漏月庵

大阪府よろず支援拠点を出て大阪城公園を通り森ノ宮駅から帰っています。なんせ六番櫓と一番櫓を眺めることができます(笑)。大阪城へ向かう途中に大村益次郎の寓居跡である漏月庵があります。司馬遼太郎の「花神」の主人公ですね。

漏月庵
漏月庵

大村益次郎、適塾に学び、後に出身地である長州藩に招かれて軍の指揮をとることになります。第二次長州征伐で幕府軍を翻弄し、彰義隊との戦いを1日で終わらせました。最初に適塾で学んだ時には住み込みでしたが長崎でシーボルトに学んでから再度、適塾に学んだ時に塾頭になります。実入りもあったこともあり、この碑のあったところから適塾に通っていました。夜、寝転がっていると月明かりが家の中に漏れたので「漏月庵」と名付けたそうです。

楠木正行首塚

日経新聞夕刊を見ていると宝塚月組「桜嵐記」の記事が載っていました。

楠木正行首塚
楠木正行首塚

月組トップ美園さくらの退団講演なんだそうで主人公はなんと楠木正行。楠木正成は有名ですけど、さすがに息子の知名度はそれほど高くないんですが宝塚ってけっこうマイナーな人物に焦点をあてるんですね。以前は阿弖流為(アテルイ 坂上田村麻呂に降伏した蝦夷の長)もやっていました。

記事によると末弟である楠木正儀まで登場するそうです。楠木正行は南朝を率い四條畷の戦いで高師直と戦いましたが敗北します。四条畷にの楠公御墓所がありますが、瓢箪山駅近くにある四条、畷という地で戦ったという説もあり枚岡公園近くの山手町にも首塚があります。住宅街の中にありますが特に案内もないので、すごく分かりにくい所にあります。

末弟の楠木正儀は南北朝統一まで奔走し、お墓は楠木正成が活躍した千早城跡にあります。

居酒屋じょうもん

ファイティング・コンサルタンツという中小企業診断士の研究会(昔はコンサルティングファームを目指していたこともありました)で、よく根城にしていたのが中百舌鳥にある居酒屋じょうもん。

居酒屋じょうもん
居酒屋じょうもん

土曜日に研究会を14~17時まで行い、17時~21時頃まで宴会をしておりました。研究会よりも宴会が長く、17時まで研究会を行うのも開店時間が17時という要因が大きかったですね。大体、16時50分になったら片付けていたし(笑)。

本日は堺でお仕事。コロナ禍で居酒屋は大変ですが、ランチ営業をしているようでしたので寄ってきました。居酒屋じょうもんの日替わり定食(750円)はハムカツ&マグロカツでした。

石切神社 上之社

散歩がてら石切神社へ。デンボの神様やお百度参りで有名なのが下之宮ですが、今回は山の上にある上之宮へ行ってきました。いい運動になります。

石切神社 上之社
石切神社 上之社

もともと石切神社は生駒山山頂近くの宮山に饒速日尊(にぎはやひのみこと)、つまり物部氏の祖先神と可美真手命(うましまじのみこと、饒速日尊の子供)を祀っていました。ですが宮山に登るのは登山になりますので気楽に参拝に行けません。というわけで崇神天皇の時代に可美真手命を下之社(今の石切神社)に移します。

なんで饒速日尊も一緒に移さなかったんですかねえ。これで宮山の饒速日尊と下之社の可美真手命の二座体制となります。さすがに宮山まで登るのがしんどくなったのか慶安三年(1650)、由比正雪の乱の頃ですなあ。この年に饒速日尊が宮山から光堂山(今の上之社)に移されます。高さは低くなりましたが山の上という点は変わりません。

明治40年には下之社に合祀されます。これで現在の石切神社になります。上之社は石碑だけでしたが再興されました。上之社からは大阪平野が一望できます。可美真手命ですが石見国一之宮である物部神社の祭神でもあり、一説にはヤマトの命令で出雲を平定した神様でもあります

深野池・新開地

東大阪市役所から届いたハザードマップを見ていると地下鉄・中央線(横の赤い線)北側が青くなっていて、つまり大雨などで洪水の危険があるところです。

ハザードマップ
ハザードマップ

右側の青いところは深野池(ふこのいけ)と呼ばれる湖があった場所。左側の青いところは新開地池ですね。古代、大阪市や東大阪市は河内湖と呼ばれる湖が拡がっていました。上町大地だけが湖に突き出しており四天王寺の伽藍がすぐ近くの海から見えました。

河内湖はだんだん縮小していったのですが、深野池などは江戸時代まで残りました。ハザードマップで青くなっているのは玉櫛川、吉田川、菱江川など大和川が大和から大阪へ出て分岐した川跡です。洪水などが多かったので江戸時代に大和川の付替えが行われ鴻池新田など多くの新田開発が行われます。

災害が多い日本ですので家を買う前に古地図を確認し歴史を調べるのは鉄則ですねえ。

祟道神社

神社検索にとっても便利な法人番号検索サイト!「崇道」と入力するとヒットするのな9件で奈良に4件あります。

祟道神社
祟道神社

ですが出てくるのは奈良市内の4社だけ、法人番号検索サイトに出てこない小さな社がけっこうあり、昔、御所を歩いていた時に崇道神社を見つけました。

崇道天皇とは天皇に即位していない早良親王のこと、非業の死を遂げて怨霊となったため崇道天皇と追称されました。映画「陰陽道」で安倍晴明と戦っていました。

早良親王の容疑は桓武天皇の命で長岡宮を造営していた藤原種継暗殺事件です。結局、桓武天皇は平安京に遷都しますが、遷都の理由の一つが奈良仏教界の影響力低下を狙ったこと。当時の仏教界はテロ組織みたいなものですから暗殺も不思議ではありません。早良親王は奈良仏教界とも近かったので、まったくのシロというわけでもなさそうです。ただし無実の罪で殺されて怨霊になったということで崇道神社や御霊神社として祀られることになります。

山口神社

杵築神社と奈良に多いのが山口神社で法人番号検索サイトで検索すると全国39件中15件を占め、2番目は鳥取で7件です。同様に多いのが水分神社でこちらは48件中、18件、御県神社にいたっては5件すべてが奈良です。

鴨山口神社
鴨山口神社

奈良平野を取り巻く形であるのが御県神社で、さらにそれを取り巻くように山口神社があり、さらに高地の分水嶺に配置されているのが水分神社で同心円状になっています。御県は「みあがた」と呼んで、天皇の食事に供える農作物を栽培した朝廷の直轄地になります。

伊勢神宮の式年遷宮の最初が山口祭で新社殿の用材を切り出すにあたって「山の口に坐す神」に祈るお祭りです。山口神社は山の神と関係しているのでしょう。奈良の神社は奥深いですねえ。

杵築神社

磯城郡川西町吐田にある杵築(きづき)神社です。300mほど離れた所から大和川の改修によって移転しました。

杵築神社
杵築神社

この杵築神社の祭神はスサノオノミコトで、なぜか奈良県にたくさんあります。今は便利なツールがあって国税庁法人番号公表サイトで「杵築神社」と入力して検索すると44件ヒットします。その中で奈良県内が半分以上の24、次に続くのは大分と岡山の3なんで奈良がダントツです。

■さてクイズです。

日本一有名な杵築神社と言えばどこでしょうか?

ピンポン!そうです。出雲大社です。

古代から杵築大社と呼ばれてきましたが、明治4年に出雲大社へと改称されました。この時に祭神もスサノオノミコトから大国主に変更になっています。もっとも平安時代ぐらいまでは大国主が祭神だったようです。杵築大社がある島根には津和野しか杵築神社が見つかりませんでした。

でもなんでスサノオノミコトを祀る杵築神社が奈良に多いのでしょうか?

梅原猛「神々の流竄」ではヤマタノオロチは「大和のオロチ」で三輪山の神さんだと論説していましたが、後年、出雲から大量の銅鐸、銅剣、銅矛が大量に見つかったことから、やはりヤマタノオロチは出雲だということになっています。

でも杵築神社がなんで奈良に多いんですかねえ。

奈良湖

山の辺の道
山の辺の道

GWだというのに、ずっと家に籠ってセミナー準備。早く寒くなって山城シーズンになんないかなあ

そうそう推古天皇の後を継いだ舒明天皇の不思議な歌が万葉集に載っています。天の香具山に登って国見をした時の歌で「国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ」というフレーズが出てきます。奈良に海原はないので香具山の麓にある埴安の池を歌ったのではというのが定説です。

でも天の香具山からカモメが飛ぶ海原が見えたらどうでしょうか。

■古代、奈良湖があった
奈良盆地、縄文時代の遺跡は微高地で見つかりますが盆地の中心にはありません。弥生時代になってようやく見つかるようになります。古代、奈良湖があり弥生時代に水位が下がってきたようです。日本で一番古い官道と言われる山の辺の道が山麓を巡っているのは、残っている湖や湿地帯を避けるためのようです。また蘇我氏や葛城氏など古代の豪族が盆地の周辺を本拠地にしていたのも同じ理屈でしょう。舒明天皇の時代にも奈良湖の痕跡が残っていたようです。

邪馬台国説がある纏向遺跡には南北2本の運河がありましたし、斉明天皇も香具山の西から石上山(天理市)まで10数キロの運河を作りましたので奈良湖の痕跡をうまく活用して実現したのでしょ。

鉄砲の里 国友

昨日、NHKを見ていたら「山城トレッキング」の再放送をやっていて春風亭昇太が小谷城を登っていました。こんな山城を登るだけの番組があるんだあ。これからのバズワードはDXじゃなくって山城ですね(笑)

国友
国友

小谷城の近くにあるのが国友。戦国時代から江戸時代へ続く鉄砲の里です。

■鉄砲工房「国友」
国友は刀鍛冶の村でしたが1544年、将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが鉄砲製造の始まりと言われています。信長が10歳の時で、翌年に浅井長政が生まれます。大河ドラマ「麒麟がくる」でも将軍が鉄砲作りを命じた設定になっていましたが、1544年は種子島へ鉄砲が伝来した翌年ですから時期的に早く、最近の説では、地元を治めていた浅井長政が国友で鉄砲を作らせたようです。

国友は小谷城から近く、可能性が高いですね。そうそう「麒麟がくる」では齋藤道三の命をうけた明智光秀が伊平次という腕利きの鉄砲鍛冶を国友で探しておりました。

1549年には織田信長が500挺もの鉄砲を発注したという記録がありますが、これもどうですかねえ。ちょっと不思議なのが浅井長政が鉄砲を戦略物資として他の大名に流れるのを止めなかったことです。信長なんか堺をおさえ当時、輸入に頼っていた鉛(鉄砲の玉)と火薬を作る硝石を武田勝頼側に流れないように経済封鎖していました。武田も鉄砲を持っていましたが、玉と火薬不足でうまく運用できませんでした。