神戸でダイエーの看板がなくなる

ダイエー三宮店
朝、阪神三宮駅を降りて、ひょうご産業活性化センターに向かうと、いつもは閑散としているダイエーのバックヤードにトラックが一杯。しばらく前から地下の食品売場と地上3階までをリニューアル工事していましたが、終わったようで今日が再オープン初日でした。トラックは商品の運び入れのようです。
お昼休みに7階のジュンク堂へ行くついでに覗いてきましたがダイエーの看板が消えていました。イオン完全子会社化となりダイエーブランドの廃止が決まっていましたが、創業の地である神戸でも、ついにダイエーの看板がなくなったんですね。
1957年ですから私が生まれる前に神戸で創業したのがダイエー。最初は製薬事業でスタートしましたがすぐに撤退。同じ年に1号店である「主婦の店・大栄(ダイエー)薬局店」を大阪の千林商店街でスタートし、小売りをはじめます。三宮店ができたのが翌年の1958年で、これがチェーン化第1号店。ここからメーカーの圧力にも屈せずに価格破壊スーパーを展開し、大躍進をします。
現在のダイエー三宮店ができたのは1990年で、当初はプランタン神戸パート2という名前でした。阪神・淡路大震災も乗り越えてきたダイエーですが、ダイエーの看板がなくなると感慨深いものがありますね。ダイエーを完全子会社化したイオン(岡田屋)は創業の地である四日市駅前から早々と撤退してしまいました。

現在とは参拝ルートが違った内宮

御手洗場
伊勢へ専門家派遣に行っていましたので、久しぶりに内宮まで足をのばしました。
平日だというのに、すごい人ですね。おかげ横丁も一杯の人でした。内宮では五十鈴川の御手洗場で手を浄めるのですが、昨日の豪雨(台風15号)の影響で五十鈴川が増水しているため立入禁止になっていました。
内宮の参拝ルートと言えば宇治橋を渡って右に折れて、次に御手洗場で左に折れて正宮に向かうコースになっていますが、直線にはなっていません。どうも昔は違っていたようで、本来は御手洗場の対岸から、五十鈴川を歩いて渡って、これが禊(みそぎ)となり、そのまま、まっすぐ正宮に行くのが本来の参拝ルートだったようです。
御手洗場はもともと五十鈴川の水の神様を祭ったところで、滝祭神の祠が今もあります。さすがにこんな所までお参りにくる人は少ないですね。
滝祭神→風日祈宮→正宮→荒祭宮→子安神社→大山祇神社と巡ってきました。皆、内宮にあり産土神も祭っています。ついでに月讀宮も巡って、五十鈴川駅から帰ってきました。

阪神を応援する尼崎商店街

尼崎商店街
尼崎で専門家派遣のお仕事。阪神タイガースを応援する商店街として有名な尼崎商店街に寄ってきました。
セ・リーグが開幕した途端に、阪神タイガースのマジックが点灯する商店街でも有名です。今年はなぜか阪神が首位を走っているので、ひょっとすると優勝してしまうかも。
大学を出て、就職してしばらくたった1985年。この年は21年振りの優勝で、大阪中が盛り上がりました。道頓堀から飛び込んだり、あげくのはてにカーネル・サンダースの人形まで投げ入れてしまい、その後の阪神の低迷はカーネル・サンダースの呪いだと言われていました。
当時は上新庄に住んでいたんですが、毎夜、住宅街を六甲おろし演奏しながら歩く一団がいて、「かんべんしてくれ!こちらはシステム開発でろくに寝てないんだ!」と布団をかぶって、ひたすら耐えておりました。もっとも店主が阪神ファンの飲み屋へ行くと、21年振りの優勝ということで、ビールが21円だったので、この時だけは店で六甲おろしを歌いながら飲んでました。(笑)

河内寺廃寺跡

河内寺廃寺跡
自転車のパンクを直しに、瓢箪山商店街へ。結局、タイヤ交換になってしまったので交換時間の合間に河内寺廃寺跡を見てきました。
近鉄奈良線で瓢箪山駅を過ぎると生駒山の山麓を登りながら生駒へ向かいます。ちょど線路が生駒山にぶつかって大きくカーブする高台に河内寺廃寺跡があります。
先日、市政だよりを読んでいたら平成29年4月をめどに史跡公園として整備すると書いてありましたが、まだ礎石を掘り起こしたぐらいしか工事は進んでいませんでした。以前は単なる空地でしたが、さすがに「国史蹟 河内寺廃寺跡」という小さな看板がついていましたので、少しは知名度があがったでしょう。
■河内寺廃寺跡
7世紀中頃に創建された古代寺院跡。発掘調査の結果、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置の寺だったことが判明。河内寺廃寺は有力な渡来系氏族「河内直」により氏寺として建立され、のちに律令制度の発達とともに河内郡衙に付随した郡寺として発展していったと考えられています。

摂河泉(せっかせん)

摂河泉
大阪市営地下鉄?に乗っていると住之江ボートレースの吊広告があって摂河泉レースと書かれていました。
摂河泉!!
また古式ゆかしい名前をレースにつけましたなあ。でもそんな古い名前を知りながら舟券を買っている人がいるのかなあ。
現在の大阪府は、昔、3つの国から構成されていました。摂津、河内、和泉で摂河泉とはこの3つの国をまとめたもの。
摂津は大阪の住吉あたりから能勢あたりの北部まで、兵庫県の神戸、有馬、三田も摂津の国です。信長時代に摂津の国をおさめたのが荒木村重。
河内は大阪府東部で枚方から寝屋川、東大阪、河内長野や千早赤阪村などが含まれています。戦国時代は信長よりはやく天下をとった三好長慶が河内を支配していました。
和泉は大阪府の海側で堺から関空のある泉佐野市などを含み和歌山との県境までです。和泉は「いずみ」と呼び、もともとは泉でしたが、国名を二字にする法令ができた時に「和」をつけて「和泉(いずみ)」にしました。和は発音しません。
摂津・河内・和泉三国の国境は、堺市の三国山にあり、方違神社があります。三国ヶ丘の三国というのは摂河泉をさします。

津商業高校 甲子園出場

津商業高校
津のアチコチに貼ってあるのが「祝 津商業高校 甲子園出場」の文字。
津商業高校の三重大会での優勝は初めてではなく、1961(昭和36)年に優勝した経験があり、2回目です。ところが当時は三重県と岐阜県の2県で1校しか甲子園に行くことができず、三重大会のあとの三岐大会で県岐商に破れてしまいました。ですので甲子園出場は今回が初めて。
第一試合で強豪・智弁和歌山に勝ち、2回戦は14日(金)に鳥羽(京都)とあたることになりました。在校生は競技大会などに出ていない限り応援。50台以上のバスをしたてて甲子園を向かうそうです。バス1台のチャーター代が15万円ほどなので50台だと750万円!
在校生はもちろん無料ですが、父兄なども同乗でき確か9,000円ほど。これで往復バス代、弁当代、応援グッズなどがついてくるので、かなりお得です。ただし応援席は試合が終わったら5分で片付けて出ないといけないそうで大変です。違う競技で全国大会に出た部活の先生が、「こっちの応援はバス1台しか出なかったのに、えらい差や!」と言ったとか、言わないとか、地元だといろいろな話が入ってきます。(笑)
高校野球なんで応援席ではダメでしょうが、内野席でビールが飲めるのか議論になったんですが、ネットで調べるとビールもチュウハイも売りにくるそうです。炎天下の甲子園ですので、飲まなきゃやってられないでしょうね。

八尾飛行場の予備滑走路

八尾飛行場
日本一短い商店街・肥後橋商店街の近くにあるのが靭(うつぼ)公園。ここが終戦後にアメリカ軍が作った靱飛行場跡というのは有名な話です。
八尾飛行場は現在もありますが戦時中は大正飛行場と呼ばれていました。アメリカ軍による飛行場への攻撃が多くなったため近くに予備滑走路が作られたそうです。現在の府道八尾枚方線の一部がそうで、戦後は府道に転用されました。確かにまっすぐな道路が続いています。
戦後70周年特集を関西のテレビ局でやっていて紹介していました。予備滑走路が八尾にあったんですねえ。一時、八尾の高安に住んでいましたが、知りませんでした。
この滑走路跡の近くには大坂夏の陣・八尾・若江の戦いで、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と戦い敗れた木村重成の墓があります。徳川家康が木村重成の首実験をした時に、兜をとった髪から香の香りが漂ったことから戦いに挑む姿勢に感心し、ほめたたえます。

家康の本陣跡

徳川家康本陣跡
今年は大坂の陣から400年。今日の日経新聞の文化欄にも大坂の陣の話題が載っていました。
家から少し歩いた豊浦という所に児童公園があるのですが、東高野街道から少し登った、高台になっていて眺めがよい所です。今は無理ですが、400年前なら大坂城がよく見えていたでしょう。この公園にあったのが中村屋敷。中村家は佐々木源氏の一派で、もともとは近江にある鯰江(なまずえ)城にいました。鯰江城は「河岸段丘」を利用して築城された城でした。室町時代に豊浦村に移ったようです。
中村屋敷は冬の陣では家康が、夏の陣が秀忠が最初の本陣にしました。ここから大坂の陣がスタートしたんですね。
そういえば今日は八月一日、八朔の日です。
新しい穀物を収めて祝う行事が各地で行われ、祇園では挨拶まわりが行われます。徳川家康が江戸に正式入府したのが八朔の日です。江戸時代は神君・家康公が江戸入府した日として幕府の重要な式典の日になりました。

全国の渡辺さんの故郷

渡辺津
天神祭を見に行った時、天満橋近くの大川に渡辺津の碑が建っていました。おお!こんな碑が出来たんですね。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷です。
渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。時代がくだると渡辺津近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、信長との10年戦争に突入します。
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じたので坐摩神社は本町駅の南にある久太郎町に移転しました。この坐摩(いかすり)ですが、宮中に「座摩の巫」が祀られていて、都下(つげ)造氏の童女が祭祀をしたそうですので、ツゲですので古代朝鮮に関係していたようです。実際、渡辺津のあたりは旧新羅江とも呼ばれており、坐摩神社が移転した久太郎町は百済の当て字でしたので、渡辺党のほとんどはもともと渡来人のツゲ氏だったようです。

大阪締め(天神祭)

天神祭
大阪よろず支援拠点で窓口相談。
大阪よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますので、ちょっと歩くと中之島。中之島から少し行けば大阪天満宮です。窓口相談が終わってから天神祭を見に出かけてきました。天神祭の日に大阪にいることは珍しく久しぶりです。天満宮へ行くとちょうど宮入の最中で、大阪締め(おおさかじめ)が行われていました。
大阪締めとは大阪を中心に行われている手締めで、物事が無事に終わったことを祝い関係者が掛け声とともに打つ手拍子。
【大阪締め】
「打ちましょ」でチョンチョンと2回手を打ちます
「もひとつせ~」でチョンチョン、
最後に「祝うて三度」でチョチョンがチョンと打って締めます
大阪では天神祭以外でも証券取引所などでもこの大阪締めが行われます。大阪中小企業診断士会の交流会でも締めは必ず大阪締めです。なかなか風情があっていいですよ。