都をどりでワンウェイコントロールを学ぶ

都をどり
奥さんのお供で観光客で一杯の祇園・花見小路へ 祇園甲部歌舞練場へ都おどりを見に行ってきましたが、行ったのは初めてで、きちんとワンウェイコントロールになっていました。
ワンウェイコントロールというのは 入口から出口までの通路を一方向で設計することで、スーパーなどで導入されています。東京ディズニーランドなどの遊園地のアトラクションもワンウェイコントロールになっています。 まず入ると土産物を提供している会社の説明と庭園をまわるようになっています。次に150名ぐらいづつ順番でお茶席に通されます。
一番前で舞妓さんがお茶をたてていますが、配られてきたお茶とお菓子をいただくだけ。お菓子を入れていた皿は持ち帰れるようになっています。家に変な皿があるのは、ウチの奥さんが都をどりに来るたびに皿をもらってきているからなんですなあ。 次に土産物コーナーに通されます。”出口は別になりますので後では買えません”と心理学をうまく考えた張り紙がありました。
最初に見た土産物提供会社の商品が売られています。なるほど!思わず納得して猫の扇子を買ってしまいました。(笑) ようやく劇場に入って舞台です。城南宮の曲水の宴など春夏秋冬のいろいろな舞台が演じられ、最後の背景は城でした。京都で城!まさか聚楽第!と思ったら姫路城でした。(笑)外国人には日本情緒満載でうけるでしょうねえ。 しっかりとしたワンウェイコントロールですので、劇場を出ると観光客で一杯の花見小路でした。

1400年前に起きた乙巳の変 入鹿神社

入鹿神社

大和八木駅近くにあるのが小網町と曽我町、蘇我氏の本拠地です。
最近の研究では蘇我氏は葛城氏の一族で、曽我地域を拠点にしていたことから蘇我氏と名乗りました。乙巳の変(622年)のクーデターによって蘇我本家が滅びましたが、蘇我氏そのものは名前を変えて生き残り、有名なのが石川氏です。
蘇我一族
川辺臣氏-十市郡川辺郷
田中臣氏-高市郡田中宮
小治田臣氏-高市郡小墾田宮
桜井臣氏-高市郡桜井豊浦宮、河内郡桜井郷、石川郡桜井宮
岸田臣氏-山辺郡岸田村
高向臣氏-錦部郡高向村
小網町には入鹿神社があり、”全国にここだけ、蘇我入鹿公をまつる神社”という幟がはためいています。伝説では乙巳の変で入鹿の首がここまで飛んできて祀ったのがきっかけで頭痛に霊験があるそうです。
小網町の住人は筋金入りで守ってきたようで、明治時代に入り、皇国史観が中心となった時代に入鹿を祀るのはどうかと政府に言われ、祭神をスサノオに、神社の名前を小網神社に変更しろと言われましたが、拒否したそうです。また明日香村小原は中臣鎌足の母の出身地ですので絶対に縁組しないなどの伝説が残っています。

耳成山から藤原京へ

藤原京
耳成山へ登った後、せっかく大和八木まで来たので少し南にある藤原京跡へ行ってきました。
以前まで藤原京は大和三山に囲まれたエリアに作られたと考えられていましたが発掘調査の結果、めちゃくちゃ大きく、平安京や平城京よりも大きかったことが判明しています。北には玄武大路、南には朱雀大路が整備されていました。北をつかさどる玄武は耳成山です。
藤原京は飛鳥から694年に持統天皇が遷都しました。といっても平城京跡と一緒で、何も残っていません。大極殿の土壇が少し高くなって残っているのと、発掘調査したところの柱跡が再現されているだけです。あとは野球をやったり、運動場になっています。
日本書紀は新益京という名前でした。ここらあたりは藤原という土地名で、飛鳥京と同様に藤原京というのは学術用語です。藤原鎌足はこのあたりの出身のようで中臣から藤原に名前を変えました。

北斗七星になる将門の首塚

将門の首塚
箱根駅伝の像がある読売新聞本社前と江戸城との間にあるのが「将門の首塚」。
討ち取られた平将門の首が京都でさらされ、怨念で大手町のこの地まで飛んできたそうです。塚を取り壊そうとした大蔵省では、急死するものが相次ぎなど怨念めいた話も残っています。
きわめつけは敷地にあった長期信用銀行が倒産したのも、将門の怨念と言われていますが、さすがにね~え。阪神が優勝できないのはカーネルサンダースの呪いのせいとよく似ています。

家康の腹心だった天海は将門の怨霊の力を使って江戸の守護神にしようとしたとのことで、将門を祀るところが都内に7つあります。それが首塚、神田明神、築土神社、兜神社、鳥越神社、水稲荷神社、鎧神社。この7つを結ぶと北斗七星の形になるそうです。

夫婦塚古墳

夫婦塚古墳
原稿書きが終わったので散歩へ。
まずは中臣家の神様・枚岡神社へ。境内にある枚岡梅林はすっかり梅が散っていました。次に物部の神様・石切神社へ。いつもはホテルセイリュウの前を通るのですが、今日は一つ下の道を通り、住宅地の中にある夫婦塚古墳を見てきました。といっても2つの石室があるだけです。
ホテルセイリュウ前が近鉄で、大阪の街が見渡せる車窓で有名ですが、昔は谷町台地までずっと河内湖でしたので、とっても眺めがよかったでしょうね。眺めがよいので古墳も多く、今でもいくつか残っていて石切神社の参道商店街の中にもあります。
夫婦塚古墳は神並古墳群の1つで、ずっと山畑古墳群まで古墳群が続いています。近鉄・瓢箪山駅も瓢箪山古墳が地名の由来になっています。

日本初の紙幣が使われた河崎

河崎
朝から伊勢の企業へ行っておりました。
伊勢市内には”サミット期間中はなるべく車での遠出などはひかえてください”のような案内が立っています。修学旅行も5月から6月に変更するようお願いがあったそうで、サミット準備が進んでいるようです。
帰り、宇治山田駅に着くと、電車の時間までかなりありましたので、近くにある河崎へ出かけてきました。伊勢神宮へ参拝する人は多いのですが、河崎はなかなか知られていません。勢田川沿いにある町で、日本各地から集まる物資を売りさばく問屋が軒を連ね、今も街並みが残っています。宇治山田駅、伊勢市駅からちょっと歩いたら着きます。
河崎は船で大湊へ着いた、伊勢神宮の参拝客をもてなした町でもありました。日本初の紙幣は山田で発行された山田羽書で、伊勢山田の商人が重たい貨幣の代わりに発行したものですが、信用力があったため全国で流通しました。もちろん、この河崎の町でも流通され、河崎の商人名が入った羽書が残っています。

麹町の平河天満宮は三芳野神社から

三芳野神社
川越城内の本丸御殿のすぐ近くに三芳野神社(みよしのじんじゃ)があります。
川越城ができる以前から神社があったため、城内の天神曲輪に移設されることになり「お城の天神さま」と呼ばれました。三芳野というのは川越の旧地名です。「とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここはどこの細道だ」という歌がありますが、この三芳野神社が発祥の地と言われています。(別の説もあります)
城内に神社ができたので一般の参詣ができなくなりましたが、領民などの要望があり時間を区切って参詣することが認められます。当時の参道はかなり複雑でしたが、参詣客に紛れて密偵などが城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客じゃ厳しく調べられました。そこで「行きはよいよい、帰りは怖い」という歌になったそうです。
■麹町・平河天満宮は三芳野神社から
大学を出た後、入社したSRAの本社が麹町にあり、時たま本社近くにあった平河天満宮にお参りにいっていました。平河天満宮の社伝によれば太田道潅が菅原道真の夢を見たことに感銘を受け、川越の三芳野天神を江戸城内に勧請して祀ったことが平河天満宮の始まりなんだそうです。
太田道灌はやはり川越城、江戸城の防衛ラインを考えていたんですね。

江戸時代の屋敷が残る喜多院(川越)

喜多院
江戸城に江戸時代の建物はほとんど残っていませんが、一部が川越の喜多院に移築されて残っています。当時、寺の周りは水堀で囲まれ、まさに城のような風情の寺です。今も空堀として残っています。
川越の大火で山門以外が燃えてしまったため徳川家光が江戸城の別殿を喜多院に移築しました。結果的に江戸城の屋敷が現代まで残ることになり、家光誕生の間、春日局化粧の間を川越で見ることができます。ブラタモリでもやっていました。
■天海
明智光秀が生き残って天海になったという説もありますが、江戸時代はじめ天海が喜多院の住職となります。家康に進言して喜多院を関東天台宗の本山にします。関東の天台宗寺院はすべて喜多院・天海のもとに属することになります。
もう一つ天海が仕掛けたのが門跡寺院。門跡寺院とは天皇の皇子や摂関家の子供たちが入る特別な寺で、醍醐寺の三宝院門跡、延暦寺の青蓮院門跡などがあります。住職は門主や院主と呼ばれます。
江戸幕府が日光山に東照大権現を作った時に上野の寛永寺を新しい門跡寺院(輪王寺門跡寺院)にし、延暦寺との力関係を逆転させます。東の叡山ということで東叡山という山号にしました。天海はなかなかの策士だったようです。

浜 木綿子さんのサイン

桃青庵ふじさき
久しぶりに伊賀鉄道に乗って伊賀上野へ。車坂商店街にある”桃青庵ふじさき”さんに寄ると店頭に”浜 木綿子”さんのサインが!
■浜 木綿子さんのサイン
「宝塚出身の女優さんじゃないですか、これどうしたんですか?」
って聞いたら
なんでも伊賀組紐をテーマにした映画撮影が伊賀であったようで、お茶菓子に桃青庵さんの”くみひも最中”が出されたようです。とてもおいしかったのか、後で本人から電話で直接注文があった時に図々しくサインをお願いしたら送ってくれたそうです。
「なんだ~あ、直接、店に来たんじゃないんですか~あ。」
というわけで記念に色紙を店に貼っているそうです。
そうそう桃青というのは松尾芭蕉の俳号で、松尾芭蕉を江戸生まれと勘違いしている人も多いのですが、伊賀上野生まれで江戸へ旅立ったのは松尾芭蕉30歳の頃です。
■陣屋のカレー
せっかく車坂まで来ましたので、お昼は坂を降りた所にある陣屋へ。あいかわらずジャスが流れるシュールな雰囲気の中で日替わり定食を注文。今日は珍しくカツカレーでした。これにコーヒーがついて650円です。おまけにルーの継ぎ足しもしてくれます。
で、津の実家へ行くと、晩御飯はカレーでした(笑)
→ くみひも最中(桃青庵ふじさき)