暗越奈良街道

街道をゆくシリーズ「暗越(くらがりごえ)奈良街道」

二軒茶屋
二軒茶屋

大阪環状線・玉造駅近くにあったのが二軒茶屋跡が起点で、ここから生駒山を暗峠で越えて奈良へ至る道です。もともとは難波と平城京を結ぶ道が元になっています。二軒茶屋跡から生駒山の麓の枚岡まで歩いてみましたが3時間弱というところですね。

当時の集落を通っていきますので玉造からいきなり南へ行って今里、深江、御厨、菱江、松原宿、枚岡と巡っていきます。けっこう複雑なんですがGoogleマップに街道が表示されるのと、ところどころ道標があるので迷うことはありません。

京都駅ビルはできてから25年

京都駅、よく素通りしていますが久しぶりに駅のホームから出ました。インバウンドが戻っていないので、以前ほどではありませんが、まあまあ混雑しています。JR伊勢丹横の大階段も健在でした。

京都駅ビル

昔、京都で専門学校の教員をやっていた時の校長が三輪泰司先生。非常勤でしたので入学式などのイベント時に顔をあわせていましたが地域計画建築研究所という会社の社長さんでした。都市計画が専門で、京都駅ビルを建替えする時の国際コンペではプロフェッショナルアドバイザーに就任していたのが三輪校長でした。コンペ後に着工され6年ほどの歳月が過ぎて1997年に現在の京都駅ビルができあがります。もう出来て45年になるんですねえ。

専門学校の飲み会で三輪校長からコンペの裏話などを、いろいろと聞いていたのですが、歳とともに忘れてしまいました(笑)。

藤原不比等の墓

聖武天皇陵・陪塚い号(西淡海公)、陪塚ろ号(東淡海公)

東寺
東寺

佐保山一帯には元明、元正、聖武天皇陵が集まっています。聖武天皇と光明皇后陵は多聞山城の西側にありますが、その近くにあるのが陪塚い号、陪塚ろ号です。陪塚とは臣下を埋葬したり、副葬品を埋納するためのものですが、この2つは円墳のようです。

一説には藤原不比等の墓ではないかと言われています。不比等は養老4年(720)に亡くなり、公卿補任には遺言に従い、佐保山椎山岡に火葬されたとあります。藤原不比等は淡海公を追贈されていますので、西淡海公、東淡海公という名前がついています。不比等は氏寺の山階寺(京都・山科)を奈良に移し興福寺としましたが陪塚からは五重塔が見えます。

元正天皇陵

奈良ドリームランド跡地近くにあるのが元正天皇陵。

元正天皇陵
元正天皇陵

氷高皇女 (ひだかのひめみこ)が女帝で母親である元明天皇に続いて即位し、元正天皇となりました。2代、女帝が続くことになります。氷高皇女のお父さんは草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子供)で皇位を継ぐ予定でしたが27歳で亡くなってしまいます。後を継いだのが草壁王子の長男である文武天皇ですが、これまた25歳で亡くなってしまいました。孫の首皇子(聖武天皇)が小さかったため草壁王子の妃だった元明天皇が即位します。

氷高皇女は元明天皇より譲位され天皇に即位します。長屋王の義姉にあたり長屋王と協力しながら政治を行い三世一身法などを制定します。藤原氏が力を持ち始めた時期で、「美貌の女帝」(永井路子)など小説などで、よく取り上げられています。養老律令や日本書紀ができたのも元正天皇の時代です。陵は母親の陵のすぐ隣に造られました。

奈良ドリームランド跡地

大仏鉄道にとって難所だったのが黒髪山越え。当時はトンネルでしたが今は切通しになっています。

奈良ドリームランド跡地
奈良ドリームランド跡地

久しぶりに通ったら奈良ドリームランド跡地にロートスタジアム奈良ができていました。時たま奈良ドリームランドに子供を連れて行っていました。最初はディズニーランドに協力してもらいながら造ったこともあり、園の真ん中にお城があり、外周を列車が巡り、ジャングルクルーズなどディズニーそっくり。ディズニーといろいろと交渉しましたがフランチャイズの話などはご破算になります。ウォルト・ディズニーは奈良ドリームランドの写真を見て激怒したと伝わっています。

オリエンタルランドが東京ディズニーランドを作る時に、この奈良ドリームランド問題が最初の難関になりました。奈良ドリームランドが最終的な親会社がダイエーということもあり20年ほど前に閉園します。

もっとも奈良ドリームランドよりも、あやめ池遊園地によく行っておりましたが、こちらも2004年に閉園になりました。奈良の知り合いの家が、あやめ池遊園地内の土産物店だったそうで、子どもの頃、遠足になると学校に集合して、あやめ池遊園地に行くので全然、楽しくなかったという話をしていました。

紫香楽宮

何もない農地なんですが、ここが紫香楽宮の中枢施設となる宮殿や長さ100mを超える朝堂などがあったところです。

紫香楽宮
紫香楽宮

聖武天皇が天平12(740)年に恭仁京を作り始めた時、離宮として紫香楽宮の造営をすすめます。2つも宮を造るとなると国家財政がもたないので、難波京を都にすると宣言。ところが紫香楽宮の建設はすすめられていて甲賀寺で大仏造顕の詔を出して大仏を作りはじめます。結局は情勢が悪くなり平城京へ戻ります。なんで、そんなに遷都したのか昔からようわかっていません。

わずか数年で遷都されたため長く幻の都となっていました。どこに宮があったのか諸説ありましたが2000年に宮町遺跡で朝堂西脇殿を発見されました。

紫香楽宮 朱雀大路

甲賀寺跡は高台にあり北に向かって下っていくと新宮神社遺跡があります。発掘調査が行われ幅12mの道路や掘立柱建物跡が確認されました。これが紫香楽宮の朱雀大路になります。調査場所は高速道路の下に眠っていますが、山には切通しを作って大路を通していました。

朱雀大路
朱雀大路

聖武天皇は平城京から北側にある恭仁宮へ移りますが、北、東、西の三方が山に囲まれ南は木津川が流れる要害の地です。とは言いながら大路も基本的に平らです。恭仁京からさらに奥深い紫香楽宮へ移りますが、紫香楽宮は標高が高く北、東、西の三方は完全に山で遮断されて南しか入口がありません。狭い範囲に宮を造ることになったので朱雀大路も山を切り通す必要がありました。昔から大いなる謎になっていますが、なんで聖武天皇は紫香楽宮を造ったんですかね。

甲賀寺

河内にある智識寺(有力氏族ではなく民衆が持ち寄って建てた寺)にあった盧舎那仏に感激した聖武天皇は大仏建設に邁進します。作り始めた場所は紫香楽宮にあった甲賀寺で
す。ところが周辺で地震や山火事などが頻発し(反対運動?)たため平城京に戻って現在の東大寺の場所で大仏を作ります。

甲賀寺
甲賀寺

甲賀寺は紫香楽宮が廃都になった時に、近江国分寺になったようで近江国分寺は塔や金堂などが並ぶ伽藍でした。甲賀寺の建造物が流用されたと思われますが、その割に金堂の大きさが大仏が入るような大きさではなく甲賀寺が本当にこの場所なのか、今も分かっていません。

京都守護職の上屋敷跡

京都府庁の入口にあるのが京都守護職上屋敷跡の碑。

京都守護職の上屋敷跡
京都守護職の上屋敷跡

京都の治安は京都所司代、京都町奉行が担当してきましたが幕末になると尊王攘夷派の過激志士が集まり、だんだんと無法地帯になっていきます。なんせ天誅とか言って平気で人殺しをする連中ですので、危ないったらありゃしない。

というわけで幕府は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下におく京都守護職を置きます。貧乏くじをひかされたのが27歳になった会津藩主・松平容保。正規職メンバーでは、だんだん手が足りなくなり、非正規職員の新選組を守護職御預かりとして治安維持にあたらせました。新選組の映画やドラマでは京都中を駆け回っていますが、そんなことはなくエリア毎に担当制になっていて新選組の担当地域は祇園や伏見でした。まあ浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることもあったようです。

会津藩の本陣は金戒光明寺で京都守護職の屋敷があったのが現在の京都府庁の場所。王政復古の大号令によって京都守護職は廃止されます。

御金神社

秀吉の妙顕寺城へ行く途中にあるのが金ぴかの御金神社。

御金神社
御金神社

鳥居が金ぴかになっていて、しかも参拝者が多かったので、ついでに拝んできました。調べてみると個人の屋敷の敷地に金山毘古命を祭神とする邸内社があったのを神社にしたそうです。金山毘古神は古事記の記載で日本書紀では金山彦神になります。鉱山や金属、刃物の神様みたいですねえ。この金属が転じてお金にまつわる神社になったそうです。

金運アップの神様ということで、いろいろなサイトに紹介されていました。でもキャッシュレス社会が進んだら、どうなるんだろう