西国街道をゆく(師直塚)

師直塚

西国街道を歩いているとイズミヤ昆陽店のすぐ前に師直塚を発見。「師直って、あの有名な高師直?」と行ってみたらピンポンでした。

高師直は足利尊氏の側近で、戦は強いし行政もできるという文武両道のスーパーマンです。革新派で趣味人でもありましたが、石田三成のように尊氏への不満が集中する立場なので保守派の足利直義(尊氏の弟)と対立し、観応の擾乱に発展します。

高師直と足利尊氏は打出浜(芦屋)の戦い(1351年)で足利直義に敗北したため投降。尊氏より遅れて護送されている途中、直義派の上杉能憲らによって殺されます。塚は別の場所にありましたが国道の拡張工事などにより、現在地に移されます。

この後、足利直義が権力を握りますが、結局は尊氏との戦いに発展し、敗れた直義は鎌倉に幽閉されます。鎌倉で病死しますが、高師直の一周忌にあたり毒殺説もあります。

西国街道をゆく(昆陽寺)

昆陽寺

京都と西宮を結ぶ西国街道沿いには、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽(こや)の5つの宿場があり、最後の宿場町になります。行基が昆陽池など複数のため池を造営します。昆陽池といえば伊丹空港を離陸すると、池の中に日本地図が見える池として有名です。伊丹空港からちょうど上昇していくところですので飛行機が次々と上空を通っていきます。

行基は731年に昆陽寺(こやでら)の前身となる昆陽施院(布施屋)を設立します。貧民救済が目的で食料の配給、けがや病気の手当て、宿泊などを提供していました。行基は畿内49院を設立したといわれていますので、すごいデベロッパーです。荒木村重と織田信長の有岡城の戦いに巻き込まれて伽藍が焼失しましたが再建されました。

中家住宅

中家住宅

大阪府よろず支援拠点のお仕事で一昨日は泉佐野納税協会で「DX化支援のための補助金」のセミナー、昨日は熊取交流センター「すまいるズ煉瓦館」で「IT/IoT・DX推進入門セミナー」というタイトルのセミナーをしてきました。すまいるズ煉瓦館は昭和初期の綿布工場を保存再生した建物で煉瓦塀などがよ風情あります。隣に中家住宅がありセミナー前にのぞいてきました。後白河法皇が熊野行幸の時に行宮とした旧家です。江戸時代の建物が残っていますが、中家はもともと源平の頃からの武士で往時は堀などもあったそうです。

日根野、熊取ともに関空のすぐ手前にあります。南海は難波から空港直通の急行が出ていますが、JRは天王寺から8両編成の急行が出ていて日根野で切り離し、前4両が空港行きで後ろ4両が和歌山行きになります。電車に乗るとインバウンド客であふれていますが、後ろ4両がねらい目です。途中アナウンスで「このまま乗っていると和歌山へ行ってしまう」と、停車駅でスーツケースを引きづり前の車両への移動が始まり車内がすきます(笑)。切り離しに時間がかかるので日根野駅で十分なんですが、そうは思わないでしょうね。

西国街道をゆく(伝・和泉式部墓)

伝・和泉式部墓

多田街道と西国街道の辻を過ぎて西に向かうと坂道が待っています。これが伊丹坂で、坂を登りきって少し南にいったところに伝・和泉式部墓があります。大河ドラマ「光る君へ」では泉里香さんが演じています。

橘道貞と結婚し、夫の任国が和泉だったので和泉式部と呼ばれるようになりました。「光る君へ」では、「今日よりそなたを和泉式部と呼ぼう」と名づけられますが、別れた夫の官職は嫌と拒否するシーンが出てきました。

晩年などはどうなったのかよく分かりませんが、橘道貞の出生地が伊丹坂の近くで、そこで供養塔として五輪塔が鎌倉時代頃に追善供養として建てられたようです。

西国街道をゆく(多田街道との辻)

多田街道との辻

西国街道と多田街道と交差する辻があります。多田街道はここから北に向かい多田神社の参詣道として栄えました。多田神社は多田(源)満仲の屋敷跡で清和源氏発祥の地です。源満仲は多田を所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成します。大河ドラマ「光る君へ」でも描かれた花山天皇退位事件にも絡んでいます。

源満仲の三男の源頼信を祖とするのが河内源氏で、源頼朝はこの系譜です。足利尊氏も多田源氏を祖としています。家康は本当かどうかわかりませんが清和源氏と主張していたので江戸時代も多田神社に寄進などがされ賑わっていました。

西国街道をゆく(桂春団治の碑)

桂春団治の碑

弁慶の泉の近く、西国街道沿いにある受楽寺という寺の前に桂春団治の碑がありました。春団治といえば「酒や! 酒や! 酒買うてこい!」という浪花恋しぐれを思い出しますなあ。説明によると上方落語の名跡である桂春団治名継いだ2代目が清荒神に住んでいた頃、よく受楽寺を訪れ、先々代の住職と交流があったそうです。宝塚にある清荒神と池田ではまあまあ離れているんですけど、「池田の猪買い」など上方落語の舞台ではあります。

初代は一心寺に葬られましたが戦争などで墓碑が分からなくなったこともあり、1998(平成10)年、初代と2代目春団治の功績を称えて碑が建てられたそうです。池田市では受楽寺で初代・2代目・3代目 春團治の法要を行い、2000(平成12)年から「いけだ春団治まつり」を行っているそうで、今年は25周年だったそうです。

西国街道をゆく(弁慶の泉)

弁慶の泉

石橋から西国街道を歩いて中国自動車を通りすぎたところにあるのが弁慶の泉。義経は頼朝との対立から九州で体制を立て直すために京から落ちます。目指すのは大物(だいもつ)です。尼崎駅の手前に阪神の普通しか止まらない大物駅がありますが、昔は大物浦があり、ここが海上交通の要衝でした。

京から西国街道で西に向かい、ここらあたりで弁慶が泉で喉の渇きをいやしたと伝わっています。泉は時代とともに埋没していましたが、昭和53年に湧き水があるのが見つかり整備されました。義経一行は猪名川の渡しを渡ったところから南下して大物を目指したのでしょう。河尻に着いたあたりで多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退しています。多田行綱は義経と一緒に一ノ谷戦いなどに参戦していますが、頼朝に所領を没収され行綱自身も追放になっていたので、頼朝に取り入ろうと襲撃したようです。

義経一行は大物から船団を組んで九州へ船出しましたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまいます。

西国街道をゆく(石橋)

石橋

瀬川宿を抜けると西に向かっていた西国街道は南西へ方向を変えます。阪急・箕面線を超えて歩いていくと大阪大学・豊中キャンパスの横に出て阪急宝塚本線・石橋駅の南へと街道は続きます。石橋駅の南にある踏切近くに石橋村の高札場跡があり、北へ向かう能勢街道と交差していました。ここに石の橋がかかっていたため石橋と呼ばれるようになったそうです。

西国街道沿いには、お屋敷がんこ「がんこ池田石橋苑」がありました。がんこ寿司が文化遺産を守るために、屋敷で料理を楽しめや庭園などを眺めることができる店舗を運営しており、石橋は大正時代に北摂の土木建築で財をなした中井梅太郎の邸宅が使われています。

西国街道をゆく(瀬川・半町)

瀬川・半町宿

阪急電車箕面線の桜井駅前を通っているのが西国街道です。少し西に行くと瀬川・半町(はんじょう)宿になります。山崎宿からだと芥川(高槻)、郡山(茨木)の次の宿場が瀬川・半町宿です。といっても痕跡はなにも残っていません。大勢の軍が移動するには街道を使うしかありませんので、ここらへんで戦いが行われます。

瀬川合戦
護良親王による倒幕の令旨に従って播磨の赤松則村(円心)軍が六波羅探題軍と対峙します。猪名川付近の戦いで赤松側が敗退しますが、兵を率いて瀬川宿に陣をかまえていた六波羅探題軍に夜襲をかけ、打ち破りました。

豊島河原合戦
倒幕後、南北朝の時代となり足利尊氏と新田義貞・北畠顕家が戦ったのが瀬川宿から少し西に行った箕面川のあたりです。豊島河原合戦で足利尊氏は敗れ九州に落ちていきます。

西国街道をゆく(牧落)

牧落

西国街道を西に行くと阪急・箕面線の牧落(まきおち)駅近くに出ます。牧落駅は箕面商工会議所へ行く最寄り駅なんですが、まあまあ距離があり昔、夜のセミナーで行った時に真っ暗な住宅街を通っていかなければならず、ほんまに着くんかいなと思った記憶があります。

近くに西国街道があり、牧落の集落がありました。箕面大阪道と西国街道が交わるところに高札場があり道標がありました。昔は交通の要衝でしたが、今は単なる四つ辻です。お婆さんが「今日も暑いですなあ」と言いながら通り過ぎていきました。古代は牧草地だったようで摂津国・豊島(てしま)牧でした。各地から貢上された牛馬を一時的保管するための牧だったようです。