大納言塚

大納言塚
大納言塚

先日、ファイティングコンサルタンツのメンバーと行ったのが大和郡山城の近くにあるのが大納言塚。つまり秀吉の弟である秀長のお墓です。秀長が亡くなった時の官位が大納言だったので大納言塚と呼ばれています。 

【豊臣秀長】 
秀吉は織田家の中途採用から出世しましたので先祖伝来の郎党がいるわけでもなく、家臣団を構成するために親戚やヘッドハンティングするしかありませんでした。そんななか秀吉の右腕となったのが小一郎(秀長)で、農民の出身のはずですが才能に恵まれており、よく秀吉をサポートしました。 

秀長は温厚な性格で、秀吉の欠点を補い、僧兵や国人の争いが多かった大和も大過なく治めており実務能力も高かったようです。先日、亡くなった堺屋太一が「豊臣秀長―ある補佐役の生涯」という本も書いています。秀長は大和郡山城内で病死し大納言塚に葬られます。 

【藤堂高虎】 
この秀長の右腕だったのが藤堂高虎。主を7回変えたといいますが、それは若い頃の話で21歳で秀長に仕官してからは秀長が亡くなるまで15年にわたり仕えました。秀長亡き後は継いだ養子の豊臣秀保をサポートし、名代として文禄の役にも出兵しています。ところがこの秀保が17歳で早世してしまい大和豊臣家は断絶。藤堂高虎は出家して高野山に上ってしまいますます。才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得し還俗させました。 

水間観音

水間観音
水間観音

根福寺城からずっと下ってくると三重塔で有名な水間観音があります。

水間観音は聖武天皇の勅願により行基が開創したと言われています。戦国時代、ここらへんは根来の支配下だったため秀吉の紀州征伐(雑賀、根来攻め)で堀秀政の軍勢に攻められて焼失しました。堀秀政といえば信長の側近で、信長亡き後は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いでは家康の本拠である岡崎をつこうとした時に家康に見破られ秀吉軍はさんざんに打ち負かされます。そんななか委細をはなったのが堀秀政軍で家康軍を敗退させ一矢報いました。小田原城攻めで病没してしまいました。

伽藍は江戸時代に再建されています。昔から厄除けで有名でしたが境内の愛染明王が恋人の聖地と認定されたことから厄除けと恋愛成就のパワースポットになっているそうです。知らんけど。

小早川秀秋(岡山城)

小早川秀秋(岡山城)
小早川秀秋(岡山城)

【小早川秀秋】 
通説では関ケ原の合戦で裏切ったという小早川秀秋ですが、最初から東軍側で防衛の要となる松尾山城を小早川秀秋が占拠したため石田三成らは関ケ原ではなく隣の山中へ出陣。小早川秀秋と合戦になり家康軍との挟撃にあったという説も登場しています。つまり関ケ原で戦はなかったということです。 

関ケ原の合戦の後、小早川秀秋には宇喜多秀家の領地が与えられ岡山城に入ることになります。というわけで岡山城の一角に小早川秀秋の鎧や絵が飾られていました。 

【おそるべし刀剣男子】 
他にも戦国武将が展示されていましたが、絵を見るとめちゃくちゃイケメン揃い。何でも正子公也という戦国武将の画集などを出している作家の絵なんだそうです。 

そういえば昨年の紅白では刀剣男士なるものが出ていましたなあ。 土方歳三の愛刀である「和泉守兼定」なんかは、まだ有名ですが、「へし切長谷部」なんて、よほど織田信長について調べないと出てこないような刀まで登場しています。 

信長だったら今川義元を討ち取って手に入れ、その後、秀吉、家康に伝承された天下人の刀「義元左文字」だろうと思ったら、しっかり刀剣男子に入っていました。おそるべし刀剣男子!刀剣男子は映画にもなっていてロケ地がまさかの松坂城なんだそうです。

高津宮

高津宮

上町台地にあったと伝わるのが仁徳天皇の高津宮で、現在は神社になっています。上町大地の西端にあり西側は崖になっています。高津の富という上方落語の舞台でもあります。

仁徳天皇は宋書・倭国伝に出てくる倭の五王の倭王讃または倭王珍ではないかと言われています。お墓は堺にある世界最大の大仙陵古墳で、昔は仁徳天皇陵と習いましたが、実際は誰が葬られているのか、よく分かっていません。

高津宮といえば有名なのが「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは 賑わいにけり」という新古今集に出てくる和歌で、仁徳天皇の偉業をうたったものです。疲弊した民のために3年間、徴税をやめ宮殿が荒れ果ててしまいましたが3年経って民の家々から煮炊きの煙があがるようになったという故事に由来するものですが、プライマリーバランスを無視して、ほんまにできるんですかいな~あ。

仁徳天皇といえば難波の堀江の開削(現在の大川と言われています)と茨田堤の築造を行ったインフラ整備で有名で国力を豊かにするための施策を実行したのが本当でしょう。

訳語田幸玉宮(敏達天皇)

訳語田幸玉宮(敏達天皇)
訳語田幸玉宮(敏達天皇)

【敏達天皇】 
敏達天皇といえば仏教伝来で有名な欽明天皇の子供で、奥さんは額田部皇女(後の推古天皇)でした。大連は物部守屋、大臣は蘇我馬子が勤め廃仏派、崇仏派で争っており、次の用明天皇時代に蘇我馬子・聖徳太子vs物部守屋の戦いが起きます。崇仏派が勝利して聖徳太子が建てたのが大阪の四天王寺です。

敏達天皇は廃仏派で、廃仏派が優勢となり、物部守屋がインドから百済経由で伝わった仏像を難波の堀江へ打ち捨てます。これを本田善光という人物が拾って本尊としたのが信州にある善光寺となります。

【訳語田幸玉宮】 
さて敏達天皇の宮は訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)と言い、桜井の戒重にあったと言われています。欽明天皇の宮(磯城嶋金刺宮)、用明天皇の宮(磐余池辺雙槻宮)も同じ桜井にありました。訳語田幸玉宮跡は後に西阿の戒重城、織田の戒重陣屋となるところです。 

【大津皇子の邸宅に】 
訳語田幸玉宮の後は大津皇子の邸宅となり、大津皇子は天武天皇が崩御すると密告により謀反を計画したと捕えられ訳語田(おさだ)の自邸にて自害します。鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の策略ではないかと言われている事件で、「天上の虹」の世界ですなあ。

石上神宮

石上神宮

豊田城跡から山の辺の道をたどると石上神宮(いそのかみじんぐう)に着きます、

石上神宮は物部氏の総氏神で古代からある神社です。古代に神宮だったのは伊勢神宮と石上神宮の2つしかありません。物部氏というと物部守屋が仏教を巡り蘇我馬子、聖徳太子と対立し、河内国渋川郡にあった館で破れ、物部氏そのものが滅んだという印象がありますが、石上氏と名前を変えて存続します。物部氏の本拠地は現在の東大阪、八尾と奈良の天理あたりでしたので天理の物部氏が本宗家の地位を継いだようです。

物部氏は大伴氏と並んで、武門の棟梁でした。磐井の乱の鎮圧などで活躍をしています。その関係もあり古代には武器庫もありました。垂仁天皇の時代に剣一千口と神宝が納められという記録があり、日本後記には石上神宮の武器類を山城国葛野郡に移す時、延べ15万7千人が必要だったと記録されています。正倉院にも武器が収められていて恵美押勝の乱の時に、写経生が叩き起こされて宮中の警備のために武器を取り出し、何もしなかったが後でほうびがもらえた記録が残っています。

宝塚古墳の被葬者は誰?

宝塚古墳

船型埴輪が見つかったのが宝塚古墳の1号墳で、伊勢国では最大の前方後円墳です。宝塚古墳は松阪郊外の丘陵上にあり伊勢湾が一望できるところで、航行中の船からはランドマークになっていたでしょう。宝塚古墳は国の史跡として整備され船形埴輪が見つかった造り出し部分に埴輪が再現されています。

【伊勢にもあった国譲り神話】
1号墳の被葬者は分かっていませんが、地域をおさめた飯高氏の先祖である乙加豆知命(オトカズチノミコト)ではないかともいわれています。乙加豆知命は斎王である倭姫命を伊勢で出迎えたと伝わっていますので、大和朝廷と関係があり、東の守りをまかされた人物でしょう。日本武尊(ヤマトタケル)が東征に出向く前、伊勢へ寄って倭姫命より草薙剣を受け取っています。

伊勢にはもともと伊勢津彦という出雲神がいて、神武天皇に逆らっていました。ところが攻められて東海に逃げたという、出雲と同じような国譲り神話が残っています。伊勢という国名はこの伊勢津彦からとられたという説があり、古代にはいろいろとあったようです。

1号墳のすぐ横に2号墳があり、こちらは帆立貝形古墳になっています。1号墳との位置関係から1号墳の後を引き継いだ首長のようです。宝塚古墳には88基以上の古墳があり、王家の谷のようになっていましたが、宅地開発などでほとんどが消滅してしまいました。

船形埴輪

船形埴輪

松阪に宝塚古墳群があり、ここで見つかったのが船形埴輪。前方後円墳の造り出し部分(祭が行われた場所)でほぼ完全な形で発掘されました。古墳の石室に描かれた壁画や円筒埴輪の線画で装飾用の船があったことは知られていましたが、立体的な形で確認されたのは日本で初めてです。船には王がいることを示す太刀や蓋、杖がそびえていました。古代にこんな船があったんですね。

中世の伊勢には桑名、白子、安濃津、的潟(まとかた)、大湊の港があり、的潟は櫛田川の支流である「中の川」の河口にあったといわれる港の名前です。的の形に似ているのでマトカタと呼ばれるようになったようですが現在は地形が変わってしまって正確な場所は分かっていません。。万葉集には702年に持統上皇が三河へ行幸する時の出発地として「マトカタの浦」という地名が出てきますので古代から中世には港で栄えていたようです。

ヤマト政権が東方経営の拠点としていたようですので宝塚古墳群に葬られたのはヤマト政権に協力していた地元の王だったのでしょう。

額田戎神社

額田戎神社

えべっさん、今年もあんじょう頼んまっせえ!他のヤツの願いはどうでもええから、ワテの願いは絶対でっせえ!合同会社もやっているし、ほんまに頼んまっせえ!!

ということで家のすぐ近くにある額田戎神社へ。人が多い今宮や西宮へ行かなくても、ゆっくりお参りできるのが最高です。西宮のえべっさんを勧請しているので、ご利益は同じです!!と信じています(笑)。なんせ浄土真宗なみの絶対他力ですから、ほんまにあんじょう頼んまっせえ!

いつもは閑散としている額田戎神社も十日戎の間は”商売繁盛で笹もってこい!”が大音量で流れています。まずはえべっさんにお願いして、次は社殿裏にまわって木の板をたたき、もう一度お願いをします。なんせ耳が遠い神様なんで念には念をいれます。

境内でお神酒と甘酒をいただいてから縁起物を買い求めます。額田戎神社では縁起物を買うと福引ができ、今年も5等(末等)のゴミ袋でした。さあ、また1年がんばろう!

上之宮遺跡

上之宮遺跡

聖徳太子による最初の国立劇場である土舞台から山を降り、少し歩いた住宅街のど真ん中にあるのが上之宮遺跡。とっても分かりにくいところにあります。 

発掘によって周囲100m四方の敷地内に大型建物、花園、園地遺構があることが判明しました。近くを川が流れており川が削った河岸段丘の上にあります。今は住宅地の中に園地遺構が復元され、小さな公園として整備されています。 

聖徳太子を最近の教科書では厩戸皇子と呼ぶそうですが、別名で上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれています。上之宮という地名から、聖徳太子が斑鳩宮に移るまで過ごした宮殿、上宮(かみつみや)が上之宮遺跡跡ではないかとも言われています。またこのあたりは豪族・阿倍(安倍)氏の本貫でもあるので阿倍氏関係の居館の可能性もあります。阿倍氏は阿倍比羅夫などを輩出し、平安時代には安倍晴明へとつながります。飛鳥時代から続く安倍文殊院もあります。 

近年、もう少し西へ行った東池尻・池之内遺跡で池の堤跡が見つかり、これが磐余池ではないかと言われています。磐余池の近くには用明天皇の磐余池辺雙槻宮があり、上宮はその南隣にあったとされているので、上ノ宮遺跡は阿倍氏関係ですかねえ。