朱雀大路

平城京の大内裏南面にある朱雀門から羅城門まで3.7kmにわたって続くのが幅70メートルの朱雀大路です。朱雀大路はそのまま下ツ道につながり、遠く藤原京まで延びていました。

朱雀大路
朱雀大路

広い朱雀大路を活用して朱雀門前では外交使節を迎える儀式や騎兵の出征や凱旋が行われました。また美観にこだわっており十数名ほどいた公卿以外は朱雀大路に面して門を作れず、整然と築地塀が続いていました。また道の脇には排水溝と街路樹が整備されていました。

現在、朱雀門の南方約250メートルほどにわたって朱雀大路が復元整備されており、当時を彷彿できます。名古屋の100m道路のようですなあ。

興福寺・西門

奈良博三昧を見た後、帰り道の興福寺へ。国宝館へ寄って阿修羅像などを見てきましたが係員以外、誰もいません。コロナ禍で修学旅行もなくなったので観光客よりも鹿の方が多い状態です。

西門
西門

国宝館のすぐ近くで発掘調査をしていました。復興された中金堂と東金堂との間に昔は西門があったそうで今は東金堂しかありませんが、東金堂も回廊に囲まれていたそうです。

今、中金堂との回廊と東金堂との間は広い参道になっていて、五重塔の写真を撮るベストポジションですが、往時はもっと狭かったようです。中金堂復元の後は五重塔の修理に入るそうで、さすがに西門の復興はないでしょう。

天平時代のコロナ特別休暇願い

奈良博三昧には天平宝字2(758)年に書かれた休暇届もありました。万昆嶋主が勤務先の写経所に提出したものです。

万昆嶋主解
万昆嶋主解

なんでも親戚(父親の姉妹?)が重病になり、起きることができない状態となったため、看病をしていたが病状が回復しなかったので、さらに4ケ日の休暇を願い出たものです。他に看病する人がいないとも書かれています。

天平時代は天然痘が大流行し、藤原四兄弟が次々に亡くなった時期です。新羅に派遣されていた遣新羅遣から全国に拡がったのが原因のようです。重病の原因が天然痘なら、万昆嶋主が提出したのは今でいうコロナ特別休暇願いですね。

いまと同じようにパンデミックによる社会不安が起きます。ワクチンなどの有効策がないため聖武天皇が考えたのが全国に国分寺を建てて、金光明最勝王経による疫病バリアをはりめぐらせることでした。バリアの中心となるのが奈良の大仏になります。

紫微中台

国立博物館で奈良博三昧をやっていて、展示されている古文書を見ていると紫微中台の文字が!!

紫微中台
紫微中台

紫微中台だ~あ!

紫微中台って何か分かりますか。よみは「しびのちゅうだい」です。

もともとは臣下出身から初の皇后となった光明皇后のために作られた皇后宮職があり、これを唐風の名前に改めて発足させます。横文字のデジタル庁みたいなものですね。

■紫微中台
律令制度にない新設の官職(令外官)で聖武天皇と光明子の娘である孝謙天皇を補佐するために749年に設置されました。トップになったのが藤原仲麻呂、そうです恵美押勝です。権限を握ったこともあり、橘諸兄、吉備真備、道鏡などオールスターとの政変になります。仲麻呂の後ろだてだった光明皇太后が760年に亡くなると、紫微中台も廃止されます。

■藤原仲麻呂の乱
そして起きるのが藤原仲麻呂の乱。平城京を脱して息子が国司をしている越前を目指す藤原仲麻呂ですが立ちはだかるのが吉備真備です。吉備真備は70歳と高齢でしたが唐で軍略などを学んでおり、仲麻呂の先回りして三関を閉め、琵琶湖の西側に追い込みます。現在の近江高島あたりにあった三尾城あたりで仲麻呂は最後を遂げます。

10年ちょっとの紫微中台の文字が古文書に残っているんですねえ!

平城京 南門

平城京南門が・出来上がりました。
「なんと、りっぱな平城京」で覚えた平城京遷都は710年。藤原京から移り、長岡京に遷都するまで70年ほどの都でした。

平城京南門
平城京 南門

大極殿正殿と朱雀門が出来上がっているので、南門を含めた3つが縦に並んで見られるようになります。計画によると築地回廊、東西楼(南門の東と西にあった建物)、内庭広場も随時、復原整備されるんですね。

■幕末からの保存活動
遷都後の平城京はだんだん廃れ、長い間をかけて田んぼなどになっていました。江戸時代末期に藤堂藩の飛地が古市にあり、古市奉行所に勤めていた北浦定政が自ら考案した測量車を使って奈良盆地をくまなく調査。地図の上に平城京を復元します。これが「平城宮大内裏跡坪割之図」。平城京は碁盤の目のように区画されていましたが、水田のあぜ道などや古い地名を調べて比定していきます。

ペリーの黒船来航などで騒然としたいた時に、こんなフィールドワークをやっていたんですね。明治になってから関野貞が大極殿の基壇を見つけ、棚田嘉十郎によって奈良大極殿保存会が設立され、保存運動がすすみ、現在の平城旧跡歴史公園が誕生します。

残念塚

大河ドラマ「晴天を衝け」、あれよあれよという間に鳥羽伏見の戦いが終わり函館・五稜郭の戦いまで進んでしまいました。カッコよく土方歳三が出てましたねえ。

鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜は大坂城でもう一戦するチャンスがありましたが、部下をみすてて逃亡。大阪湾の制海権を幕府の軍艦が握っていたのですが、どうもイギリス側から局外中立を守らないかもしれないと脅しをうけていた模様で内戦となりフランスとイギリスの代理戦争になることを怖れた説があります。自分がいなくなった時にまつりあげられそうな松平容保(会津藩藩主)、松平定敬(桑名藩藩主)も連れていきます。

幕末の京都で幕府の政権を担当した一会桑の面々ですので、逃亡するにしても慶喜は用意周到です。主戦派の松平定敬は留守中に桑名藩の家老連中が恭順に決定したため、函館戦争にまで参加しています。最後の新選組に桑名藩藩士が多いのは藩主についていった主戦派の連中が参加したからです。

■残念塚
主がいなくなった大坂城では、逃げるしかなく兵士も船などに乗って江戸に向かいますが、潔しといない面々が残り城に火を放ち、次々と自刃していきました。新政府軍は焼け焦げた建物の中から遺体を回収し、武士の鑑と称賛し埋葬します。これが大阪で「残念塚」と呼ばれる城中焼亡埋骨墳で大阪城公園のはずれにあります。

残念塚
残念塚

■150年前、とてもヤバい国だった
カブールからガニ大統領がさっさと逃げ出し首都が陥落したニュースを見てサイゴン陥落を思い出した人も多いと思いますが、鳥羽伏見の戦いみたいだなと思っていました。今から150年ほど前の日本はとてもヤバい国で、「攘夷」と叫んで丸腰の商人や婦人が惨殺され、大使館が焼き討ちされるなどテロが日常茶飯事でした。あまりに危ない国なので多国籍軍を組織して砲撃したりしています。

森山遺跡

JR長池駅から住宅街の階段を登って高台に出ると公園があります。ここが縄文時代、弥生時代、古墳時代へと続く森山遺跡です。宅地造成で見つかった遺跡です。木津川を臨む高台ですので物流の拠点でした。竪穴住居などの集落跡が見つかっていますが、面白いのが古墳時代の初頭です。

森山遺跡
森山遺跡

東西40メートル、南北32メートルの方形台状に盛土し、その周囲に幅4メートル、深さ1.5メートルの溝を巡らした遺構が見つかりました。この土地を支配した首長の居館跡のようですが、堀を巡らした郭でまさに城郭の初期の形になっています。

安満遺跡

以前、JRや阪急で高槻駅を出てすぐのところに見えていたのが京大農場の広い緑でした。ところが工事がはじまり、「あ~あ、せっかくの緑が住宅地にでもなるのかな」と思ったら遺跡公園になっていました。

安満遺跡
安満遺跡

安満(あま)遺跡で昭和の初めに京大農場を作る時、遺跡があることが判明しました。安満遺跡は弥生時代の大環濠集落跡で何重もの堀と土塁で囲まれていました。つまり初期の城です(笑)。約2,500年前から800年間にわたって栄え、居住域の東西に方形周溝墓群からなる墓域があり東群では100基以上の方形周溝墓がありました。水田跡と一緒に、スキやクワといった木製品、石包丁などの農耕具もたくさん出土しています。

公園としてきれいに整備されレストランやスターバックスなどもあり高槻市民の憩いの場になっています。

古代の市役所 嶋上郡衙

今城塚古墳近くにあるのが嶋上郡衙です。ここに儀式の場・庁院や税を納める正倉などが整えられていました。住宅街の小道沿いに案内板はありますが、こんな何もない広場を撮影している人は他におりませんねえ。

嶋上郡衙
嶋上郡衙

郡衙(ぐんが)とは古代の役所のことで律令制度時代に郡の官人(郡司)が政務を執った所です。この辺りは高槻市郡家新町となりますが郡家という地名が残っているのは、郡衙があった場所に多いです。

今でいうと県庁のような国府があり、こちらには国司がいましたが、郡司は在地の有力豪族が勤めて戸籍や徴税を担当していたので今でいう市役所&税務署みたいなものですかね。701年の大宝令によって郡ができましたので、これ以降の行政機関です。