
平城京の朱雀大路入口にあった羅城門跡です。
実際に羅城門があった場所は佐保川の堤防の下で、佐保川にかかる羅生門橋からは遠く大極殿を望むことができます。この羅城門の礎石の一部は大和郡山城の天守閣の石垣に転用されています。石材がなかったため、なんでも転用したんですね。
羅城門は九条通りにあったのですが、実は平城京は最初、十条通りまであったことが発掘で判明しています。藤原広嗣の乱があった後、聖武天皇は都を平城京から恭仁京へ、次に紫香楽宮や難波宮へ移します。5年後に平城京に戻っていますが、この時までに九条までとコンパクトになったようです。
平城京の前の藤原京が十条でしたので平城京も最初はあわせたんでしょうね。朱雀大路の東側では遺構が見つかりましたが反対側の西側で遺構が見つからず、考古学の疑問の一つになっています。
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正倉院展 天平時代も大変だった

山城などを3つ巡ってから奈良国立博物館へ。第67回正倉院展です。
いつも通りオータムレイトチケットで入場。閉館の1時間30分前から発売される当日券で、夜に行くと待ち時間なしです。入口を入ったところに紫檀の琵琶があり、さすがに人だかりしていました。裏面はルイビトンのモノトーンにそっくりですね。
正倉院展の入口に正倉院特集の読売新聞がいつも置いてあるんですが、そこにも「バッグの柄によく似ている」と書かれていましたので、皆、同じことを感じるんですね。
いつも楽しみにしているのが古文書。大津大浦という人が書いた書状が納期をのばしてほしいという内容。解説によると前に納期を伸ばしてもらったけど、責任者が出張中で、その納期に間に合いそうもないという理由が書かれているようです。いつの時代も大変なんですね。
あと反古紙になった文章の上に手習いで七夕の詩が書かれていました。七夕といっても「笹の葉さらさら~」ではなくて五言律詩。漢詩を覚えるために天平人がひたすら練習したんですね。出世に響いたのかなあ。本当にいつの時代も大変です。
大阪府立貿易館

大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪や大阪商工会議所、シティプラザ大阪が建っている所は、江戸時代、西町奉行所でした。明治になって初代大阪府庁が置かれ、その後大阪博物場ができます。中之島図書館や天王寺動物園の前身となります。
大正時代、大阪府立商品陳列所が堂島にあったのですが、火災で焼けてしまいます。1917年(大正6年)に現在、マイドーム大阪などがある所に再建されました。1930年(昭和5年)に大阪府立貿易館という名前になります。事業の内容は貿易助長や産業貿易思想の涵養(講演会、映画会、図書館)、時代らしく対満貿易の助長もやっていました。分館が新京、奉天、上海、天津、青島、広州にあり職員は73名だったそうです。
戦時中は貿易関係業務が集約され、南方資源調査などに当たることから大阪南方院という名前となります。戦後、大阪府立貿易館が復活しましたが大阪府の機構改革に伴い、1987年(昭和62年)に廃止されます。
この大阪府立貿易館には大阪府立貿易専門学校もありました。それでマイドーム大阪の前に専門学校の碑が建っているんですね。
菅原神社 東御旅所
枚岡祭り

四日市から東大阪へ戻ってきたら夜。まだまだ祭りの時間に間に合うので枚岡神社へ行ってきました。
さすがに平日の開催ですので、土日の開催に比べるとちょっとすいていて、人混みの中を歩くことができます。(土日開催ですと境内は御堂筋線のラッシュ並み)境内に入るとちょうど地元・宝箱(ほうそう)太鼓台の宮入をやっていました。
近隣の各町から大小合わせて23台以上の布団太鼓と1台のだんじりが出ます。太鼓台を担ぐときに「ちょうさじゃ」と掛け声をかけるのですが、これって600年前の狂言のなかにも祭囃子として出てくるとっても古い言葉なんですね。
太鼓台の重さは1~2トンあり、子供が2人~4人乗って太鼓を叩き、上には木にひっからないように2人が乗りますので、かなりの重さ。小太鼓で40人ほど、大太鼓になると70人ほどで担ぎます。
枚岡駅から額田駅まで線路沿いにずらっと屋台が並びます。ビール飲んでイカ焼き食べて極楽、極楽!
扇の芝

天気がよかったので奥さんと宇治の平等院へ。
平等院の入口にあるのが有名な扇の芝。鵺(ぬえ)退治で有名な源三位頼政が自害した場所です。以仁王の平家打倒の綸旨をうけて挙兵した源頼政。平等院に籠って戦いましたが平氏に宇治川を突破され多勢に無勢で自害します。
能「頼政」では、宇治に立ち寄った僧を呼び止め、頼政の幽霊があらわれ回向を頼んで、扇の芝の草蔭に消えていきます。能では、よく「扇の芝」という言葉が出てきますが、その場所が何の変哲もないココ。ただし観光客のほとんどはまっすぐ平等院鳳凰堂を目指して、誰もいません。
平等院は修復工事をしていますが、創建当時からある扉絵「日想観図」の復元扉が博物館に展示されていました。12月6日まで公開され、その後はお堂に取り付けられるそうで、間近で目にすることができるのは今だけ。ラッキーでした。
10月14日、15日 枚岡まつり

近所では2週間ほど前から夜になると太鼓の音が町中に響いています。今日のような休日は朝から太鼓の音。枚岡まつり(秋郷祭)が近づいているので子供たちによる太鼓の練習です。
枚岡まつりは京都の祇園祭のように曜日固定で毎年、10月14日、15日に開催され、今年は水曜、木曜なんで残念ながら見られないなあ。
近くにある石切神社の秋季大祭は10月24日、25日で、毎年、日をずらして土日開催です。枚岡神社は河内一ノ宮なんで伝統なんでしょうね。
枚岡神社の各町から23台の太鼓台が出て宮入りします。江戸時代までは、だんじり(地車)が中心でしたが、枚岡神社までの坂がきついので明治時代に安全上の理由から布団太鼓に切り替わっていったようです。
この界隈の会社は皆さん太鼓をかつぐので、実質的に休業になります(笑)。
ラバーダック
ラバーダックが今年も中之島に登場しています。ラバードッグとはオランダの芸術家が制作したアヒルで、なかなか愛嬌がある顔をしています。
9月から中之島(バラ園)にいたんですが、展示のラストは10月12日(月/祝)。あいかわらず、でかいアヒルです。最初に見た時は「すごく、でかいな~あ」という印象でしたが、何回も見ているとけっこう大きさに慣れ、「あいかわらず、でかいな~あ」になっています。
時の鐘

大阪府よろず支援拠点が入っているマイドーム大阪の近くに釣鐘町があり、「時の鐘」があります。
そもそもは大坂の陣で燃えてしまった町を復興するために徳川家光が大坂三郷の地子銀(固定資産税)の永代免除を決定しました。大坂三郷とは北組、南組、天満組から構成された街で大坂の町人が住む町でした。各組では惣年寄が選出され運営にあたっていました。当時の地子銀は1年間で178貫934匁ですので現在の価値では1億9600万円ほど。
三郷の総年寄は評議して、恩恵を忘れないよう鐘を造り、時刻を伝えることにしました。これが1634年に作られた大坂町中時報鐘「時の鐘」です。釣鐘は釣鐘屋敷に設置され、江戸時代、4回の火事にあいますが鐘は無事でした。
近松門左衛門の曽根崎心中にはお初と徳兵衛が曽根崎の露天神の森へ向かう途中、この「時の鐘」が鳴り、「あれ数うれば暁の七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の 鐘の響きの聞納め 寂滅為楽と響くなり」と出てきます。
明治となり、「時の鐘」は廃止になります。鐘楼は撤去されて、釣鐘は近くの長光寺に預けられます。時報は大阪城内から打ち出す号砲となり、「お城のドン」と呼ばれました。1985年に釣鐘屋敷跡に里帰りすることになり、また釣鐘町へ戻ってきました。
紀伊長島へ

三重県産業支援センターのお仕事で紀伊長島の企業へ相談に行っておりました。
紀伊長島は東紀州の玄関口で、多気からずっと山間の道を行くと、ようやく山の上から熊野灘が見え、降りると紀伊長島。昔は国道42号線をひたすら行かないといけないんですが、紀勢自動車道ができて近くなりました。津からですと1時間です。
支援センターの車に乗せていってもらったのですが、お昼は新しくできた始神テラス。始神は「はじかみ」とよみ、熊野古道・始神峠から名づけられています。始神テラスはパーキングエリアなんですが、食堂がけっこう凝っていて地域の食材、名物を使用した料理が並んでいました。
「紀州岩清水豚のトンカツ」にもそそられたのですが、やっぱり魚だろうとキホクニヤ丼(海鮮丼)を注文。丼に乗る魚はいろいろ変わるそうです。紀伊長島と言えばマンボウが有名ですが、さすがにマンボウはのってませんでした。町の食堂へ行けばマンボウの刺身などが食べられます。
帰りは「めはり寿司」と「さんま寿司」を買って、大阪まで戻ってきました。
