大忌祭(おおいみのまつり)が行われます。別名が砂かけ祭で神社の砂を雨の代わりに投げて、このように雨を降らせていただいたら、田植が順調に進みます、と神様にお願いする祭りになっています。