赤坂頓宮跡

赤坂頓宮跡

亀山でお仕事でしたので加茂駅から久しぶりに関西本線に乗って亀山駅を目指します。ちょっと時間があったので、一つ手前の関駅で下車。前から行きたかった赤坂頓宮跡に寄ってきました。関宿は東海道の宿場町で有名ですが、少し離れたところ赤坂頓宮跡があります。

■赤坂頓宮とは
藤原広嗣の乱が起きると聖武天皇は乱の最中に、突然、関東(伊勢、美濃)への謎の行幸を始めます。壬申の乱で大海人王子(天武天皇)がたどった道をなぞっていることが定説になっていますが理由がよく分かっていません。最終的に平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都し大仏建立に動きます。

この鈴鹿関を抜けて関東に入ったところに仮宮を建て、これが赤坂頓宮になっています。丘の上で裏側には郭と土塁跡がありますので砦としても使えそうです。

■鈴鹿頓宮跡?
姫御前という地名があたりに残っていて都から伊勢の斎宮へ向かう斎王が泊まった鈴鹿頓宮跡があったのではとも言われています。

離宮院跡

離宮院跡

伊勢神宮の入口にあるのが宮川の渡し。この宮川の手前にあったのが斎宮(さいくう)の離宮院です。斎宮とは古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所で、現在も発掘が続いています。

■斎王
斎王は天皇の皇女などが任命され、天照大神の御杖代となりました。初代が豊鍬入姫命で、現在の伊勢神宮を創建したのが2代目の倭姫命になります。有名なのが大来皇女で、謀反を起こしたと殺された大津皇子を偲んだ「うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む」が万葉集に残っています。

■離宮院
斎王が斎宮から伊勢神宮へ向かう途中に立ち寄ったのが離宮院で、離宮院ができたのは延暦16年(797年)。坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された年になります。斎宮と同様に離宮院も広かったようで、たくさんの役所が並んでいました。839年に火災で燃えましたが、すぐに再建されたようで、当時の土塁跡が今も残っています。北側が5メートルほどの高低差がある丘になっていて防御力は高そうです。

パンドラの匣(太宰治)

パンドラの匣

太宰治といえば「人間失格」や「斜陽」など暗いイメージがあるんですが、二編ほど青春快活物を書いています。

その一作が「パンドラの匣」。ちょうど太平洋戦争が終わった頃、結核患者向け療養所に入った青年の周りで巻き起こる小さな日常のドタバタを描いた作品です。この療養所が変わっていて健康道場という名前で、院長は場長、看護師さんは助手、入院患者は塾生と呼ばれ、場長の闘病法である屈伸鍛錬などを行うのが日課になっています。助手のマア坊や、竹さんとのやり取りや個性的な療養患者がなかなか面白い作品で2009年には映画化もされているんですね。(出演は染谷将太、ふかわりょう等)

■「パンドラの匣」の舞台は日下
もともと太宰ファンだった青年が療養生活の内容を日誌に残しており、亡くなってから太宰治に送られ「パンドラの匣」となりました。物語の舞台となった健康道場は東大阪市の日下にあり孔舎衙健康道場という名前です。高台にあって今は跡地だけが残っていまが、案内板もあり、石切駅から離れていて、けっこう不便な場所ですが熱心な太宰ファンが通っているようです。

「パンドラの匣」には”枕元の大きい硝子窓の下には、十坪くらいの「乙女ヶ池」とかいう(この名は、あまり感心しないが)いつも涼しく澄んでいる池があって”とありますが、健康道場跡にある高台から見えるこの池のことですかねえ。

岩瀬文庫

真田丸

愛知県西尾市にあるのが岩瀬文庫。西尾市は岡崎の近くにあります。

この西尾出身の実業家・岩瀬弥助が創設した私立図書館が岩瀬文庫です。このほど所蔵する絵図や地図をネット上で閲覧できるデータベースの運用を始めました。無料でしかも事前登録などもいらず、そのまま見ることができます。全国の古地図もあり、大阪のを見ていると大坂の陣の絵図も出てきました。

→ 岩瀬文庫

大坂城の配置を見ていると真田左衛門とあり、これが真田丸ですね。真田丸の正面には加賀の前田利常が陣をはり、井伊掃部は彦根の井伊直孝ですね。伏見城や聚楽第の絵図もあり、なかなか楽しめます。

上田秋成(日下)

東大阪

大阪・曽根崎生まれの上田秋成。怪異小説「雨月物語」の作者として有名ですが国学にも造詣が深く本居宣長とも論争しました。

妻を亡くし、両目を患っていた上田秋成は東大阪の日下で4ケ月ほど療養します。日下に正法寺という寺があり、ここの紫蓮(唯心尼)が招いたそうです。近郷の文芸愛好者が集まり、文芸サロンの様な雰囲気になっていました。先日、孔舎衙坂駅へ行ったついでに寄ってみましたが今は正法寺はなく2本の楠と看板だけが残っています。

近くには日下村の庄屋を務めた河澄家があり、こちらにも上田秋成はよく出入りしていたようで、随筆「山霧記」にも河澄家を訪れたことが書かれています。河澄家は修理されて平成23年5月より一般公開されています。

保護猫カフェ285

保護猫カフェ285

知合いがオープンした保護猫カフェ285

場所は津市島崎町285番地にあり、津駅からまっすぐ15分ほど海に向かって歩いたところにあります。すぐ近くにエイデン、コスモス、ユニクロ、モスバーガー があり、もともとは居酒屋&カラオケのあったところです。

1階はふつうのカフェで2階が保護猫エリアになっていました。7月2日にオープンしたばかりで、ホームページも製作中だそうです。定休日は月曜・木曜で朝は何時からスタートか分かりませんが、夜は20時(ラストオーダー19時30分) までで、なかなかオシャレなカフェになっています。津方面の方、ぜひどうぞ!

100m上がると0.6度気温が下がる

枚岡神社
毎日、暑いですね。
大阪も猛暑が続いています。夏越の祓のお札が届いたので、前回の祓のお札を返すために枚岡神社へ。そのまま枚岡公園を散歩してきました。標高は100メートルほどあるので、0.6度ぐらい涼しくなるはずですが誤差の範囲でした。坂を登るのに汗をかきましたが、大阪平野が一望できます。
Gooの天気予報に過去の大阪の気温があったので本日の最高気温を5年ごとに見てみると
1961年 33.7
1966年 31.9
1971年 32.6
1976年 31.4
1981年 34.0
1986年 31.2
1991年 29.3
1996年 34.0
2001年 27.5
2006年 33.8
2011年 34.8
2016年 31.5
となります。1961年の7月の気温を見てみると一番高いのが35.5度です。やはり、温暖化が進んでいるようです。

高田本山

高田本山
浄土真宗といえば、お西さん(西本願寺)、お東さん(東本願寺)という言葉をよく聞きます。
本願寺は信長と10年間戦い続けた後、内部のお家騒動と秀吉、家康によって現在の形になりました。浄土真宗はこの2つだけではなく全部で十派あり、その中でも大きいのが津の一身田にある高田派(高田本山)です。全国に600以上ある真宗高田派の総本山で、もともとは下野国高田にありましたが戦国時代に津が中心となりました。高田本山は親鸞の真筆文書が多く残されていることでも有名です。この高田本山の御影堂と如来堂の2棟が去年、国宝になっています。
寺内町なので寺や町を堀で囲んでおり、今も一部が残っています。私の出身校がこの高田本山が運営する学校でして、毎月、本山参拝という行事があり1限目がつぶれるのを楽しみにしていました(笑)。文化祭では各クラスで仮装をして一身田の町中を練り歩くという行事があり、サンダーバードなど6年間、力をいれて力作を作っておりました。

神戸神館神明社

神戸神館神明社
日本各地に神戸という地名があります。神社の祭祀を維持するにはお金がかかります。そこで神社に民戸を割り当て、税金を神社のために使う仕組みにしました。これが神戸です。
JR徳和駅(松阪から1駅目)近くに神戸神館神明社があります。一帯に伊勢神宮へ供祭料を貢納する神戸があり、収納するための神館があった場所になります。周囲を堀が巡っていて城郭にようになっています。
倭姫命が天照大神の御杖代として大和から伊賀、近江、美濃、尾張を巡り、伊勢の国に入り、最終的に伊勢神宮を創建しますが、伊勢の国のなかでもいろいろと巡っていました。飯野高宮で4年間、天照大神をお祀りしたとあり、この飯野高宮が神戸神館神明社ではないかと言われています。飯高の県造(あがたのみやつこ)であった乙加豆知(おとかづち)が倭姫命に神田と神戸を進呈し飯野高宮を造営したとあります。
第11代、垂仁天皇の時代となりますので。日本武尊などより前の時代です。垂仁天皇陵は近鉄・西大寺駅から1駅目の尼ヶ辻駅のすぐ隣に見えます。神戸神館神明社が祀っているの天照大神、豊受大神、倭姫命、乙加豆知命で、内宮、外宮へ行かなくても一カ所ですみます。

白山社山王社

白山社山王社
奥州藤原氏時代の平泉復元図を見ると壮麗な毛越寺などが描かれているのですが、気になるのが伽羅御所、無量光院の近くにある池に浮かんだ小島の社。周囲を池が囲み、一本の土橋が延びています。ところが、あまり皆さん、気にならないのか平泉の史跡マップなどには掲載されていません。
■平泉の鎮守社だった
調べると白山社山王社という社で、せっかく平泉へ行ったので探して行ってきました。平泉駅から伽羅御所の方へ向かいますが線路を渡らずに線路沿いを行くと住宅地の近くに細い路地があり、白山妙理権現への道と小さく書いてありました。進むと湿地帯みたいなところへ出て、ここがかっての「鈴沢の池」跡。畑をしている人に聞いたら、まっすぐ行くと社へ出られるということで向かうと、今は白山妙理権現という社になっていました。
藤原秀衡の時代から明治はじめまでは白山社山王社で、平泉の鎮守社の一つだったそうです。1570年頃ですので姉川の戦いの頃に消失し、現在の社殿は1763年に建立されたものです。本居宣長が伊勢へ行く途中の賀茂真淵と出会い、古事記研究にすすむことになった松阪の一夜の年ですねえ。