九条駅の名前の由来

九条駅
三宮にある「ひょうご産業活性化センター」へ行くのに地下鉄・中央線の九条駅で阪神電車に乗り換えています。
でも、なんで九条駅なんですかねえ。奈良には近鉄・九条駅がありますが、ここは平城京の九条通りのあった所。京都市地下鉄の九条駅も同様に平安京の九条通りがあった所です。大阪には難波京がありましたが大阪の九条駅は難波京からずっと西にいったところですから、位置的には一条です。
ネットで調べると諸説ありました。もともとは衢壊(くじょう)というまったく読めない地名だったそうです。漢字が難しすぎ読めないので九条にしたようです。そもそも衢壊(くじょう)という地名は淀川の河川工事で、このあたりの衢(みち)を切ったことから衢壊(くじょう)と名づけられたそうです。
他にも洪水で京都の九条家の笏(しゃく)が流れ着いたからという説がありますが、笏に持ち主の名前が書いてあったんですかねえ。条里制からつけられたという説もありました。西成郡に十八条村があり、一条からずっとありましたが、現在は十三(じゅうそう)、九条が地名として残ったという説です。十三は13番目の橋だからと名づけられたという話を聞いたんですが、どっちが本当ですかねえ。
九条ですが昔は川の砂洲が散在する地帯で九条島だったそうです。九条駅の次の駅が西九条駅で、なんで西九条があって東九条がないのかも不思議です。

日本最古の神社で神事

獅子岩
地元の中日新聞を見ると熊野市にある花の窟神社で縄掛け神事が行われたという記事が出ていました。
花の窟神社は熊野灘に面した海岸沿いにある神社で、ご神体は「いざなみのみこと」と「かぐつちのみこと」。神社に拝殿はありますが、ご神体はそびえたつ大きな岩になっていて、ほとんど崖。
日本書紀によると、火の神である「かぐつちのみこと」」を生むときに陰部を焼かれて「いざなみのみこと」が死んでしまいます。「いざなみのみこと」が埋葬されたのが熊野の有馬村。季節の花を供えて祭った岩屋なので、花の窟神社と呼ばれています。
夫の「いざなぎのみこと」は死んだ妻「いざなみのみこと」を追って、根の堅州国(ねのかたすくに)に行くのですが、変わりはてた妻の姿に逃げ出します。この時に逃げた道が黄泉比良坂で出雲にあると言われています。一説には、根の国は熊野にあったという説もあります。
熊野は神武東征の土地でもあり、古代から聖地ですね。最近はサッカーの聖地にもなっていますが。写真は熊野灘に面する獅子岩です。

ひらおか薪能

ひらおか薪能
「ひらおか薪能」を見に枚岡神社へ。奥さんと毎年行っています。
諸説ありますが能を作り上げた観阿弥は伊賀の人で、お母さんが河内玉櫛荘(東大阪市)出身。大和猿楽の一座に所属していました。実は楠木正成の姉か妹だと言われていますので、そうなると観阿弥は正成の甥になります。そんな謂れもあり、河内一ノ宮である枚岡神社で薪能が行われ、今年で第23回目。
狂言と能が行われますが能は「鵺(ヌエ)」。源三位頼政の鵺退治をテーマにしています。近衛天皇の時代に、大極殿の屋根に夜ごと鵺(化物)があらわれ天皇は病気になってしまいます。そこで源頼政が呼ばれ、鵺は弓で射抜かれ、退治されました。その鵺が亡霊になって現れる話。
昨年の「ひらおか薪能」が「頼政」。鵺退治した源頼政が平家に敗れ、平等院の庭に扇を敷いて自害したのがテーマになっています。もちろん亡霊として現れるのは源頼政。2年続けて、源頼政がテーマでした。(笑)
源頼政が自害した場所は「扇の芝」と呼ばれ、平等院を入ったすぐ左手にあります。「扇の芝」の案内板もあるんですが、何もない広場ですから、そんな所へ行く観光客はまずいません。歴史好きか能好きだけでしょうね。

増田氏城(伊賀)

増田氏城
上野市民病院がある丘の南端に増田氏城があります。民家の横を通って、少し登ると城の入口。写真は増田氏城の主郭から狭間城・北の城・城山城方面を見たところで、向こうに見える丘の端にあります。狭間城・北の城・城山城の後に増田氏城へも行ってきました。
増田氏城は、西郭、副郭、主郭、東郭からなっており、めちゃくちゃ大きなお城。郭を大きな土塁が巡っていて高さは10mもあり、なかなかの迫力があります。城の中の竹藪だらけで、さすがにスーツ姿では土塁にあがるのがやっと。郭の中に入るのはあきらめて土塁の上をずっとめぐっておりました。一角に墓があり、城を作ったと言われる増田氏の墓碑が見えます。詳細は不明で、これだけ大きな城を土豪一人で作れるわけもなく、伊賀の土豪が協力体制で作ったのでしょう。
伊賀天正の乱では伊賀軍が増田氏城にたてこもり信長軍との戦いになったようです。後で調べると、すぐ近くに中森氏城という小さな城があり、こっちは見逃してしまいました。機会を作って、また行かなければ。

うまし うるわし 奈良(新薬師寺)

新薬師寺
明日は雨になりそうですので、今日のうちに奈良へ。
山を越えたら生駒ですので、奈良までは30分ぐらいで着きます。猿沢の池から頭塔横を通って新薬師寺へ。十二神将と萩で有名ですが萩はまだはやかったですね。十二神将は奈良時代のもので全て国宝。十二支の守護神としても信仰されています。境内は暗く、天井からのライトとロウソクの炎で幻想的です。
奈良は秋の行楽シーズンに入ったためか修学旅行生などで一杯。興福寺の国宝館駐車場にも観光バスがずらっと並んでいました。国宝館には板彫十二神将立像があるんですが、展示のやり方が変わり、一直線にずらっとではなく三面に並べる展示に変わっていました。これから観光客がますます増えるシーズンですね。
三条通の中谷堂(高速餅つきで有名)前にはいつものように観光客が鈴なりになっていました。
→ うまし うるわし 奈良

近くなった熊野

さんま寿司
三重県産業支援センターの仕事で熊野へ。
まずは大阪から津へ出て、支援センターの車に乗せてもらって熊野へ。伊勢自動車道に乗って、勢和多気JCTから紀勢自動車道に入ります。2車線の高速道路ですが信号がないのではやいですね。
紀勢自動車道は紀伊長島まで開通していましたが、今年3月末に海山(尾鷲の手前)まで開通したので、尾鷲までずっと高速でいけるようになりました。尾鷲の街中は一般道ですが、街のはずれから熊野までも新しい道ができていますので実質的に津から熊野までほとんど高速でいけます。
以前は国道42号線しかなく、熊野古道にもなっている峠をいくつも超えなければなりませんでした。ですので津から車なら尾鷲まで3時間、熊野まで4時間ぐらい予想しないといけなかったのが、2時間強でいけるようになっています。もっともトンネルばっかりで、山の中を走るので、ほとんど景色は楽しめません。
写真は熊野市駅前にある喜楽で買ってきた「さんま寿司」。おいしくいただきました。

伊勢音頭恋寝刃

油屋
御園座の歌舞伎公演が10月に行われますが演目の一つが「伊勢音頭恋寝刃」。歌舞伎俳優が古市の資料館などを訪れたそうです。
伊勢神宮・外宮から内宮へ続く街道の途中に古市があり、昔は遊郭としてにぎわっていました。ここで起きたのが油屋騒動。油屋は古市にあった遊郭で、ここに遊女「お紺」がいました。かなりの売れっ子だったようで、宇治のお医者さんがお紺を座敷に呼んだのに他の部屋の客に呼ばれて行ってしまいます。
お医者さんは下男下女になだめられて帰ろうとしましたが、酒を飲んでいたこともあって刃物で次々に切りつけ死傷者を出す事件となってしまいます。お医者さんは逃げましたが、逃げ切れないと自刃して果てます。
伊勢へは全国から参拝客が来ていますので、あっという間に事件は全国に知られ、一目、お紺を見ようという客で油屋は大繁盛。事件を題材に歌舞伎が作られました。
油屋は現在の古市街道が近鉄線をまたぐ橋のたもとにあり、石碑が建っています。お紺は49歳で病死しましたが、事件を起こしたお医者さんと共に祀られ「比翼塚」になっています。お紺にとっては迷惑な話です。油屋騒動の舞台が行われる時は、出演者がお参りする風習があるそうで四谷怪談と同じですね。

名古屋のパワースポット高牟神社(たかむじんじゃ)

高牟神社
朝、津新町駅からいつもより早い電車に乗って、30分ほど早く名古屋に着きましたので途中下車してパワースポット巡りをしてきました。名古屋も古い土地で、邪馬台国説もある奈良の纏向遺跡には東海地域の土器が入り、尾張が古代から国造りに関わっていたことが分かっています。
地下鉄桜通線・車道駅のすぐ近くにあるのが物部神社。式内社ですから、そうとう古くからあります。祭神は物部氏の祖神である宇麻志麻遲命(うましまじのみこと)。境内に大きな石があり石神神社とも呼ばれています。
物部神社から400mほど行ったところにあるのが高牟神社。ここも式内社で、高牟とは鉾のこと。物部氏の武器庫があったようです。境内には延命長寿に霊験があるという名泉「古井の清水」があります。手水場がそうなんですが、朝からペットボトルに水をつめている人がいました。
最近では、この水を飲むと「恋が生まれる」とも言われているそうで、ほんまですかねえ。一帯は物部郷古井村と呼ばれ物部氏の拠点があったようです。湧水が豊富な土地だったようで、近くの吹上にはサッポロビール工場(今の浩養園)がありました。
高牟神社から吹上に向かって郡道を歩くと左右が坂になっていることがよく分かります。郡道は台地の尾根道になっていて伊勢神宮外宮から内宮へ向かう参宮街道ほどきつくはないですが建物がなければ遠くまで見渡せる一等地です。最後に吹上八幡社にお参りして名古屋市新事業支援センターに到着。

中古車のベストマイカー

ベストマイカー
名古屋市新事業支援センターのある吹上ホールの隣が吹上公園。小さな公園ですが、緑が多く都会のオアシスになっていて、朝夕によく通っています。
朝、吹上公園を歩くと鳥の声が聞こえますが、時たまカッコウの声まで聞こえ、癒されます。すごいなあ、こんな小さな公園にまでカッコウがいるんだと思っていたら、実は隣にある中古車のベストマイカーが流しているBGMの音。
夕方には洋楽がかかっていますが、最近、流れているのは高校野球のラジオ放送。どっちが勝っているのかよく分かります。
ベストマイカーですが、展示されている中古車には値札はついておらず、フロントガラスにペンキで金額やエアコンの有無、走行距離などが直接書かれています。「今から48年前の車」というのもありますが、10年前に見た時も同じ文句じゃなかったけ?
平日の朝、夕しか店の前を通らないので、日中は知らないのですが中古車を売買する人は来ているんですかねえ。買ったらあのペンキは店で落とすのかなあ。

三重県の百貨店事情

松菱
三重県産業支援センターへ行く時によく松菱の前を通っています。私が小さい頃からある百貨店です。三重県内には百貨店が3つしかなく近鉄百貨店が四日市駅前と名張(桔梗が丘駅前)に、津に松菱があるだけです。
近鉄百貨店・桔梗が丘は2012年に全てテナント貸しという業態になりましたので百貨店でなく、実質的に百貨店と呼べるものは2つだけ。昔は松阪駅前と伊勢市駅前に三交百貨店がありましたが明和ジャスコなど、ショッピングモールの登場などで百貨店は衰退し、なくなりました。三重県北部(北勢)では名古屋駅まですぐなので、駅前にある高島屋、名鉄百貨店、近鉄百貨店の3店舗にもお客さんをとられています。松阪の三交百貨店は、松阪駅の陸橋からそのまま店内に入れ便利でしたが2006年に閉店。
津の松菱は津の南北にサンバレー、サティという2つのショッピングモールができサンドウィッチのような形になった影響が大きかったようです。松菱は1店舗だけの運営で、もともとは大門にあった大門百貨店が前身。昭和38年に現在の岩田橋の横に移転、店舗を拡げてきましたが業績悪化から2003年に産業再生機構による支援を受け、再建されました。北海道物産展などが催しものがあるとかなり集客しているようですが、ふだんはそうでもなさそうです、と言うほど中には入らないのですが。四日市の近鉄百貨店は地下1階が全フロア、MARUZENなので四日市商工会議所へ行く時などによく寄っています。
津新町駅は昔、駅ビルになっていて近鉄東海ストアが入っていました。駅前に津東映があった時代で、よく「スガキヤ」のラーメンを食べに学校帰りなどに寄っていました。