
昨夜は桑名商工会議所の会員交流会。
第1部で10社のPRがあり、PRが終わってからのコメントを頼まれていたので出席しました。コメンテーターは4名でしたが、うち1名は自身もPRするという面白い構成になっていました。さすがに自分でPRして、コメントするわけにはいきませんので、そのコメントはこちらにまわってきました。
なかなか華やかなイベントで、ウチも東大阪商工会議所会員なんですが、こんな交流会をやってくれないかなあ。第2部は会場後ろに20社ほどの展示ブースが設けられていて、展示ブースの見学会。
第3部は交流会ですが、乾杯前に、津軽三味線の生演奏。杉山大裕という23歳の奏者で、なかなかのイケメン。競技会でも優勝しており、優勝した曲の演奏もありました。桑名のユルキャラ「ゆめはまちゃん」によるPPAPもありました。
さすがに桑名から帰る間に、酔いはすっかり醒めてしまいます。
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一番長命な大阪城天守閣

大阪府よろず支援拠点の帰りは森ノ宮駅まで歩いています。なんてたってライトアップされた大阪城が見えるのが一番!写真は徳川時代から残った一番櫓です。
豊臣時代の大坂城は土の下に埋没していますが天守閣は1583年頃から造られはじめ、大坂夏の陣で燃えてしまいましたので、建っていたのは32年ほどです。
秀忠によって造られた徳川時代の大坂城は現代の大阪城ですが、1629年に完成し、天守閣は落雷によって1665年に焼失してしまいます。ですので天守閣が建っていたのは36年ほど。
現在の天守閣は昭和6年(1931年)に建てられて、現在まで続いていますので86年になります。つまり豊臣大坂城、徳川大坂城よりも一番長命な天守閣となります。
土田御前のお墓(四天王寺)

”津に信長のお母さんの墓があるの”という声があったので、三重県産業支援センターすぐ横の四天王寺に行ってきました。津藩・藤堂家の菩提寺です。ここに土田御前(信長のお母さん)の墓があります。土田御前の子供は信長、信行、秀孝、信包、市、犬といわれています。
織田信行は信秀からつけられた家老・林秀貞、柴田勝家と共に信長に反逆し、土田御前のとりなしで許しをえましたが、再度の反逆で信長に討たれました。本能寺の変のあとは孫になる織田信雄のもとにいましたが、この時は清州城にいたのでしょう。やがて、織田信雄と徳川家康が組んで小牧・長久手の戦いが起き、織田信雄は秀吉と和睦。小田原攻めの後に家康が関東に移され、空いた三河・遠江に尾張から移るようにいわれたのを拒否。これで改易されてしまいました。
居場所がなくなった土田御前はこの時に信長の弟である信包(三十郎)のところへやってきたのでしょう。信包は織田信長の伊勢攻めで中勢地域の名家・長野工藤家に養子にはいることで乗っ取った人物で、当時は津城にいました。土田御前は津で亡くなり、四天王寺に墓ができることになります。
商売繁盛で笹もってこい!
三重銀行と第三銀行との統合

マイドーム大阪にある大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
さっそく隣の大阪商工会議所にある若宮商工稲荷神社へ初詣。もともとは大阪商工会議所初代会頭である五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」が祖の一つになっています。大阪の商工業者にとってはありがたい神社です。
さて三重県関係者にとってニュースが飛び込んできました。三重県の地銀といえば百五銀行、三重銀行、第三銀行の三行がありますが、まあ百五銀行は規模などで別格です。
去年、第三銀行の知り合いに、”そのうち三重銀行とくっつかないといけなくなるかも”と冗談で言っていたんですがあ、”ありゃまあ!”本当に統合するんですねえ。
第三銀行は松阪本店から東紀州(熊野や和歌山)、大阪(ウチの近くの東大阪にも店舗があります)にかけて店舗があり、三重銀行は四日市本店で北勢に店舗があるので、重なり合うところも中勢が中心でうまく調整できれば統合するメリットは確かにあります。二行と取引している中小企業にとっては取引銀行が一つ減るので、銀行対策が必要です。
オシャレな茶屋町

昨日は大阪府よろず支援拠点の出張相談で茶屋町にある銀行さんへ行っておりました。
茶屋町は阪急梅田駅の東北方面にあり、オシャレな一角です。もともとは、大阪から池田へ向かう池田街道筋にいくつかのお茶屋があったところから知名となりました。明治時代には9階建ての凌雲閣が建てられ、今のハルカスのように賑わいます。ミナミには眺望閣があり、”南の5階”に対して”北の9階”と呼ばれていました。
茶屋町って、昔は特になにもなかったのですが、今は梅田ロフト、茶屋町アプローズなどができ、オシャレな街に変貌しています。毎日放送(MBS)が茶屋町アプローズの横にあり、関西では月~金に午後2時から6時まで「ちちんぷいぷい」というゆるい番組をやっており、時たま見ております。
茶屋町はオシャレな街なので、何の用事もないのですが、一角にMARUZEN&ジュンク堂書店があり、7階建の大型書店で珍しい本まで置いてあるので、ここだけは行っています。帰りは阪急古書の街にも寄れますので本好きには最適ですね。紀伊國屋書店はいつも混雑しているので、最近は行っていないなあ。
家康の墓がある南宗寺(堺)

大河ドラマ「真田丸」、塙団右衛門、木村重成、後藤又兵衛が討死してしまいました。いよいよ最終回は家康本陣への突入です。
堺に南宗寺(なんしゅうじ)という古刹があります。信長よりも前に天下統一をはたした三好長慶が父の菩提をともらうために建立しました。三好長慶の父は三好元長で、細川晴元の重臣でした。ところが元長の力を恐れた細川晴元らが扇動した一向一揆によって殺されてしまいます。三好一族ゆかりの南宗寺は大坂夏の陣で焼失しましたが、現在地に移転して再建されます。
■家康の墓がある南宗寺
南宗寺には有名な家康の墓があります。なんでも大坂夏の陣でカゴで逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれ、堺まで落ち延びたが、カゴを開けると家康は死んでおり、遺骸を南宗寺に隠したという伝説です。後藤又兵衛は道明寺の合戦で死んでいますので、与太話にちかいのですが、ひょっとするとカゴに乗った家康の影武者が真田軍に殺された可能性があります。
本能寺の変の後、家康が伊賀を命からがら逃避行(神君伊賀越え)しますが、いろいろなルートの話が現地に残っており、敵を攪乱するために家康に見せかけるため地蔵をカゴに乗せて運んだ話が残っています。真田から逃げる時もこの手を使ったかもしれません。
黒門市場で忘年会

恒例のファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。今年も日本橋・黒門市場の寿司・寿恵廣です。研究会といいながら最近は研究も何もせず九度山へ行ったり、いきなり酒を飲んだりという会になっています。
黒門市場といえば大阪の台所で昔はおせちの材料やカニ、フグなどを売っていましたが、今はインバウンドですね。カニやフグも店頭で焼いて、すぐ食べられる形になっています。大トロのパックを5,000円ぐらいで売っていて、皆さん買って食べていて、なんともうらやましい。聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語で時たま日本語の会話があります。
さて13時に寿恵廣に集合。5年ほど見なかった古いメンバーも集合して、8名で宴会。ブリしゃぶかあ始まって、結局は17時まで延々と食べて飲んでおりました。おいしかった!
額田、喜里川は松平容保の知行地だった!

我が家の隣町が額田と喜里川で、枚岡神社の秋郷祭ではそれぞれ町から太鼓台が出ます。
先日、額田の歴史を調べていたら豊臣時代は長束次郎兵衛が奉行としておさめていて、徳川時代は代官でしたが、幕末の慶応2年に松平容保の知行地になっていました。
松平容保!!
って、あの会津藩の松平容保!
そうです、新撰組の生みの親の松平容保です。
幕末の京都は勤王浪士のテロで治安は最悪でしたので、会津藩主・松平容保が京都守護職に任じられます。しかし京都を守るためには金が要ります、そこでその賄いの知行地として喜里川村と額田村があてられました。
しかも、金だけでなく会津藩の人足が各村に割り当てられたので、それぞれの村から、費用村持ちで、京都に詰めなければならなくなったそうです。東大阪の我が家の一角も幕末の動乱に巻き込まれていたんですねえ。
蛤御門

昨日、京都まで行ったので久しぶりに蛤御門を見てきました。地下鉄・丸太町駅を上がると、すぐ御所ですので、少し歩いたところに蛤御門があります。
幕末に禁門の変(蛤御門の変)が起きたところです。政変で京都を追放された長州藩が、御所の会津藩、薩摩藩を攻めた事件ですが、結局、長州は負けてしまい、朝敵となってしまいます。松下村塾の久坂玄瑞、寺島忠三郎は鷹司邸で自害。入江九一は鷹司邸を出たところで討ち取られます。大河ドラマ「花燃ゆ」では東出昌大が久坂玄瑞、鈴木伸之が寺島忠三郎、要潤が入江九一役でした。
蛤御門の周辺が長州との激戦地となり、門柱には弾痕が残っています。結局、京都市街も焼けてしまい、”どんどん焼け”と呼ばれています。京都人が”先の戦”というと太平洋戦争ではなく、蛤御門の変と答える逸話が生まれることになります。
主戦派だった真木和泉は敗残兵と共に天王山で戦いましたが敗退し、自害します。JR山崎駅から秀吉が造った山崎城へ登る途中に「十七烈士の墓」があります。
