江口の君

江口城から淀川沿いに歩くと江口の里があります。江口は淀川が神崎川へ入る分流点で、江(川)の口から名づけられています。長岡京の造営がはじまった頃の延暦3年(784)に淀川と三国川(昔の神崎川の名前)を江口付近でつなぐ工事が行なわれ現在の神崎川ができました。神崎川が都と西日本を結ぶ主要水路となり、江口は交通の要衝となります。昔はトラックなどがなかったので物資を運ぶのは船運が中心でした。

江口の君
江口の君

■江口の君
西行が四天王寺参詣のため、江口の里までやってきたところ、にわか雨にあいます。一夜の宿を頼みましたが、主人の遊女は断ります。遊女をなじる歌を歌った西行に対して、遊女屋に宿を求める西行を皮肉った歌が返ってきて、この言い合いの歌(歌問答)が新古今和歌集にのっています。これを題材になって能の「江口」にもなっています。

この主人ですが、平資盛の娘で平家没落の後、乳母の郷里に移り遊女となったと言われています。遊女といっても格式高かったんですねえ。こうなると網野史学ですなあ。

さて西行と出会った後、主人は仏門に入り庵を結んだのが寂光寺で江口の君堂と呼ばれています。淀川沿いにある、なかなか鄙びたお寺です。

板チョコ看板

松永久秀屋敷跡の近くにあるのが明治・大阪工場。

板チョコ看板
板チョコ看板

大阪から京都方面に向かいJR摂津富田駅を過ぎてすぐ左側に見えてくるのが大きな板チョコ。明治・大阪工場の巨大看板です。昭和30年にできた工場でチョコレート、きのこの山、たけのこの里などを造っています。看板は高さ27.6メートル×幅165.9メートルで工場がすっぽり隠れる大きさになっています。

近くで見るととっても大きいですねえ。

土居川公園(堺)

戦国時代の堺は堀で囲まれた城塞都市でした。城塞に櫓が建ち並び、こうなると都市というより平城ですね。織田信長が「矢銭を払わんと攻めるぞ」と脅しますが、戦うかどうか審議したのは戦える能力があったからです。結局、堺は信長の命に従うことになります。

大小路橋
大小路橋

堺といえば第12代将軍・足利義晴(「麒麟がゆく」向井理が演じる足利義輝の父親)と争っていた異母兄の足利義維が堺公方として支配していました。足利義晴は京都を離れ近江の朽木などに逃げていましたので、うまくやればとって変わるチャンスがありました。結局はできませんでした。

■堀跡
さて戦国時代に作られた堀が土居川で土居とは堤防のことです。秀吉が天下をとってから堀は埋められてしまいます。元あった土居川よりも外側に堀を再度、造ったのが徳川家康です。南海堺東駅から大阪湾の方へ向かうと阪神高速道路の下に大小路橋という陸橋があり、阪神高速道路沿いに土居川公園が続いていて、ここが家康が造った堀跡です。

大小路橋から大小路が大阪湾へ向かって伸びていますが、この通りが堺の語源となる摂津国と和泉国の国境になりました。

王将・出町店 閉店

京都で専門学校の教員をしていた頃、出町商店街が近くで時たま行っていたのが王将・出町店。小さな店なんですがチャーハンがおいしかったですね。

近くに京大、同志社、府立医科大学があるため、店頭には「飯代のない人 お腹いっぱい ただで食べさせてあげます。但し食後30分間お皿洗いをしていただきます。」と張り紙がしてありました。人情味のあふれるお店でした。そういえば京産大学生が多い王将・御園橋店も同じようなシステムでしたね。

長年、店を切り盛りしていた店主が70歳を超えたこともあり、10月末で閉店が決まったそうでネットでは惜しむ声があがっています。知らなかったのですが、この皿洗いのエピソードが「取締役 島耕作」に出てくるそうです。

「ほんやら堂」もなくなったし、昔、行っていたお店がなくなるのは寂しいですなあ。

大坂か大阪か

秀吉や秀忠、家光が造ったのは大阪城ではなく大坂城です。坂の字が違い、戦国時代は大坂が使われていました。

大坂
大坂

幕末、浜松歌国という狂言作者が「摂陽落穂集」に「坂」は土に反(かえ)るいう意味なので「阪」を使おうと提唱しています。これで急激に代わったわけではなく江戸時代頃から大阪の字が使われてボチボチと変わっていったようです。

もともとは上町台地に小坂という坂があり、一帯を小坂と呼んでいました。石山本願寺を造った時に蓮如が大坂にしようと言い出してから大坂になったようです。最初は上町大地一帯を指していましたが、やがて摂津、和泉、河内全体をさすようになっていきます。

松阪牛で有名な松阪でも同じで、蒲生氏郷が城下町を作った頃は松坂でした。明治になり大阪が変えたのにあわせて松坂になったそうです。

興福寺・国宝館

奈良で仕事だったので、帰りに興福寺・国宝館へ寄ってきました。コロナ禍の影響もあり入場者は5名ほど。係員の方が多いですねえ。

興福寺・国宝館
興福寺・国宝館

国宝館での楽しみは天燈鬼。頭の上の燈籠を上目づかいににらんでいる姿がユーモラスでいいですねえ。

もう一つが仏頭で東金堂本尊だったものです。元々は天智天皇や藤原鎌足の陰謀で蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれます。自害したのが自分が造った山田寺(飛鳥)で、この山田寺の本尊でした。

鎌倉時代に東金堂を再建する時に興福寺の僧兵が山田寺から無理やり押し入り本尊を強奪してきます。時は流れて堂が焼けた時に焼け残った仏頭が本尊台座にほうりこまれ、昭和になってから発見されます。蘇我倉山田石川麻呂の無念がしのばれる仏頭です。

東向き商店街、餅飯殿センター街ともに、まあまあ観光客が増えていました。

佃煮 発祥の地

佃煮の発祥には諸説あるんですが、もともとは漁に出る時の保存食でした。悪天候時や船内食として小魚や貝を塩や醤油で煮詰めたものを持参していました。

田蓑神社
田蓑神社

後に江戸の佃島へ移ってから住吉神社へ奉納したのが佃煮の元となったという説がありますが、住吉神社は佃にあった田蓑神社(住吉明神)を分霊したものです。それなら佃時代から田蓑神社に奉納していただろうということで、ここが佃煮発祥の地という説もあります。

田蓑神社は神功皇后が三韓からの帰途に佃に上陸し、漁師が白魚を献上したという伝説が残っていますが、古代、住吉大社の領地だったようです。境内には東照宮もありました。

佃島 発祥の地

お仕事で阪神電車・千船駅へ。千船駅は神崎川と左門殿川に囲まれた佃にあります。そうそう佃煮で有名な東京の佃島の故郷がここ佃ってご存知ですか。

千船駅
千船駅

徳川家康が兵庫にある多田神社へ参詣します。多田神社は摂津源氏発祥の地ですから、源氏を名乗る家康としては参詣しないわけにはいきません。この時に佃村の漁師たちが船を出して川を渡したことから徳川家と縁ができました。

将軍家に献魚の役を命じられ、漁師の一部は江戸に行くことになります。また、どこで漁をしてもよいという特権を与えられ、隅田川下流の干潟を造成し、できたのが今の佃島です。

バッタモノの能見神社

バッタモノシリーズです。高槻城のすぐ近くに野見神社がありました。

能見神社
能見神社

まさかと思ったら祭神は野見宿禰でした。野見宿禰といえば垂仁天皇の命により当麻蹴速と相撲をして勝ち、土師氏の祖となった人物です。高槻といえば継体天皇陵といわれる今城塚古墳があるので埴輪の拠点だったのでしょう。

ただ調べると野見神社は、もともとは疫病対策の神社で須佐之男命を祀っていた牛頭天王社でした。明治になってから野見宿禰命を合祀して野見神社になります。理由は式内社に野見神社があり場所が分かっていないので、式内・野見神社になろうというもので、つまりフェークです。式内社は同じ高槻市内にある上宮天満宮摂社「野身神社」ではないかと言われています。

ところで式内社って分かりますよね。延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳に記載された神社のことで、社格が高い神社です。

正倉院展

炎天下のなか、奈良国立博物館へ行って正倉院展を見てきました。

正倉院展
正倉院展

正倉院展といってもバッタモノです(笑)。「特別展よみがえる正倉院宝物 ―再現模造にみる天平の技」ということで複製品です。往時を再現していますので螺鈿細工など見事ですね。土曜日なので混んでいるかなと思ったら、正倉院展のオータムレイトチケットなみにすいていました。

会場は本場の正倉院展と同じ広さでの展示でした。五弦琵琶や鏡などを見て奥まで行くと古文書の複製までありました。古文書の裏に映った字まで再生されていました。すさまじい技術ですね。写経生の休暇願があり、「母親が病気なので3日間休ませてください」など書かれていました。