黒木御所

黒木御所

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れて隠岐に配流になったのが1221年。それからおよそ100年後の元弘2年(1332年)に鎌倉幕府の倒幕に失敗した後醍醐天皇が隠岐に流されます。後鳥羽上皇は島前の中ノ島ですが、御醍醐天皇は対岸にある西ノ島です。これが黒木御所で黒木とは皮を削っていない木材のことです。130段の階段を上った別所港をみおろす高台にあります。

後鳥羽上皇は19年を過ごして隠岐で亡くなりますが、御醍醐天皇は1年半ほどで脱出をします。大塔宮や楠木正成が倒幕運動をやっていたので希望があったのでしょう。島の豪族たちと交渉して脱出計画を作っていたようです。黒木御所の近くにある別所港には隠岐守護である佐々木清高が島に見張り所を作っていました。今は見付島という名前になっています。

別所港は使えないので山越えをして西ノ島の西側にある港から脱出したようです。佐々木清高もまさか配流した天皇が逃亡するとは考えていなかったようです。

隠岐の島(5) 手形

隠岐に流された後鳥羽上皇に亡くなる前に今まで尽くしてくれた家臣に摂津国(大阪府)水無瀬・井内両荘の領地を与える証文を書きますが、両手で真っ赤な手形を押しています。最後の力を振り絞って手形を押したことが伝わる証文で、国宝になっています。「後鳥羽天皇筆 御手印置文」

隠岐には写しが展示されており、現物はサントリー山崎工場の近くの水無瀬神宮(後鳥羽上皇の水無瀬離宮跡)にあります。このように昔、証文に「必ず払うから」と手に墨をつけて手形を押したので”手形”と言うようになりました。これが約束手形や為替手形となっていきます。

長年にわたり紙で運用されてきた手形ですが、2027年3月末に全廃となり「でんさい(電子記録債権)」に全面移行となります。

隠岐の島(4) 後鳥羽上皇行在所

後鳥羽上皇行在所

「鎌倉殿の13人」で尾上松也が演じていたのが後鳥羽上皇です。承久の乱に敗れ隠岐の島に配流となりました。島前の海士町(中ノ島)にあった源福寺が行在所になりますが、今は敷地跡しかありません。近くに上皇を祀った隠岐神社があります。ここで19年間を過ごし亡くなり火葬されました。

■承久の乱とは
実朝が暗殺され北条氏が政権を牛耳るようになり頭にきた後鳥羽上皇は城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で1700ほどの西国武士を集めます。北条義時追討の院宣が出され、義時は朝敵になってしまい頭をかかえこんでしまいます。この時、北条政子が「頼朝公のご恩を忘れるな」と大演説をぶち、東国武士は迎え撃つことで一致しますが、大江広元が迎撃論を抑え込んで、都へ向けて出撃させます。ちなみに大江氏の子孫が長州毛利家です。

後鳥羽上皇の意図は倒幕ではなく、北条から三浦にすげかえることを狙っていたという説もあります。後鳥羽上皇は敗北し戦争放棄を宣言します。古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

■鎌倉幕府が全国組織に
敗北した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。ただ土地本位制だった東国武士が貨幣経済に巻き込まれてしまうことになります。

■小倉百人一首とは
藤原定家の私撰和歌集が小倉百人一首。正月のカルタ遊びでおなじみですが、どうも後鳥羽院の鎮魂のためにつくられた和歌集のようです。歌い手の多くが政争で負け零落した人物が多く、また藤原定家は後鳥羽上皇と近かったのですが、承久の乱が起きた時に裏切っています。これが百人一首を作る動機の一つになっているようです。

■徳川家康の遠大な根回し?
吾妻鑑などをよく読んでいた家康は朝敵になると、えらいことになると思ったのでしょう。天海に命じて寛永寺のトップに京都から皇族を迎える制度を作りました。反徳川勢力が京都の天皇を擁しても、幕府が朝敵にならないための仕掛けでした。実際、戊辰戦争では寛永寺にいた輪王寺宮能久親王が奥羽越列藩同盟の盟主になっています。

隠岐の島(4) フェリー事情

別府港

島後の西郷港と島前の3島はフェリーで結ばれています。島前では中ノ島の菱浦港、西ノ島の別府港、知夫里島の寄居港を巡ります。このフェリーですが6月17日から繁忙期を除いて1日3便から2便になりました。運行している隠岐汽船によると船員不足が減便の理由のようです。

島後は空港がありますが島前はないのでフェリーで本土にでるか島後に行くしかありません。時刻表をみると本土へ渡ると、帰れるのは翌日になってしまうんですね。問題は食料品で、本土(七類港)を9時半に出て別府港に12時に着くフェリーがなくなってしまい、本土(境港)を14時に出て別府港に17時に着くフェリーに食料品を積み込みことになります。この時間になると夕方の買い物時間に間に合わなくなります。

万博

ネパール館

万博に行く予定はなかったのですが、諸事情から行くことに

台風通過でキャンセルが多く、すいているのではないかというのは甘い期待で、昼から行ったら東口は長蛇の列でした。9月になったことで駆け込みが多いですね。

最後まで開館が遅れていたネパールパビリオンにも入ってきましたがクーラーがよく効いていました(笑)。面白かったのはコモンズ館Aの誘導で、UAE(アラブ首長国連邦)と同じでフリーパスで行列をどんどん入れて出しています。ちょうど雨あがりで虹が出ていて、「どんどん進んでください。虹の写真なんか撮ってないで、とにかく前へ進んで」とか「間隔をあけていると割り込みする悪い人が出てきますよ、さあ間隔をつめて進んで、進んで」とアナウンスしてました。

隠岐の島(3)スーパーマーケット事情

スーパーマーケットひまり

隠岐のスーパーマーケット事情

■島前と島後
隠岐諸島は島後(どうご)と島前(どうぜん)から成り立っています。都にちかいほうが島前になりますが、越前、越後と同じです。昔は道後、道前だったんですが江戸時代の役人が「島」と書き間違えて以来、島後になったとか、隠岐の人に聞きましたが、ほんまかいな。でも島と書いて確かに「どう」とは読みませんなあ。

■スーパーマーケット
道後は平野が少なく空港やフェリー乗場などがある西郷湾のあたりが中心地になります。道後にあるスーパーマーケットは2軒だけですが、この平野にあります。現在、ショッピングセンターひまり(Himari)が改装中で、なんでも平の前ショッピングモールができるそうです。もう一軒のスーパーマーケット「ショッピングプラザ サンテラス」が車で5分ぐらいのところにあり、人口減のところ、なかなか熾烈な戦いですね。

隠岐騒動

隠岐騒動

幕末の動乱期、天誅組など各地で小競り合いが起きましたが、隠岐でもあったんですね。隠岐は天領でしたが、松江藩が実効支配をしていました。隠岐にも外国船があらわれ上陸するようなことが発生します。ロシア軍艦のよる対馬占領事件も起きる時代だったので騒然としていたのでしょう。

慶応4年(1868年)に隠岐島民が隠岐島民が松江藩の郡代を追放し、80日間にわたる自治を行ったのが隠岐騒動です。騒動を起こしたのが私塾・膺懲館で学んでいた若者です。隠岐出身で中沼了三という人物がいて、この中沼了三が京都で作った塾で学んだ若者が隠岐に戻って作った塾でした。騒動は鎮圧されましたが明治新政府になったことから島民、松江藩ともども処分を受けました。

津では藤堂監物による監物騒動もあり、各地でこんな騒ぎが起きていたのですね。

関ヶ原戦跡踏破隊

島津

北勢地域にあるCTY(ケーブルネット)のインスタを見ていると関ケ原戦跡踏破隊の話題がのっていました。

関ケ原戦跡踏破隊は郷土の先人の偉業を体験する青少年教育プログラムで、鹿児島県日置市の小・中学生が中心になっています。たどるのは島津軍の退路です。

■島津の退き口
関ヶ原の戦いで結果的に戦場に取り残される形となった島津軍が、後ろへ下がらず家康軍の敵中突破をして退却します。島津の退き口(しまづののきぐち)として有名ですが、薩摩に帰り着くまで辛酸な撤退戦になりました。島津軍は伊勢街道を下り近江、奈良を経由して堺へたどりつきます。

この島津軍の退却コースを2日間で学ぶコースで、今年でなんと66回目で、さすがは郷中教育の薩摩です。

神津嶽

枚岡神社奥宮

昨日、登った神津嶽(かみつだけ)にあるのが、河内一の宮である枚岡神社の奥宮。とっても古く、神武天皇が東征で生駒山を攻め上ろうとしてナガスネヒコに敗れますが、国土の平定を祈願するために神津嶽に天児屋根命(あめのこやねのみこと)と奥さんである比売御神(ひめのかみ)を祀ったと言われています。

■奈良の春日神社の元

天児屋根命は中臣氏(藤原氏)の祖神で、アマテラスが岩戸に隠れた時に祝詞を唱えたことから言霊(ことだま)の神とも言われていて、なんで神武天皇が天児屋根命を祀るのかよう分かりません。

天児屋根命と比売御神が勧請されて春日神社ができましたので枚岡神社は元春日とも呼ばれています。神津嶽の周りには古代祭器跡がいろいろと見つかっていて昔から聖なる場所でしたので、中臣氏がそんな物語を作ったのでしょう。神津嶽は林に囲まれていますが、少し降りた枚岡展望台からは大阪平野を始め、瀬戸内海、淡路島が一望できます。

一望できるということは登らないといけないということで枚岡神社から枚岡展望台を経由して40分ほど山道を登らないとたどりつけません。この時期、息も絶え絶えになります。

神津嶽

猫

珍しく奥さんと休みが一緒の日曜日。

朝早くなら涼しいから生駒山登ろうという提案が!「エーッ、暑い中、山登りなんかやだあ!」と言う度胸はありませんので、ヘイヘイと後ろをついていくことに。朝早いから、涼しいというのはガセネタで、しっかり暑かったです。

ゼイゼイ、汗をかきながら登っている隣をトレイルランイングの練習をしている連中が追い抜いていきます。元気ですなあ!ゼイゼイ言っているのを哀れんだのか、生駒山頂はあきらめて神津嶽まで登って帰ってきました。帰って飲むビールは最高ですねえ。