物部神社(名古屋)

>物部神社
今日は名古屋市中小企業振興公社で長年、常務を勤められた方の送別会があったので参加してきました。
開始まで時間があったので、まずは千種にある高牟神社へ。ここは尾張物部氏の拠点があったところ。またすぐ近くぬ物部神社があります。そのまま名古屋駅前に移動して送別会に参加。今から大阪へ戻ります。木曜の近鉄特急はさすがにすいています。

三宮の地名の由来となった三宮神社

三宮神社
神戸の中心と言えば三宮ですが、三宮という地名は三宮神社からとられました。航海の安全と商工業の繁栄を守る神さんです。
三宮センター街のすぐ近く、古い建物が多い旧l居留地にあり、目の前はトアロード神戸です。旧居留地にあった三宮神社の前で起きたのが神戸事件。慶応4年ですので明治に改元される年です。西宮の警護に大砲をひいて向かう備前藩の行列の前をフランス人水兵2人が横切ったことから、フランス兵に軽傷をおわせてしまいます。生麦事件と同じ構図です。
交渉となり列強ともめにもめましたが、備前藩関係者の切腹で決着しました。朝廷は徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、あわてて明治新政府への政権移譲を表明。神戸事件は明治新政府となり初めての外交事件となりました。
三宮神社の境内には当時のものと同型の大砲が置かれています。

日本一低い天保山を登頂

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    夕方から大阪港にあるホテルシーガルてんぽーざん大阪で大阪府中小企業診断協会の総会でしたので、その前に天保山を登頂してきました。 

    登頂といっても標高4.53メートルですので知らない間に登頂しています。近くに大阪湾が見れる見晴台があるのですが、こっちの方がよっぽど高いです。日本一低い山だったのですが仙台市にある日和山(標高3m)に今年抜かれて、2番目に低い山になっています。 

    ちゃんと山岳会があり、登頂証明書を発行しています。山岳救助隊もあるんですが設立以来、救助要請はないそうです。(笑) 

    さて大阪府中小企業診断協会の総会ですが、会員891名に対して91名が参加。もっとも総会後の懇親会には100名以上が参加していました。ラストは一本締めではなく、大阪らしく大阪締めで終わりました。

奈良へ

nara20140510.jpg奈良へ。

近鉄で西大寺駅を過ぎると平城京跡が見え、復元された大極殿、朱雀門、遣隋使船が車窓から見えます。東院庭園の真向かいにはイトーヨーカドーが見えますが、昔は奈良そごうの建物でした。豪華絢爛な隠し会長室があったことで有名です。

平城京時代から一等地で、当時は長屋王の邸宅跡。ですので「そごう」が破綻した時には長屋王の呪いだと、まことしやかに噂が流れました。

近鉄奈良駅で古くからの診断士仲間と合流し、駅から徒歩すぐの野菜ダイニング「菜宴」で昼食。日替わりがなかなかよかったですね。夕方から仕事が入っていたので途中で抜けて、大阪へ戻ってきました。

ナナちゃん人形

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    名古屋の待ち合わせ場所として有名なのがナナちゃん人形。けっこう古く1973年(昭和48年)、名鉄セブン館の1周年を記念して設置されました。もう41年も立っていることになります。 

    立っている場所はJR名古屋駅を出て東京側を少し行った名鉄ヤング館の前。ちょっと行くと笹島交差点で、昔の名古屋駅があった所。映画「風立ちぬ」でカブトビールの看板が出ていた駅のあった場所です。 

    季節によって様々な服や水着に着替えることで有名で、今日のいでたちは名鉄百貨店のロゴの入った服をまとい屋上ビアガーデンの宣伝をしていました。もうビアガーデンの時期なんですねえ。

不思議な西枇杷島駅

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新幹線で新大阪から名古屋へ向かうと、名古屋駅の手前で変わった駅が左手に見えます。駅の名前は名鉄・西枇杷島駅。変なホームが一瞬だけ見れます。
2つの島式ホームがで、4線あるんですがホームは直角ではなく湾曲した変な形。屋根も階段もなく殺風景なホームで端はかなり狭くなっています。ホームの長さもあまりなく4両編成で目いっぱい。時たま6両編成の電車が止まっていますがホームからはみ出しています。調べると6両編成以上の列車が停車する場合はドアカットしているそうです。
皆、不思議に思うようで、実際に西枇杷島駅を訪れた人のレポートがいくつかネットに上がっていました。各駅停車しか止まらず名古屋駅から3つ目の駅なんですが30分に1本しか止まらないローカル駅です。おまけにホームが狭いため電車が来る前に係員がホームに誘導するシステムになっています。名古屋駅から3つ目と言えば都会なのに変な駅ですねえ。しかも先は2つの路線に分かれていてデルタ線になっています。
名鉄・名古屋駅は日本一、乗車するのが難しい駅だし、名鉄には変わった駅が多いんですね。

千本松原 木曽三川

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    小さい頃、読んだ絵本に「千本松原」があります。薩摩藩が苦労しながら木曽三川の治水工事にあたった物語。木曽三川が集まった地域は水害の多い所で、そこで川を分ける工事が行われます。幕府に命じられたのが薩摩藩。堤防が作られ、堤防には松が植えられました。これが千本松原です。 

    多額の費用がかかった難工事で、薩摩藩士の多くが怪我や病死。また藩に迷惑をかけたと家老などが切腹しています。工事に関わり命を落とした薩摩義士は桑名の海蔵寺などに埋葬されています。 

    新幹線で木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)を通過する時は、川と川の間隔は空いていますが、下流の近鉄名古屋線やJR紀勢本線あたりでは、かなり狭まります。特に長良川と揖斐川はほとんどひっついていて、川の間は道路が走っているだけ。この堤防の一部が薩摩藩士が作った千本松原です。 

    何気なく見ると、川の中を車が走っているなかなか他では見られない風景を見れます。この道路もすぐ下流でなくなり、長良川と揖斐川が合流し、さらに木曽川が合流して伊勢湾に流れています。 

東京ビッグサイト

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    東京ビッグサイトへ行くのは新橋から「ゆりかもめ」が定番ですが、東京駅からバスが出ていたので、これに乗ったんが失敗。ホームページには15分とありましたが、いろいろなバス亭に各駅停車するので結局、40分ぐらいかかってしまいました。ようやく東京ビッグサイトに到着。 

    さて東京ビッグサイトの展示会に入るのは実は初めて。大きいですねえ。今日は燃料電池展を見に行ったのですが、他にも太陽電池展やスマートグリッド展など8つの展示会が併設されていましたが、一つの展示会で受付したら、他の展示会は全てフリーパス。展示会ごとの入場者カウントなど、どうやって処理しているんでしょうねえ。 

    インテックス大阪でも併設して展示会が開催されますが、それぞれで受付しなければならず面倒。なかなかよいやり方です。それにしても出展社も多かったですが来場者もすごい人。インテックス大阪やポートメッセ(名古屋)の閑散としている光景とは全然、違いました。 

    さて帰りはバスじゃなく「ゆりかもめ」にしようと歩いていたら水上バスの文字を発見。1時間に1本、日の出桟橋と結んでいます。時刻表を見たらちょうど10分先に出るところだったので、水上バスに乗り込みレインボブリッジを横に見ながら日の出桟橋へ。ちょっと歩いたら浜松町駅でした。

今池 地名の由来(名古屋)

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    今朝、ちょっと早く名古屋駅に着いたので地下鉄・桜通線で吹上の2つ手前にある車道駅で下車。地下鉄のすぐ近くをJR中央本線が走っていて千種駅があります。この千種駅から少し行ったところにあるのが高牟(たかむ)神社。 

    ■高牟神社 
    延喜式にも記載されている古い神社で、もともとは尾張物部氏の武器(牟は鉾のこと)を納めた倉があり、そこから高牟神社となりました。境内には「延命長寿」や「恋が生まれる」という名泉「古井の清水」があります。高牟神社のあるあたりは古井町と呼ばれていました。 

    この高牟神社前からゼロ戦を運んだ、郡道が走っていて今日は郡道を歩きながら吹上に出ようと思ったら1本、道を間違っていました。あとで古地図をみたら郡道は1本道なんですが、けっこう曲がっていて、現在は住宅地に変わってしまったため、行ったり来たりしないと郡道に出られないようになっていました。 

    ■今池 名前の由来 
    郡道と飯田街道が交差する近くにあるのが古井ノ坂(こいのさか)。このあたりも高牟神社と同様に豊富に湧き出る土地で、地下水脈は同じようです。この水があったのでサッポロビール名古屋工場ができました。現在はイオン千種になり、敷地の一部は名古屋ビール園・浩養園(こうようえん)になっていて名古屋市新事業支援センターの宴会でよく使っています。 

    郡道のすぐ近くに馬池という農業用のため池がありました。郡道を通る馬に水浴びさせるところから馬池と名づけられました。吹上の一つ先が今池ですが、今池の地名はこの馬池からきています。現在は埋め立てられ今池中学校になっています。

尾頭塚(金山)

otouduka201402.jpg金山・尾張元興寺跡のすぐ近くにあるのが尾頭塚。 

鎮西八郎と呼ばれた源為朝の墓なんだそうです。源為朝は保元の乱では崇徳上皇方に属して戦いましたが敗れ、伊豆大島へ流されます。ところが伊豆大島で暴れて、島を事実上支配したので、追討を受け自害しました。 

為朝には義経と一緒で英雄生存説があり、伊豆大島を脱出して琉球に渡り、琉球王になったという小説が滝沢馬琴の「椿説弓張月」。小説のもとになったのが琉球王国の正史「中山世鑑」でここに書かれていたのをネタにしたようです。この小説に熱田大宮司の藤原季範(為朝の親族)に船で会い、熱田の地に来ることを勧められます。誘いは断りましたが、子供を季範に託す話が出ています。 

どうも金山駅近くの古渡の地は源氏との関わりが昔から深かったようです。実際、大島、大矢、磯部という姓の住人が多く、これらの名前は為朝の一番信頼の置ける従者の名前でした。 

そういえば熱田神宮の前で源頼朝が生まれましたが、これはお母さんが季範の娘だったことからです。源氏との深い結びつきから為朝塚が作られたのでしょう。尾張元興寺も為朝の子である尾頭義次によって再興されました。尾頭橋などの名前はこの義次が由来になっています。