足立氏館跡の近くにあるのが旧河澄家。2年ほど前から家屋や枯山水庭園が一般公開されています。東大阪の市政便りに載っていたのですが、ようやく行きました。
河澄家は南北朝時代にさかのぼり、江戸時代は日下村の庄屋をつとめていました。主屋敷の横に棲鶴楼という名前の書院造りの建物があり、ここから庭を眺めることができ文芸サロンになっていました。
怪異小説「雨月物語」で有名な上田秋成はよく日下村を訪れており、「山霧記」「鳴鶴園記」などの作品を残しています。この棲鶴楼にも立ち寄っています。
河澄家の場所は東大阪市日下町7丁目で、近くには安岡正篤の旧宅もあります。安岡正篤って言っても今の若い人には知られていないでしょうね。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳といった歴代総理の指南役だった人です。そうそう「平成」の名付け親が安岡正篤というのはガセネタのようですね。
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中之島図書館
仕事が終わってから中之島図書館へ。
調べたい業界があったのでビジネス支援サービスへ行くと、いろいろと本やデータベースを調べてもらえました。こりゃありがたいと、せっせとコピーしておりました。ビジネス系に調べものをするのに中之島図書館はとっても便利ですよ。
■野口孫一
3階で「中之島図書館と野口孫一の建築術」(無料)という展示をしていました。中之島図書館には中心にドームがあり、古代ローマのパンテオンのようですが、これを設計したのが野口孫一。
欧米では知の殿堂に後期ルネサンス様式を採用していますが、もともとがパンテオンがモデルなので、重厚な建物になるんですね。展示は11月末までです。日中、中之島図書館へ来るのは本が目的の人は半分で、重厚な建物を見に来る観光客が半分といったところです。
帰りに大阪コーナーをのぞくと、「幻の高安城」の記録本が2冊あり、ひたすら読んでいました。(笑)
千利休屋敷跡
昨日、遠里小野の環濠を見た後、すぐ近くを走っているチンチン電車(阪堺電車)に乗って堺へ。
宿院ちかくに新しく「さかい利晶の社」という施設が出来ていました。利晶って、なんのこっちゃいなと思っていたら千利休と与謝野晶子なんですね。なかなか贅沢な施設で隣にはスターバックスもありました。「さかい利晶の社」のすぐ隣にあるのが千利休屋敷跡。ここは昔と変っていなく井戸などが健在でした。
新しく碑ができていて、碑によると千利休の祖父は千阿弥といい、足利義政の同朋衆と書いてありました。同朋衆というのは将軍のそばで雑務や芸能にあたった人々で、猿楽能の観阿弥も同朋衆です。茶道は利休からなんで、なんの芸能で仕えたのかなあ。
千家はもともとは田中家だったんですね。この田中家は新田里見氏の一族といわれています。
信長も陣をはった遠里小野環濠
本日も大阪市内で仕事でしたので、近くの遠里小野へ。
大阪の難読地名でよく出てくる土地です、もちろん”おんりおの”ではありません。遠里小野は少し微高地になっていて戦国時代や江戸時代は環濠集落でした。周りを掘で囲まれているので防御力が高く、しかも熊野街道が集落を通っており、交通の要衝ということで、よく陣がおかれました。
織田信長も遠里小野環濠に陣をはったことが信長公記に出てきます。さすがに環濠は埋められて道路になってしまいましたが、微妙に高さが違っていることが分かります。環濠集落の古地図を見ると、当時の道路が今もそのまま使われていることが分かります。細かい路地も中世の時代そのままの位置にあり、なかなか感激します。
能「弱法師」の舞台 俊徳塚
今日は大阪で仕事でしたので、ついでに能「弱法師」の故郷である俊徳塚へ行ってきました。
近鉄大阪線に俊徳道駅があります。駅の南側を通る俊徳道から名前をとっていますが、俊徳道は俊徳丸からきています。
■能「弱法師」
俊徳丸は、人のザンゲンを信じた父により家から追放され、盲目となってしまい、乞食坊主として四天王寺で物乞いをすることになります。後に後悔した父親と四天王寺で再開することになります。能なので、そのあといろいろあります。
■俊徳塚
もともとは河内国高安の山畑にいた長者が長年子供がいなかったが、清水観音に願をかけることでもうけた子供の名前が俊徳丸でした。ですので現在の八尾市山畑に俊徳塚があります。最寄駅は近鉄 服部川駅になります。住宅地の真中に横穴式の石室墳墓がデーンとありました。
権現塚
大坂冬の陣で家康は茶臼山に陣をかまえますが、京都から大坂へ向かう時に通ったのが生駒山山麓の東高野街道。
家のすぐ近くを東高野街道が通っていますが、隣の豊浦町に権現塚があり、このあたりに中村正教(まさのり)の邸宅がありました。家康は冬の陣、夏の陣ともに中村家に泊ります。中村家は佐々木源氏の流れなので、氏の長者である家康に従ったのでしょう。宿泊した時に正教が菖蒲の節句にちなんで木綿を献上したところ、家康は「勝布」と言い、大いに喜んだという逸話が残っています。東高野街道から少し登ったところに中村家はありましたので、当時は大坂城までよく見通せたでしょう。
家康は東照大権現になりましたので、その関係で権現塚が作られました。もう少し登って、近鉄奈良線が通っているホテルセイリュウあたりだと大坂平野が一望できますので、当時の民衆はこのあたりから大坂の陣を見物していたでしょうね。
自分のことは占えない
近くに石切神社という物部の古い神さんがあり、散歩がてら、よく石切参道商店街をブラブラしています。ここは占い関係のお店が多く、一度、店を数えてみましたが30軒以上はあり、中にはアパートのような占い横丁まであって正確な数はよう分かりません。
そんななか派手な傘が置いてあったのが陰陽道占いのお店。廃業したのか移転したのか店は閉まっており看板だけでした。占い激戦地区ですので、店の出入りも多いです。初期投資が机と椅子だけと安いことも特徴です。当然、占いなので商売がうまくいくかどうかを占ってもらえますが、こと自分のこととなると占えないもんですね。
これはコンサルタントも同じです。人の会社のことは言えますが、いざ自分のこととなると客観的に自分のビジネスを見られないこともあり、自分で自分のコンサルはできません。自分自身がコンサルタント業なのに外部のコンサルに自分のコンサルを頼むことは、ままあることです。商売とは難しいものですねえ。
纏向遺跡
三輪山登拝のあと、近くにある纏向遺跡を見てきました。纏向遺跡は広大な遺跡で運河が2本あり、全国から土器が持ち込まれています。土器で多いのは東海、出雲、吉備、河内地域で各地の首長が集まり会議や祈りをしていたような都市でした。農地などは見つかっておらず、今でいう霞が関みたいなところだったようです。箸墓などは通天閣のようなランドマークになっていました。
地上には何もないのですがJR巻向駅の近くで発見されたのが辻地区の建物群です。国内最大の建物跡が発見され、しかも4棟が中心軸をそろえて東西一直線に整然と並んでいました。2009年には”卑弥呼の宮殿を発見か”と大きく報道された場所で、今は埋め戻されて原っぱになっています。ここが邪馬台国かどうかは分かりませんが、初代大和政権である崇神天皇の磯城瑞籬宮、垂仁天皇の纏向珠城宮、景行天皇の纏向日代宮だった可能性が高いですね。
「うまし うるわし 奈良」へ、ぜひどうぞ!
三輪山登拝
中小企業診断士のグループ船場総研のイベントに参加してきました。
三輪神社のご神体は三輪山そのものですが、登って参拝することができます。まずは三輪神社境内にある摂社「狭井神社」に向かい、受付をすませると三輪山参拝証という首にかける札をもらえます。鈴がついていて、これは熊よけなんですかねえ。
■日向御子って誰?
なかなか急な山道を先導者が休憩もなしに登るので、しんどいのなんの。疲れ果てました。途中に磐座などがいろいろとあり、一番奥にも磐座がありました。手前に社があり、ここに祀られているのが日向御子神。
三輪神社の神様といえば大物主大神で出雲の神様です。大和のど真ん中に出雲神が祀られているのですが近くの纏向遺跡でいろいろな地域の土器が発掘されていますが、東海地域の次に多いのが出雲で、どうも出雲が国造りに多大に貢献していたようです。
崇神天皇の代に疫病がつづいた時に大物主が夢の中にあらわれて、子孫のオオタタネコに祀らせたら疫病はおさまると言われ、河内にいたオオタタネコに祀らせ疫病が止んだという話があります。一説には祭儀のために神武(天皇)を招いた話なんではないかと言われています。神武天皇はどこから来たかと言えば日向です、それで日向御子。
三輪山登拝受付は14時終了ですが、降りている途中14時30分ぐらいに下から神官が登ってきました。全員下山したか確認するのでしょうが、あんな急坂を毎日、登る仕事はいやだなあ、(笑)