名張生まれの江戸川乱歩

江戸川乱歩
「ハッハッハッハッ、明智君」といえば怪人二十面相です。今なら名探偵コナンですね。
明智小五郎、怪盗二十面相、少年探偵団とくれば江戸川乱歩。江戸川乱歩は名張市生まれで、生家跡は商店街から細い路地を奥に入った一角で今は公園になっています。もともとは武士の家系で祖父の代まで藤堂家の藩士でした。
小さい時に父の転勤で転居したので名張にはあまり足跡がありませんが、鳥羽造船所に勤めるなど三重県とは縁はけっこう深い作家です。鳥羽の離島から発想を得て「パノラマ島奇談」。鳥羽の後、上京し、団子坂上で兄弟三人と三人書房と名づけた古本屋を始めます。これが「D坂の殺人事件」となります。探偵文壇の大御所になってから生まれ故郷の名張を訪れています。
これが随筆「ふるさと発見記」になっています。
“私の生家の跡は、新町という大通りの裏手にあった。四間くらいの小さな借家だったという。家主は名張の城代の侍医で、その医院の裏に幾軒かの貸家が建っていた、その一つを父が借りたのである。”
名張にある造り酒屋・木屋正酒造から「幻影城」というお酒が出ています。

ポラーノの広場

藤城清治世界展
チケットを買ってあるということで奥さんと「光と影の芸術人 藤城清治世界展」へ日曜の午前中に行ってきました。最終日で午後からは本人のサイン会もあるということでかなりの混雑。
場所は大阪港にある大阪文化館・天保山。昔のサントリーミュージアム「天保山」です。知的生産の技術研究会・関西で毎年、講演していただいた作家・野村正樹さんがサントリー時代の最後に手掛けたのがこのサントリーミュージアム「天保山」の設立。てっきり大阪在住と思ってセミナー講師を依頼したら、東京在住でした。それ以来、関西の別の用事にかこつけて前後にセミナーをしてもらいました。
「光と影の芸術人 藤城清治世界展」会場内には藤城清治作品が山のように展示されていました。なかでも多かったのが宮沢賢治の童話の挿絵。数ある作品の中で一番、印象的だったのが「ポラーノの広場」。昔、角川書店で宮沢賢治の「ポラーノの広場」を買ったのですが表紙の挿絵がまさにこれ。藤城清治には珍しく、淡い印象の絵で、懐かしかったですねえ。。
「つめくさの花の かおる夜は ポランの広場の夏まつり...」

伊勢へ

伊勢商工会議所
IT窓口相談で伊勢商工会議所へ。
写真は伊勢商工会議所1階の様子です。たまには近鉄ではなくJRの「快速みえ」に乗って伊勢へ行こうとしたのが失敗。
津駅は定刻通りに出ましたが、高茶屋駅ー松阪駅間が強風のため減速運転となり、結局25分遅れで伊勢市へ到着。商工会議所横に新しくできた店でランチをと思っていたら時間ギリギリで、お昼はなしでした。(泣)
1食、抜いても全然やせませんが(笑)

関西とは鈴鹿関の西のこと

鈴鹿関
関西の語源は関の西側という意味。関というのは不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関(弁慶の愛発超えで有名)の三関のことで関宿には鈴鹿関がありました。ですので鈴鹿関の東側にある四日市、桑名、名古屋は古代では関東でした。
鈴鹿関がどこにあったのか長らく謎でしたが「西の追分」(東海道と大和街道の分岐点)ちかくにある観音山麓から西城壁跡が見つかりました。観音山から城山を通って鈴鹿川まで長い城壁が続いていたようです。古代の関は江戸時代の箱根の関のようなイメージではなく、ずっと城壁が続き、現在の関宿をすっぽり囲んでいました。
→ 亀山市史(鈴鹿関の再現動画)
「壬申の乱」の大海人皇子の時代には関宿には鈴鹿郡家がありました。壬申の乱の後に鈴鹿関が整備されます。
大海人皇子は吉野から逃れて、鈴鹿郡家までたどりついたところで、ようやく東国に入ったと安心します。伊勢国司が応援に出迎え、近江軍に対抗するために鈴鹿の道を封鎖します。ここで合流したのが近江京を抜け出してきた大津皇子。後に持統天皇の謀略で謀反の疑いをかけられ二上山に葬られる、あの大津皇子です。当時は9歳ぐらいでしたのでお供がいたとしても大変だったでしょう。

江戸時代の宿場が残る関

関宿
日曜日、セミナー前に関宿を歩いてきました。
東海道53次の47番目の宿場町「関宿」は、まさに江戸時代のオープンセット。町屋が200棟以上も現存し、東海道で唯一、往時の町並みが残っています。中山道の奈良井宿も趣きありますが、関宿は規模が大きいですね。
東海道と大和道が分岐する西の追分から、東海道と伊勢別街道が分岐する東の追分までの約1.8kmに街並みが続きます。東の追分にある鳥居は20年に一度の式年遷宮の際に、内宮にある宇治橋の鳥居が新調されますが、それをリサイクルしたもの。もう一つの鳥居は桑名の七里の渡し跡にある鳥居にリサイクルされます。東の追分から伊勢別街道に入ると、そこから伊勢神宮の神域でした。
関宿を全部歩くと、けっこう時間がかかりそうだったので、関駅から西の追分まで歩きましたが、まあまあ距離がありました。
精一杯がんばることを「関の山」と言いますが、語源になっているのが関の山車。全盛期には16台ありましたが、現在は4台となっています。山車が壮麗で、これ以上は豪華にできなかったことと、山車をこれ以上、大きくすると道を巡行できなくなることから「関の山」という慣用句が生まれました。

織田信孝の首塚が関にあった

福蔵寺
織田信孝とは織田信長の三男。映画「清州会議」では坂東巳之助が演じていました。首塚が関にあるとは知りませんでした。
織田信孝は信長の伊勢攻めで鈴鹿近辺をおさめる神戸氏(関氏の一族)に養子にはいることになり、神戸信孝と名乗ります。信孝のお母さんは坂氏の出身で、坂氏は関氏の庶流、鹿伏兎氏の庶流にあたります。それで親戚筋にあたる神戸氏の養子に入ったんですね。
関西本線で亀山駅の隣が関駅で、次の駅が加太駅。鹿伏兎氏はこの加太駅周辺をおさめていました。すぐ近くを名阪国道が走っています。
織田信孝は信長が本能寺の変で倒れると、秀吉と組んで山崎の合戦を戦いいますが、清洲会議では甥の三法師に後継者が決定します。
織田信孝は岐阜城に入って、三法師の後見をすることになりますが、結局は秀吉とは敵対し、柴田勝家と組みすることになります。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が負けると、岐阜城を開城して秀吉に降伏。やがて秀吉によって自害させられ、首は関町の福蔵寺にもたらされ、ここで供養されました。
お墓は自害した知多の安養院にありますが、関に首塚があるとは知りませんでした。

館長 庵野秀明 特撮博物館

特撮博物館
水曜日、デザインセンターでのセミナー前に近くにある名古屋市科学館へ寄ってきました。目的は、「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」の特別展。大阪で開催する予定は決まっていないそうです。
平日なので、すいていました。科学館なので通常は家族連れが中心なんですが、特別展に来ているお客さんはオッサンが中心。人のことは言えませんが(笑)
「巨神兵東京に現わる」とメィキングの2本を上映していましたが、メイキングが面白かったですね。おっさん連中の技術者が集まり、楽しそうにワイワイとCGを使わずに、いかに特撮で見せるかをやっていましたが、ほんまに楽しそうです。
科学特捜隊のジェットビートルなどが展示されていましたが、懐かしかったのがマイティジャック。「海底大戦争 緯度0大作戦」のポスターなども懐かしいですね。
会場の最後には怪獣に壊された東京タワーなどがありましたが、中京テレビも主催者の一人なので「チュウキョ~くん」が家に隠れていた、りビルの上に番組表があったりして楽しめます。

弥生時代の城跡 見晴台遺跡

見晴台遺跡
名古屋の笠寺観音のすぐ近くにあるのが見晴台遺跡。
笠寺台地の東端にあり、周囲に比べ標高が15メートルほどある丘の上で、名前の通り見晴らしがよいところです。周りは住宅街になっていますが古代は海でした。縄文時代から人が住み始めましたが、弥生時代には集落が誕生します。東西約120メートル、南北約200メートルの周りを幅・深さとも約4メートルの堀(環濠)で丸く囲んでいました。魏志倭人伝に書かれた倭国大乱の頃でしょう。
堀跡が一部復元されていましたが、底がV字形の尖った形で、戦国時代の薬研堀にそっくり。堀の深さが4メートルもあって、しかも土塁までありました。かなり防御力が高い環濠集落です。発掘によれば集落は200年ほど続いたあと環濠が埋められており、名古屋市周辺の複数の環濠集落でも同様の動きがあるので、統一政権みたいなものが誕生したのかもしれません。
古代の名古屋といえば尾張氏が勢力を持ち、一族の一つが大海氏で大海氏が養育したのが大海人皇子。壬申の乱で勝利できたのは尾張氏のおかげでした。弥生時代に誕生した統一政権が尾張氏や尾張物部氏になったのかもしれません。
ただ不思議なのは桶狭間の合戦の舞台となった鳴海城に近く、見晴台も城をつくるには好立地だったはずですが、なぜか戦国時代の城は作られませんでした。太平洋戦争時代は立地に目をつけて高射砲陣地が作られ、今も土台が残っています。見晴台遺跡には見晴台考古資料館もあり、おすすめです!

11月11日は「いしきりんの日」

いしきりん
【石切参道商店街】
「デンボ(腫れ物)の神様」として有名な石切神社が東大阪にあります。「がん」の治癒を祈願する人が多く、いつ行っても神社入口から本殿前を行き来きするお百度参りが行われています。
この石切神社と近鉄・石切駅との間を結んでいるのが石切参道商店街。商店街で一番多いのが「占い」のお店。たくさんの占い師が店を出していて、なかには古書街のようにずらっと占い師が並んでいる一角もあります。この商店街のマスコットキャラクターが「いしきりん」。
【いしきりん】
「いしきり+きりん」から命名されています。一応、未婚の女の子なんだそうです。
ずんぐりむっくり体型で、とてもキリンにはみえまえん。しかもキリンなのに首(クビ)がありません。そこから就活、リストラ除けのお守りや、アスリートの足切り(ボーダライン)用お守りとして、「いしきりん」グッズが売れています。
身長:1m4cm
体重:スイカ4個分
特技:時速50キロで走れる(ホント?)
尊敬する人:まんまちゃん
誕生日:11月11日(いしきりんの日) ← 今日です!
タレントとして松竹芸能に所属しています。(笑)

ニッカ池

毛利
報道ステーションで天気予報となると六本木ヒルズの毛利庭園がバックに映ります。だいたい天気予報が終わるとテレビを消して、本を読んで寝てしまいます。(笑)六本木ヒルズのある場所には江戸時、長府毛利家(支藩)の屋敷がありました。
江戸時代初期、幕府や他の諸藩を折衝にあたる江戸留守居役をおくことになり白羽の矢があたったのが福間彦右衛門という人物。筆まめだった人で膨大な日記『公儀所日乗』を残してくれました。おかげで当時の社会情勢や幕府と藩との関係がよくわかる一級資料になっています。講談社学術文庫から「江戸お留守居役の日記」として出ています。
麻布の土地はもともと水が豊富なところで江戸時代から金魚養殖がよく行われていました。戦後1952年にニッカウヰスキーの東京工場ができた時、毛利庭園にあった池はニッカ池と呼ばれていました。
とてもきれいな水で、ジュンサイも生えていたそうです。ウイスキー造りには最適だったのでしょう。現在は毛利池となっていますが、かってのニッカ池はこの毛利池の地下に埋土して保存されています。こんな話は「マッサン」には出てこないでしょうね。