古代、交通の大動脈といえば琵琶湖でした。なんせ大量の物を運ぶには船が一番です。継体天皇は応神天皇5世の孫で、ほとんど血縁関係がなく、この時に王朝が変わったという_unga説があります。継体天皇が選ばれたのは日本海-琵琶湖-宇治川-淀川-瀬戸内海の水運を抑えていたからでした。織田信長も琵琶湖の水運を重視しており、秀吉の長浜城、信長の安土城、光秀の坂本城、織田信澄の大溝城で琵琶湖を取り囲むネットワークを築きます。
琵琶湖の水運でネックだったのが敦賀と近江塩津との間、急峻な山が続きJR北陸本線はループ線になっています。なんとか運河を作ろうと平重盛が計画しましたが断念。敦賀城主となった大谷吉継も挑戦しましたが断念。江戸時代になって幕府も挑戦しましたが、結局はダメで途中の敦賀から疋田までは何とか運河にし、ここから山越えになりました。その名残が疋田の町に残る疋田舟川です。計画は昭和にもあり、それが日本横断運河ですが、結局、断念しました。
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ニギハヤヒ
■行くのが大変なニギハヤヒのお墓
近鉄けいはんな線・白庭台駅は神話に出てくる「鳥見白庭山」から地名がつけられています。神話の主がニギハヤヒ(饒速日命)でGoogleマップで調べると駅近くにお墓が出てきますが、これを信じると、えらい目にあいます。Googleマップの経路案内(徒歩)で最短ルートを探して行ってみても崖しかなく全く役に立ちません。
ネットで調べると生駒市総合公園まで回り込まないとたどりつけないようです。なるべく高台を目指すと途中で山道を発見。これがピンポンで、山道をひたすら登っていくと、たどりつけました。
■天皇家と同じだったニギハヤヒ
ナガスネヒコが仕えていたのが神武天皇より先に大和へ天下っていたニギハヤヒです。ナガスネヒコの妹を妻として生まれたがウマシマジ(宇摩志麻遅命)で物部氏の祖となります。同じ天孫の神武天皇が現れたのでニギハヤヒはナガスネヒコを裏切って神武天皇につきます。なんてやつだあ!
ニギハヤヒは天磐船に乗って河内国の川上哮峰(交野市)に天下り、次に鳥見白庭山に移ります。この白庭山にお墓があります。神武天皇より先に天下り大和に鎮座していた勢力があったことを日本神話や古事記も隠せなかったんですね。しかも物部氏の祖でもあり、なぜ出雲系の三輪神社があるのかなど不思議が多い大和です。
ナガスネヒコ 本陣の碑
長髄彦(ながすねひこ)ってご存知ですか?
神武天皇が海だった大阪を渡り、生駒山の麓にある日下に上陸。日下から生駒山を越えて大和に入ろうとしたところ、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。神武天皇軍は生駒山にあった日下の直越(ただごえ)という道を進んでいきますが、麓から生駒山を登るには2時間ほどかかりますので、けっこう大変です。なんで山道を登ろうと考えたんですかねえ。もっと枚方あたりに回って北から大和へ回り込めば楽だったのに。どうも日下に何かあったようで、後世に宮の名前で日下がでてきますから支援者の拠点だったのかもしれません。
■ナガスネヒコの本陣碑
神武天皇を迎え撃ったのが長髄彦で本陣の碑が生駒市白庭台の住宅地にあります。ここらへんは登美(トミ)ともいい、今も近鉄・富雄駅などの名前で残っています。本陣跡は生駒山を越えたところにある高台で防御するには適した場所になっています。神話の世界の話なんですが場所は合理的なところです。
敗れた神武天皇は大きく紀伊半島を迂回することになりますが、敗れた理由が「日神の御子であるのに太陽に向かって戦ったからだ」です。そんなん東にそびえる生駒山を登るんやから、当たり前ですがなあ!と誰もつっこまなかったんですかねえ。
上賀茂神社
下鴨神社から加茂街道を葵祭の行列が進みます。対岸から見ると行列が賀茂川に映り、なかなか幻想的ですね。目指すは上賀茂神社で下鴨神社と同じ加茂氏の神様です。なるほど鴨川ホルモーの舞台になるはずです。
祭神は賀茂別雷神社で降臨したのが京都産業大学近くにある神山(こうやま)で、大学の校歌にも神山がでてきます。上賀茂神社の自転車置き場には、ここからスクールバスに乗る学生の自転車であふれています。なんせ坂をふたすら登らないと大学にたどり着かないので。
上賀茂神社といえば境内を流れる明神川があり、自転車置き場のすぐ近くに鄙びた雰囲気の箇所が今でもあり、よく必殺シリーズなど時代劇の撮影で使われていました。当時のドラマなどを見ると、「あっ、上賀茂神社だ」とすぐ分かり江戸を舞台とした話なんですが全然、感情移入できませんなああ(笑)。
深泥池
下宿のあった上賀茂からちょっと東に行くと深泥池(みどろがいけ)があります。今は住宅地のど真ん中ですが40年ほど前はもう少し鄙びていました。時たま散歩で出かけていました。
池のほとりから宝ヶ池に抜けることができ、よくタクシーなどが通っています。それでできたのが深泥池の幽霊伝説。若い女性を乗せたら消えてしまってシートが濡れていたという、おきまりのやつです。40年ぐらい前にも流布していました。
深泥池は氷河期から残る貴重な池で、市街地で最終氷期からの生き残りとされる生物などがみられる貴重な場所です。平安時代ぐらいから、いろいろな記録にでてくる池です。見た感じは何の変哲もない池なんですがねえ。
第二興和荘
大田神社のすぐ近くにあったのが第二興和荘。学生時代に4年間下宿していたところです。雨が降ると自主休講してましたねえ(笑)。
上賀茂神社から明神川が流れ社家町を通るところは、なかなか絵になるのでドラマやCMなどによく登場していました。そのまま流れて下宿前を流れていたのも、この明神川です。
京都といえば盆地なので夏は暑く、冬は底冷えするのですが特に御園橋を越えると温度が違うとよく言われていました。確かに北大路あたりでは何もなかったのに上賀茂では雪が降っていたこともありました。
大田神社
上賀茂神社からずっと東側へ行くと「かきつばた」で有名な大田神社があります。天鈿女命(あめのうずめ)が祭神でアマテラスが隠れた時に踊った神様で芸能の神様になっています。大田神社は上賀茂神社や加茂氏が登場する前からあった古い社のようです。
学生時代はそんな古い歴史があるとは知らず、ただ近くにあったので、よくお参りに行っていました。大田神社に曲がる交差点にあるのが戸田牛乳店。40年ほど前によく利用していましたが健在でした。閉まっていたので、現役でやっているのかどうかは分かりませんが
上賀茂神社前ロータリー
上賀茂神社の門前に位置するのが御園橋。昔は狭い橋でしたが拡張されて両側に歩道も整備されています。御園橋を過ぎるとちょっと下って上賀茂神社前のロータリーに出ます。日本では珍しいロータリーですが私が学生の頃にはあったので少なくとも40年前にはありましたね。
行き交う道が5本あって、おまけに上賀茂神社のバス停から出る道もあるのでロータリーでないと無理なんでしょうね。ここもきれいに整備されて拡張されていました。
京都産業大学に行く時に柊野(ひらぎの)経由の場合はよくこのロータリーを使っていました。そうそうヒラギノフォントの名前はこの柊野が由来しています。時たま上賀茂神社前を通らずに圓通寺から精華大経由でも行ってましたが、こっちは遠かったです。
煉瓦館(熊取)
大阪府よろず支援拠点のお仕事で熊取へ。大阪の南で関空の近くです。
熊取といえば雨山城と土丸城という山城で有名なところです。熊取にある煉瓦館(熊取交流センター)ホールで「インボイス制度とキャッシュレス」セミナーをしてきました。久しぶりの対面式セミナーで、主催は熊取商工会です。商工会にも会議室があるんですが煉瓦館の方が広いということでセミナーはもっぱらこっちなんだそうです。
煉瓦館はもともと綿布工場だったところを保存・再生したものです。中にはホールや会議室以外にレストランや染色教室などもありました。土地柄なのか、だんじりの展示もありました。山城以外に、こんなおシャレな所があるんですね。
加茂の流れに
「やさしい雨の 祇園町 加茂の流れに映る あなたの姿...」
昔、かぐや姫の「加茂の流れに」という曲がありました。
賀茂川といえば上皇となり権力を握った白河院が、権力があっても何ともならないものとしてあげたのが「賀茂川の水、双六の賽、山法師」。賀茂川はよく氾濫していました。今は堤防がありますが、昔は木屋町通りぐらいから鞠小路ぐらいまでが河原になっていて牛馬の放牧や耕作地として使われていました。秀吉が作った御土居もこの洪水対策の目的がありました。
川を渡る場所として三角デルタが有名ですが府立植物園近くにもできていました。