京都ではカンブリという予備校が有名なだった時代があります。母体は関西文理学院ですが、ここが作った専門学校の一つが関西文理情報会計専門学校です。ここで10年ほど情報処理の教員をやっていました。当時、情報処理技術者試験は2種、1種の時代で、学校には富士通の汎用機が入っていました。今は懐かしいCOBOL、FORTRAN、C言語なんかやっていましたね。試験で出たものでその対策です。
そうそう最初に教壇に立った時は足が震えたことを覚えています。あの頃は若かったなあ。
専門学校の母体が予備校なんで18歳人口減少の波とともに、なかなか大変な学園経営となっていきます。専門学校はその後、京都国際ビジネスカレッジ、ビジネスカレッジ京都と名前を変え、学部を増やしたり中国からの留学生を受け入れたりしていましたが、最後は関西経理学校と統合し河原町丸太町に校舎を移転しました。この頃に退職しました。
その後、河原町今出川を下がったところにあった校舎は取り壊され、どこかの会社の保養所になっていたのは知っていたのですが、先日、通ったら帝国データバンクになっていました。学園自体は長浜バイオ大学として残っています。
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ほったらかしにできる花鉢ハラポット
原スイコー社(堺市)の花鉢ハラポットを試してみました。
まず石切商店街にある花屋さんで買ってきた花鉢からハラポットに植え替えます。根についた土を落としますがマンションのベランダで行いますので水洗いできません。本当は水洗いをした方がよいでしょうが、風呂場でやるわけにもいかず、適当に土を落としてキットについている培養土(軽石と布のようなものでとっても軽い)に入れます。
次に2リットルのペットボトルに培養液を少し入れて水で薄めます。10mlと書いていましたが目分量です。(笑)ペットボトルを振ってから水タンクに入れてセットすれば作業は終了。水タンクを下向きにする時に素早くやらないと少しこぼれます。あとは日があたるところに置いて、ほったらかしです。
水タンクは5日ほどでなくなりますので、なくなる前に補充するだけ。出張でも、ほったらかしでかまいません。水タンクは重いのですが培養土などはとっても軽いです。ベランダに花を植えていますが、水やりをどれほどやればよく分からず、やりすぎて枯らすこともありますがハラポットはほったかしでかまいません。
花を植えたら次々に他の花も咲きだし1ケ月ほど楽しめました。
→ 原スイコー社
オタクからインバウンドへ 日本橋
豊浦は邪馬台国と関係がある?
我が家の隣が豊浦町ですが、反対側には額田町があります。
こちらも古い土地で額田氏が住んでいました。今は住宅街になってしまいましたが、古代には馬を放牧する牧だったようで遺跡からも馬の骨などが見つかっています。額田の名前の由来は額に旋毛(つむじ)がある馬を大王に献上したことから額田部の姓をたまわったようです。当時は軍や農耕に馬の機動力が必要でしたので馬の放牧はとても重要でした。豊浦に拠点があった河内母樹馬飼首御狩の名前にも馬飼とついています。
■額田と豊浦
額田氏の居住した地域には額田や豊浦の地名が多く、奈良の平群や尼崎にも額田という名前の土地があります。推古天皇は額田氏に養育されたことから額田部皇女と呼ばれ、飛鳥で政治をとった場所が豊浦宮と呼ばれました。推古天皇は豊御食炊屋姫尊とも呼ばれています。
■トヨは邪馬台国と関係がある
神功皇后の宮も豊浦宮で、聖徳太子(豊聡耳)やお父さんである用明天皇(橘豊日天皇)にも皆、豊(トヨ)が入っています。日本書紀は魏志倭人伝を読んでいるはずなのに邪馬台国の記載がなく、神功紀に邪馬台国で卑弥呼の後に擁立されたトヨが魏王に朝貢したと解釈できる文があり、邪馬台国のトヨが豊浦などと関係しているのではという説もあります。
ウチの近所で孔舎衙坂の戦いが行われた?
近鉄・新石切駅から少し北に行くと日下(くさか)という土地があります。神武天皇の時代は生駒山の麓まで海でした。
日下は草香、孔舎衙とも書き、日本書紀、古事記に出てくる神武東征で孔舎衛坂の戦いが行われたところです。大和をおさめていた長髓彦(ながすねひこ)に敗れ、神武天皇の兄が矢傷を負います。神武天皇は”日神の子であるのに、東(太陽)に向かって進んだのがダメなんだ”という”最初からそんなことぐらい分かるだろう”というツッコミどころ満載の理由で紀州を迂回し、熊野から大和へ攻め入ります。
■孔舎衛坂は暗峠?
神武東征は日下の出来事と思っていたんですが、「蘇我氏と馬飼集団の謎」という本を読むと、隣の豊浦町が孔舎衛坂の戦いの舞台になっていてビックり!長髓彦の攻撃をやりすごすために大きな樹に隠れてやりすごした人がいて、恩、母のごとしと樹に感謝したことから、その地を母木邑(おものきむら)と名づけました。この母木邑が豊浦町だそうです。
大阪から奈良へ攻め入るなら暗峠を進のが基本です。大坂の陣でも後藤又兵衛らが暗峠を越えて、大和郡山城を占領しに行っています。暗峠に行く途中が豊浦なので、孔舎衛坂の戦いとは暗峠の攻防戦だったかもしれません。
継体天皇の時代に任那復興で派遣された近江毛野臣の従者に河内母樹馬飼首御狩という人物がいて母木邑の母樹が名前に入っています。枚岡神主の水走氏旧記によると、母木は豊浦になっていますので、河内母樹馬飼首御狩の本拠地は豊浦周辺のようです。大坂夏の陣で徳川家康が本陣を置いた中村屋敷跡も豊浦にありますので、今は住宅街ですが昔は館を作りやすい土地だったのでしょう。
神武天皇の東征か、もしくは神話のモデルとなった戦いはウチの近所で行われた可能性大なんですねえ。
サントリービルディング
堂島の一番端にあるのがサントリービルディングです。堂島グランドビルにいた頃、サントリービルディングの地下にあったバーに、時たま行っておりました。
マティーニにパールオニオンを入れるとギブソンになりますが、当時、読んだ火浦功の「ハードボイルドで行こう」にパールオニオンではなく桃屋の花らっきょをマティーニにいれるシーンがあり、真似して入れたのはサントリーのバーだったかなあ。
■ペンギンCM 覚えています?
サントリーといえばCMですね。1980年代はペンギンで松田聖子のスィート・メモリーズがバックに流れたペンギンの悲喜こもごものアニメでした。あと山下達郎のアイラブユーが流れるなか、ロボット風パントマイムのCMもオシャレでしたね。
もう少し古い時代には、ちょうど日経新聞の小説連載でオールドが登場していますが、オールドのコマーシャルに冬の渡り鳥というのがあります、夜の浜辺で焚火をしながらホットオールドを飲むシーンが出てきます。
その時のセリフが「冬になると渡り鳥が木の枝をもって渡ってくる。波間に浮かべて休むためだ。春になって鳥たちが帰っていくと、冬を越せなかった鳥の数だけ木の枝が浜辺に残る。その枝をくべてウィスキーを飲む。」としみじみする内容でした。
一幅の絵になるようなコマーシャルって、少なくなりましたねえ。CMスキップが行われるわけです。
堂島グランドビル
五山送り火
今日は五山送り火。
”大文字焼き”なんて言うと京都人に心の中で馬鹿にされます。たぶん若草の山焼きと結びついた言葉でしょう。ちなみに奈良でも大文字送り火が前日の8月15日に行われます。
送り火の伝統を維持するのは大変で、少子高齢化の影響である保存会では男系のみとする世襲制の会員資格を女系の男子にも広げるようにしたという記事が掲載されていました。皇室問題みたいですね。
京都に勤めていた頃、同僚が下鴨近くに住んでいて「妙」か「法」の字の担当でした。午後には山に登って準備に入り、夜になって点火。周りは火だらけになり、おかげで送り火を見たことがないと言っておりました。そら見えないでしょうね。写真は賀茂川で遠くに西加茂の船形が映っていますが、見えませんね。
■大が犬になったことがあった
昔は馬鹿なことを考えた京都の学生がいて、山に入って茂みに隠れ、「大」の点火と同時に一斉に懐中電灯を点け「犬」にしてしまいました。あの時の学生は今は何をやっているんでしょうなあ。
重願寺(大坂三十三所巡り)
新設されるJR総持寺駅について先日、記載しましたが、駅名の元となる総持寺は西国三十三所第二十二番札所です。西国三十三所巡りは岐阜、滋賀、京都、奈良、大阪、兵庫、和歌山に点在する三十三か所の観音信仰の霊場を回るもので、かなり大変!ちなみに観世音菩薩が衆生を救うとき三十三の姿に変化するところから三十三所巡りとなっています。
■大坂三十三ヶ所巡りというショートカットがあった!
時たま散歩で蓮の写真を撮っている重願寺入口に「西国三十三所観世音十七番札所」という碑が建っていました。東大阪にもあるんだと調べたら西国三十三所巡りではなく大坂三十三ヶ所巡りでした(笑)。
なんでも江戸時代に29ヶ所の寺院と4ヶ所の神社をめぐると、西国三十三ヶ所を遍路したのと同じご利益があるとして大流行したそうです。西国三十三所巡りは大変なので、つまりショートカットですなあ(笑)。
井原威西鶴の曾根崎心中にも大坂三十三ヶ所巡りが出てくるそうで、「十七番に重願寺、これからいくつ生玉の本誓寺ぞと伏し拝む。」と記載されています。大坂三十三ヶ所巡りは戦争などで廃れていましたが、復興運動が起きているようです。大坂七墓巡りなど、いろいろな巡礼が復興していますね。