紫香楽宮 朱雀大路

甲賀寺跡は高台にあり北に向かって下っていくと新宮神社遺跡があります。発掘調査が行われ幅12mの道路や掘立柱建物跡が確認されました。これが紫香楽宮の朱雀大路になります。調査場所は高速道路の下に眠っていますが、山には切通しを作って大路を通していました。

朱雀大路
朱雀大路

聖武天皇は平城京から北側にある恭仁宮へ移りますが、北、東、西の三方が山に囲まれ南は木津川が流れる要害の地です。とは言いながら大路も基本的に平らです。恭仁京からさらに奥深い紫香楽宮へ移りますが、紫香楽宮は標高が高く北、東、西の三方は完全に山で遮断されて南しか入口がありません。狭い範囲に宮を造ることになったので朱雀大路も山を切り通す必要がありました。昔から大いなる謎になっていますが、なんで聖武天皇は紫香楽宮を造ったんですかね。

甲賀寺

河内にある智識寺(有力氏族ではなく民衆が持ち寄って建てた寺)にあった盧舎那仏に感激した聖武天皇は大仏建設に邁進します。作り始めた場所は紫香楽宮にあった甲賀寺で
す。ところが周辺で地震や山火事などが頻発し(反対運動?)たため平城京に戻って現在の東大寺の場所で大仏を作ります。

甲賀寺
甲賀寺

甲賀寺は紫香楽宮が廃都になった時に、近江国分寺になったようで近江国分寺は塔や金堂などが並ぶ伽藍でした。甲賀寺の建造物が流用されたと思われますが、その割に金堂の大きさが大仏が入るような大きさではなく甲賀寺が本当にこの場所なのか、今も分かっていません。

京都守護職の上屋敷跡

京都府庁の入口にあるのが京都守護職上屋敷跡の碑。

京都守護職の上屋敷跡
京都守護職の上屋敷跡

京都の治安は京都所司代、京都町奉行が担当してきましたが幕末になると尊王攘夷派の過激志士が集まり、だんだんと無法地帯になっていきます。なんせ天誅とか言って平気で人殺しをする連中ですので、危ないったらありゃしない。

というわけで幕府は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下におく京都守護職を置きます。貧乏くじをひかされたのが27歳になった会津藩主・松平容保。正規職メンバーでは、だんだん手が足りなくなり、非正規職員の新選組を守護職御預かりとして治安維持にあたらせました。新選組の映画やドラマでは京都中を駆け回っていますが、そんなことはなくエリア毎に担当制になっていて新選組の担当地域は祇園や伏見でした。まあ浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることもあったようです。

会津藩の本陣は金戒光明寺で京都守護職の屋敷があったのが現在の京都府庁の場所。王政復古の大号令によって京都守護職は廃止されます。

御金神社

秀吉の妙顕寺城へ行く途中にあるのが金ぴかの御金神社。

御金神社
御金神社

鳥居が金ぴかになっていて、しかも参拝者が多かったので、ついでに拝んできました。調べてみると個人の屋敷の敷地に金山毘古命を祭神とする邸内社があったのを神社にしたそうです。金山毘古神は古事記の記載で日本書紀では金山彦神になります。鉱山や金属、刃物の神様みたいですねえ。この金属が転じてお金にまつわる神社になったそうです。

金運アップの神様ということで、いろいろなサイトに紹介されていました。でもキャッシュレス社会が進んだら、どうなるんだろう

古河大阪ビル

SRA関西支社は堂島グランドビルにありましたが、分室が古河大阪ビルにあり、こちらにいることが多かったですね。堂島グランドビルから信号を渡ってサントリービルの裏側(西側)にありました。地下街入口が古河大阪ビルの手前にあったので、雨の日はビル入口から10メートルほど走って地下街入口にたどりついていました。

古河大阪ビル
古河大阪ビル

堂島グランドビルのついでに古河大阪ビルを見に行ったら更地になっていました。なんでも地上40階建てのタワマン&ホテルが建つそうです。そういえばサントリーの隣にあった堂島ホテルもなくなってしまいました。

古河大阪ビルは地下1階に郵便局もあり便利でしたね。ただ古いビルなので冬は寒い。システム作りで徹夜していた頃、あまりの寒さからリスト用紙を体に巻いてみましたが、なんの保温効果もないことを発見した頃でもありました。

堂島グランドビル

こう見えても若い時があり、新入社員で入ったのがSRA関西支社というITベンダー。堂島グランドビルにありました。久しぶりに前を通ったら建て替えか、リニューアルするのか1階を覆っていて中には入れませんでした。

堂島グランドビル
堂島グランドビル

当時は上新庄に住んでいたので阪急梅田駅で降りて地下街に入り、1kmほど歩いて地下から堂島グランドビルに入っていました。雨に濡れずに行けるのは便利でしたね。堂島グランドビルには富士通なども入っていたためか1階のオーム社の本屋は理数系の専門書が充実していました。雑誌「bit」と「UNIX MAGAZINE」を毎号買っていたなあ。同じ1階には第一勧業銀行があり、すぐ銀行に行けて便利。地下には紅茶の名店ムジカもありましたね。

IBM大阪事業所

IBM大阪事業所跡
IBM大阪事業所跡

本町・靭公園近くにあったのがIBM大阪事業所。久しぶりに前を通ったら地上36階のタワマンに変わっていました。堺筋本町の帝人本社もタワマンになったし、マンションだらけですねえ。IBM大阪事業所は中ノ島に移転したそうです。

40年ほど前、IBMへほとんど出向する形で仕事をしていた時期があり、IBM大阪事業所にもよく行っておりました。新しいMVS(OS)をシステム導入しても大丈夫かどうか、テスト用汎用機にお客さんの環境を設定しテストしていました。1フロアを丸々借りてIBMのSEと50台ほどの端末を使ったテストなどを深夜によくやってました。考えてみたら今のパソコンに入っているハードディスクよりも容量が小さいウィンチェスター・ディスクです。磁気テープなんて見たことない人が多いでしょうね。

おやぢの会

「おやぢの会」という面妖な会があり、コロナ禍で久しくやっていなかったのですが北新地の海藤花 (かいとうげ)で開催。北新地なんて、ほんまに久しぶりです。街を浴衣姿で歩いている人も多く、ちょうど、なにわ淀川花火大会が3年ぶりに実施される日だったんですね。

まずは古希を迎えるメンバーの祝福から始まった「おやぢの会」ですが、メンバーは変わりませんので、どんどん高齢化しています(笑)

海藤花は堂島アバンザの裏手の2階の、ちょっとわかりくい所にあります。昨夜は鱧ずくしで、いろいろな食べ方でハモを堪能できました。やっぱり関西の夏はハモですねえ。最初に出てきたナメロウと鱧鍋後の雑炊は絶品でした。

五色塚古墳

明石海峡大橋のすぐ近くにあるのが五色塚古墳。高台に築かれた前方後円墳で、今は明石海峡大橋がランドマークですが、古代はこの五色塚古墳がダントツのランドマークでした。航行していた船からよく見えたでしょうね。後円からの眺めは抜群で明石海峡や四国がよく見えます。

五色塚古墳
五色塚古墳

五色塚古墳は全長194mで兵庫県最大の前方後円墳になります。古墳時代中期の4世紀末~5世紀初頭に造られたようですが被葬者は分かっていません。明石海峡一帯を支配した豪族の首長でしょうが、大和政権の大王墓に匹敵する規模ですので、大和との関りがあった人物になります。五色塚古墳からは大和政権の領域になると明示する効果もあったようです。山陽電鉄・霞ヶ丘駅から歩いてすぐです。

カーニバルプラザ

日経新聞夕刊(8/23)関西タイムラインに「カーニバルプラザって何?」という記事が

カーニバルプラザ、懐かしいですなあ。江坂駅近くにあるお店でちょくちょく行っていました。700席もある大型レストランで名物はシーフードエリアのカニでした。時間になると楽器隊が演奏して回る趣向があり、にぎやかなお店でしたね。記事によるとオープンは1983年12月とあります。

その前に梅田あたりに小さなお店がなかったかなあ。ここは時間になると店員による合唱がありました。声楽をやっているアルバイトばかりを採用していたようで、なかなかレベルが高かった記憶があります。「今度、江坂にお店ができるんです」と聞いて江坂店に行った記憶がありますが、なんせ昔の話なんで記憶違いかもしれません。

記事によると最盛期には市川市、金沢市、福岡市など6店舗を展開したそうで、1991年11月に近鉄ハーツ(東大阪)がオープンした時は中核施設として出店していました。なんせ店内にメリーゴーランドがあり、子供が小さい時によく行っていました。運営元はダスキンだったんですね。2007年に閉店となりました。