唐津 二十日恵比寿

唐津 二十日恵比寿
大阪に住んでいると”えべっさん”は1月10日に行う十日戎と思い込んでいますが、1月20日に行う二十日恵比寿というものがあるんですね。
ちょうど1月20日に九州の唐津へ行っていて、曳山展示場で唐津くんちの山車を見て、外へ出ると目の前が唐津神社でした。平日の昼間にもかかわらず音楽が流れて、賑やかだったので境内に入ると、二十日恵比寿祭というのをやっていました。へ~え、十日戎じゃないんだあ!規模は小さくって、縁起物を笹を売っている所も一ケ所だけでした。唐津神社の二十日恵比寿はけっこう古く、天保年間に始まったそうです。180年ほど前ですね。これ幸いと唐津でも商売繁盛のお願いをしてきました。
調べると十日戎ではなく二十日恵比寿をやっている所は各地にあり、伊勢志摩サミット近くの志摩市浜島では「鼻かけえびす」像の前で、南方向の浜を向き、3回初笑いしながら商売繁盛を祈願するそうです。恵比寿さんの像はいつも鼻がかけているそうで、地元の人が持って行ってしまうのが理由。これはハナ(端を取る)ことが”先を制す”になるんだそうです。

覚王山 日泰寺

日泰寺
名古屋市市営地下鉄・覚王山駅の由来は日泰寺の山号からきています。覚王とは御釈迦さんをあらわします。
■御釈迦さんの本物の遺骨
寺院の塔は舎利をおさめるためのもので、薬師寺の東塔(国宝)の解体修理では江戸時代の舎利容器が見つかりました。本物の御釈迦さんの遺骨は無理なので、それに代わるものが納められていますが、日本で唯一、本物の御釈迦さんの遺骨があるのが日泰寺。
そもそもは明治になりイギリス人によって御釈迦さんの遺骨が入った舎利容器がインドで発掘されたことに起因します。古代文字を解読すると舎利容器が御釈迦さんのものと判明。この舎利が仏教国であるシャム国(現在のタイ)に、送られます。
一部が同じ仏教国であるセイロン、ビルマに分与されました。この話を聞いた日本からも申し出があり、遺骨が分与されて納められたのが日泰寺です。明治の終わり頃の話です。
■日泰寺境内から少し行ったところに安置
日泰寺は日本と泰(タイ)ということで命名されています。日本で唯一、いずれの宗派にも属さない寺院になっています。
日泰寺境内に塔がありますが、御釈迦さんの舎利はここではなく、少し行った、奉安塔にあります。境内にあるものばかりと思っていたので、先日、専門家派遣のついでに奉安塔へお参りに行ってきました。写真の奥にあります。

額田戎の福引で三等が当たる!

額田戎
朝からLEC梅田で経営情報システムの講義。
講義は16時前に終わり、地下街・ホワイティ梅田を歩いているとヨネヤの立ち飲みコーナーがこの時間には珍しく、お客さんが3人しかいない!これは入るしかないでしょう。(笑)
地下鉄に乗ると縁起物の笹を持っている人がチラホラ。今年はえべっさんが土日月の休みとドンピシャです。家へ帰って近くにある額田戎神社へ行ってきました。
ここは縁起物を買うと福引ができるのですが、独立以来、10何回、福引をやっても毎回、末等のティッシュだけ!それが今年は三等が当たりました!って、温泉旅行でも当たったのかなと思ったら、ダシとミリンのセットでした。

飛鳥苑

飛鳥苑
大晦日から正月にかけては津へ帰省。三重県産業支援センターへは実家から行っているので、あんまり新鮮味がないですねえ(笑)
2日、3日は奥さんの親戚が奈良の飛鳥苑(猿沢の池のすぐそば)に集まります。飛鳥苑の露店風呂は目の前に興福寺の五重塔が見えるのが値打ちですね。ちょうど夜明けにあわせて露店風呂に入ると、朝日をあびる五重塔を風呂から見ることができます。
写真は飛鳥苑のロビーにあった鹿の人形。

伊勢神宮の詰所も式年遷宮

伊勢神宮
伊勢の企業へ専門家派遣で行っておりました。
少し時間があったので外宮へお参り。式年遷宮が終わった後、少し人出が減ったかなと思ったら、今日はけっこうな人出。団体客が多かったですね。
中国語も聞こえていましたので、インバウンド客もけっこうきているようです。このまま伊勢志摩サミットまで集客が続くといいんですが。
正宮と多賀宮を巡ってきました。伊勢神宮の式年遷宮が終わったのですが、社殿だけでなく多賀宮へ登る階段のテスリ等も新しくなっています。そればかりでなく御垣 (みかき) を守る衛士の見張所も建て替えられるんですね。

本当は十条まであった平城京

羅生門
平城京の朱雀大路入口にあった羅城門跡です。
実際に羅城門があった場所は佐保川の堤防の下で、佐保川にかかる羅生門橋からは遠く大極殿を望むことができます。この羅城門の礎石の一部は大和郡山城の天守閣の石垣に転用されています。石材がなかったため、なんでも転用したんですね。
羅城門は九条通りにあったのですが、実は平城京は最初、十条通りまであったことが発掘で判明しています。藤原広嗣の乱があった後、聖武天皇は都を平城京から恭仁京へ、次に紫香楽宮や難波宮へ移します。5年後に平城京に戻っていますが、この時までに九条までとコンパクトになったようです。
平城京の前の藤原京が十条でしたので平城京も最初はあわせたんでしょうね。朱雀大路の東側では遺構が見つかりましたが反対側の西側で遺構が見つからず、考古学の疑問の一つになっています。

正倉院展 天平時代も大変だった

正倉院展
山城などを3つ巡ってから奈良国立博物館へ。第67回正倉院展です。
いつも通りオータムレイトチケットで入場。閉館の1時間30分前から発売される当日券で、夜に行くと待ち時間なしです。入口を入ったところに紫檀の琵琶があり、さすがに人だかりしていました。裏面はルイビトンのモノトーンにそっくりですね。
正倉院展の入口に正倉院特集の読売新聞がいつも置いてあるんですが、そこにも「バッグの柄によく似ている」と書かれていましたので、皆、同じことを感じるんですね。
いつも楽しみにしているのが古文書。大津大浦という人が書いた書状が納期をのばしてほしいという内容。解説によると前に納期を伸ばしてもらったけど、責任者が出張中で、その納期に間に合いそうもないという理由が書かれているようです。いつの時代も大変なんですね。
あと反古紙になった文章の上に手習いで七夕の詩が書かれていました。七夕といっても「笹の葉さらさら~」ではなくて五言律詩。漢詩を覚えるために天平人がひたすら練習したんですね。出世に響いたのかなあ。本当にいつの時代も大変です。

大阪府立貿易館

大阪府立貿易館
大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪や大阪商工会議所、シティプラザ大阪が建っている所は、江戸時代、西町奉行所でした。明治になって初代大阪府庁が置かれ、その後大阪博物場ができます。中之島図書館や天王寺動物園の前身となります。
大正時代、大阪府立商品陳列所が堂島にあったのですが、火災で焼けてしまいます。1917年(大正6年)に現在、マイドーム大阪などがある所に再建されました。1930年(昭和5年)に大阪府立貿易館という名前になります。事業の内容は貿易助長や産業貿易思想の涵養(講演会、映画会、図書館)、時代らしく対満貿易の助長もやっていました。分館が新京、奉天、上海、天津、青島、広州にあり職員は73名だったそうです。
戦時中は貿易関係業務が集約され、南方資源調査などに当たることから大阪南方院という名前となります。戦後、大阪府立貿易館が復活しましたが大阪府の機構改革に伴い、1987年(昭和62年)に廃止されます。
この大阪府立貿易館には大阪府立貿易専門学校もありました。それでマイドーム大阪の前に専門学校の碑が建っているんですね。

菅原神社 東御旅所

東御旅所
伊賀の企業巡りをしていました。
伊賀鉄道に乗ると車内に伊賀天神祭の吊広告がありました。今年の天神さんの日(25日)はちょうど日曜と重なるので金土日が伊賀天神祭になります。
菅原神社(伊賀天神)は松尾芭蕉が江戸に出る前に「貝おほひ」を執筆し、奉納した神社です。菅原神社の東西が昔の街道で、ずっと商店街が続いています。東の端にあるのが車坂商店街で、ここに東御旅所があります。
いつもは閉まっているんですが祭前に東御旅所に遷座が行われたようで、中に入ることができました。東御旅所の中には九社神社があるんですね。古くから上野村に祀られていた神社なんだそうです。この季節しか見られないのでラッキーでした。

枚岡祭り

枚岡祭り
四日市から東大阪へ戻ってきたら夜。まだまだ祭りの時間に間に合うので枚岡神社へ行ってきました。
さすがに平日の開催ですので、土日の開催に比べるとちょっとすいていて、人混みの中を歩くことができます。(土日開催ですと境内は御堂筋線のラッシュ並み)境内に入るとちょうど地元・宝箱(ほうそう)太鼓台の宮入をやっていました。
近隣の各町から大小合わせて23台以上の布団太鼓と1台のだんじりが出ます。太鼓台を担ぐときに「ちょうさじゃ」と掛け声をかけるのですが、これって600年前の狂言のなかにも祭囃子として出てくるとっても古い言葉なんですね。
太鼓台の重さは1~2トンあり、子供が2人~4人乗って太鼓を叩き、上には木にひっからないように2人が乗りますので、かなりの重さ。小太鼓で40人ほど、大太鼓になると70人ほどで担ぎます。
枚岡駅から額田駅まで線路沿いにずらっと屋台が並びます。ビール飲んでイカ焼き食べて極楽、極楽!