昨日は野村萬斎主演の映画「陰陽師」をやっていました。舞台はもちろん平安京。
平安京を作る時に考えられたのが都を守る四神「玄武(山)・朱雀(池沼)・青龍(川)・白虎(大道)」です。従来から玄武は船岡山、青龍が鴨川、白虎は山陽道、朱雀は巨椋池と言われています。ちょうど歴史地理学の本を読んでいると、この四神について面白いことが書いてありました。
朱雀(船岡山)からまっすぐ内裏を通って朱雀大路が通っていますが、ここから等間隔で西堀川と東堀川があります。この西堀川と東堀川の間隔をそのまま東に伸ばすと鴨川になります。地図や等高線を調べると、どうも西側の等距離にも道と川があったことが判明。
これが木嶋大路で一番北に蚕ノ社があります。現在、この道はありませんが大路と御室川が流れていたようです。それぞれの間隔がちょうど588丈。1丈は今の約3メートルです。当時1里は180丈でした。これを10倍すると1800丈。
船岡山
内裏
木嶋大路 西堀川 東堀川 鴨川
588丈--+-588丈-+--588丈
1800丈-18丈×2=588丈×3 となり18丈は約60メートルですので鴨川の幅と木嶋大路の広さだったようです。
つまり西の白虎は山陽道などではなく都に平行して南北に走っていた今は失われてしまった木嶋大路だはないかという説です。また朱雀も巨椋池ではなく、羅城門からちょうど10里行ったところに横大路朱雀という字名が残っているそうで、ここに人工池が作られていたのではという説です。
もし、そうだとするとかなり緻密に平安京を作っていたんですね。まさに計算の陰陽師の世界です。
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2分間隔で電車が来る東山線
名古屋市新事業支援センターへ行くのに近鉄名古屋駅で降りて、地下鉄・桜通線に乗り換えています。今日は朝から名古屋大学の研究室へ行く用事があったので近鉄を降りて、桜通線への連絡口ではなく東山線へ。
朝の地下鉄東山線・名古屋駅って行ったことがなかったのですが、めちゃくちゃ混雑しています。改札の前に行列ができているのにまずビックリ。改札の先がつまっていて、行列はずっと続きホームに降りる階段もずっと行列です。ただし地下鉄は2分間隔で走っているので、そう待たずにホームに降りることができました。
この2分間隔は東山線全区間で、この短さは日本一なんだそうです。東京のメトロ丸ノ内線は1分50秒間隔ですが、これは一部区間になります。東山線って、めちゃくちゃすごいダイヤなんですね。あれほどの行列でしたが車内は御堂筋線のようにギュウギュウではなく、少しゆったりしています。すぐに電車が来ることもあって、一杯になりそうになると待つ乗客が多いことが影響しているようです。
東山線の本山駅で乗りかえて、環状線のように1周している名城線へ。一駅乗ると名古屋大学という駅です。ここの3号出口は名古屋大学キャンパスに直結。濡れずに大学構内に入れます。
駅から大学まで学生街が広がるというのが定番なんですが、3番出口にそんな風情はありませんねえ。
津城下図
三重県産業支援センターで昼休みに中日新聞を見ていると津城下図が発売されたという記事を発見。発売されたのは寛永期(17世紀)、享保期(18世紀)、嘉永期(19世紀)の3枚です。享保期については去年も発売され、たまたま新聞で見つけたのですが、10日ほど経って買いに行ったら早々に売り切れていました。今回は発売開始3日後の金曜に少し時間ができたので津市役所へ出かけて買うことができました。嘉永期は1000部、寛永期、享保期は500部の発売で、金曜日時点で既にだいぶ減っていました。3枚ともゲットできたのはラッキー。
道は庭岩禅寺、八百亀商店(八百屋さん)、佛眼寺、天理教津大教会の横を通って百五銀行本店の裏側で岩田川にぶつかります。古地図を見ると同じ位置に道があり庭岩禅寺や佛眼寺の名前が見えます。何とと言うことはない道なんですが江戸時代から、ずっと続いている道なんですね。
現在はありませんが岩田川の中には島があり、位置的には中部電力・津支店あたりのようです。
古地図を眺めて歩くとブラタモリ気分が味わえます。あの番組、復活しないかなあ。
堂島 古河ビル
堂島へ行く用事があったので懐かしい古河ビルへ寄ってきました。サントリー本社のすぐ近くにあります。
新卒で入った会社が株式会社SRA。当時はソフトウェア・リサーチ・アソシエィツという長たらしい名前でした。西日本営業所があったのが、堂島グランドビル。1階には第一勧銀と本屋・オーム社が入っていて銀行や本屋にすぐ行けて便利でした。特にオーム社は仕事で使うコンピュータ系の本が揃っていてよかったですね。地下には紅茶専門の喫茶ムジカがありました。
当時は阪急京都線・上新庄に住んでいたので阪急梅田駅で降り、地下街を20分ほど歩いて堂島グランドビルまで雨に濡れずに行くことができました。梅田のだっだ広い地下街は初めて行ったら絶対に迷いますね。あまりにすごいので「梅田地下オデッセイ」(堀晃)というSF小説までありました。
堂島グランドビルの5階か6階に会社があったのですが、手狭だったこともあり、すぐ近くの古河ビルにもオフィスを借りていました。プロジェクトによって移動したのですが古河ビルにいることが多かったですね。古河ビルは地下街と直結しておらず、サントリー本社近くに地下街への降り口があり、雨が降っていたら古河ビルの入口まで走らないといけませんでした。
プロジェクトが佳境に入ると深夜まで仕事をすることもしばしば。そのまま古河ビルに泊まり込んでしました。冬で寒いからリストを体に巻きつけて寝たこともありましたが、リストはゴワゴワするだけで、暖かくないことを学習しましたね。古河ビルの地下には床屋、郵便局、歯医者があり、こっちも便利なビルでした。
石切神社 日下(くさか) 神武天皇の上陸地
真田幸村 最後の地
先日、四天王の古書市へ行ったついでに安居神社へ寄ってきました。四天王寺・西大門から西にずっと坂になっていて、坂の途中に安居神社があります。ちょうど一心寺の前になります。
一心寺の裏側が天王寺公園になっていて、公園の中に茶臼山古墳があります。大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」が行われました。
茶臼山の戦いでは真田幸村の突撃で、家康軍は総崩れ、旗本も逃げ出し、この時に本物の家康は死んだという説があり、 堺市の南宗寺には「家康の墓」があります。大阪人は太閤さんを滅ぼした家康を嫌いなので、プリンセス・トヨトミめいた話がまことしやかに残っています(笑)。
真田軍の攻撃であわてふためいた家康の本陣は大混乱。三方ヶ原の戦いで信玄に敗れて以来、倒れることがなかった旗指物が倒れてしまいました。大久保彦左衛門が家康からの質問に「いいや、倒れなかった」と頑固に主張して徳川家の名誉を守った逸話が残っています。
後詰がない真田軍も追撃が続かず、真田幸村はこの地で討ち取られました。境内には真田幸村戦死跡之碑が残り、六文銭の旗がはためいていました。
真田幸村の突撃は敵方の多くの書物に残されており、島津は「真田は日本一の兵」と記録しています。
宣長ってどんな人?
松阪にある「オーダシャツのHashimoto」へ寄った時に「宣長ってどんな人?」という冊子をもらってきました。橋本さん、ありがとうございます。
宣長とは本居宣長のことで、今年は古事記編さん1300年ですので、注目はやっぱり本居宣長でしょうね。古事記は712年にまとめられましたが、伝わっている古事記は1371年に書き写された「真福寺本古事記」が一番古いものになります。と言うことは原本に何が書かれていたかは定かではありません。他の話が入ったり、間違った字で写していることもあります。
そこで本居宣長が始めたのは古事記と同時期に出来た万葉集の研究。古い言葉を正しく読めるところから始めました。そして35年かけて出来たのが「古事記伝全44巻」、古事記の解説書です。現在の古事記の基本はこの解説書から始まっています。
■酒は3杯まで
この本居宣長ですが、筆まめで死ぬまで細かく記録をつけています。家計簿まで残っているので、いつ何をしたかが、よく分かります。若いころはいろいろと羽目をはずしていたようで京都へ遊学していた頃は、よく酒を飲んでいたようで。噂を聞いた母親から、「この手紙が届いた後は、3杯以上のお酒を飲んではダメ」とダメ出しを受けています。
■参宮幸便
江戸時代、手紙は飛脚が運んでいましたが、小さな村などに届けるのは日数もかかり大変。そこで全国にいた宣長の弟子が考えたのが参宮幸便。本居宣長の家は参宮街道から一本入ったところにありましたので、伊勢神宮へお参りする人に届けてくださいと預けていました。また伊勢参りの後にできたら返事ももらってくださいと頼んだそうです。
写真は本居宣長の家の跡地。家そのものは松阪城に移転し、本居宣長記念館になっています。ここからは松坂城が目の前に見えました。
■松阪の一夜
師である賀茂真淵と会ったの生涯たった一度。昔の教科書に載っていた逸話ですので年配の方はよくご存知ですね。賀茂真淵は伊勢参りの途中、松阪の新上屋に泊まり、宿から連絡を受けて本居宣長と会っています。この新上屋って、商店街の真ん中にあったんですね。知らなかった、今度、松阪へ行った時に探してみます。
枚岡神社 秋郷祭り2012
今日、明日は河内一ノ宮・枚岡神社の秋郷祭り。河内のお祭りは「だんじり」か「ふとん太鼓」が定番ですが、枚岡は「ふとん太鼓」です。祭は14日、15日の曜日固定ですので、平日にあたることも多く、今年は日曜にうまい具合にあたりました。
祭が平日になると近辺の企業はもちろんお休み。従業員が、ふとん太鼓を担ぎますので仕事になりません。さすがに小学校や中学校はやっていますが、担ぎ手になっている子供たちは早退したり、休んだりします。先生もよくわかっているので見て見ぬふりとなります。(笑)
枚岡神社は生駒山の裾野にありますが、けっこう高台です。麓の一の鳥居から急な坂を登るのですが難所の一つが枚岡駅の線路越え。近鉄の係員がダイヤ表を片手に少し長めの間隔の時にふとん太鼓を一気に通します。踏切を抜けるとまた急坂が待っていて登り切るとようやく枚岡神社です。この踏切を23基通しますので、大変です。
電車は徐行になりますが、なんで駅にこんな人だかりが出来ているんだと怪訝そうな顔をする乗客ばかりですね。
断夫山古墳(熱田神宮)
熱田神宮のすぐ近くに熱田公園があり、公園の中には熱田球場があります。公園にはこんもりとした森になっているところがあり、これが東海地域最大の前方後円墳「断夫山古墳」。6世紀初頭に築造されたと言われています。
先日、行ってみましたが東海地域最大と言いながら全長151メートルほどと、こじんまりした古墳でした。堺の大仙山古墳のように1周2.7kmもあって、1周するだけで息も絶えだえになることはありません。断夫山古墳の外周をまわると、きちんと円や方墳の形が分かり、なかなか見応えがあります。
古墳に葬られているのは、どうも尾張氏の首長であった尾張連草香(おわりのむらじくさか)のようですね。熱田神宮は尾張氏の本拠地で、宮司は代々、尾張氏が勤めていました。
壬申の乱の時には桑名まで来た大海人皇子に協力して、大友皇子を倒すのを手伝いしました。と言言うよりも、尾張氏を当てにして吉野を脱出したのが真相のようです。大海人皇子の乳母は尾張の大海氏の娘で、大海氏は尾張氏の同族です。
昔の熱田神宮と言えば、熱田台地の端にあり、すぐそばが海だったため、断夫山古墳は船から見るよいランドマークになったでしょうね。
源頼朝が生まれたのは名古屋
今日は日曜なので大河ドラマ「平清盛」ですなあ。
あまり知られていませんが源頼朝が誕生したのは名古屋です。
源義朝の正室は藤原季範の娘・由良御前で、この藤原氏は熱田大宮司。熱田神宮の目の前に平安時代、別邸がありました。由良御前は身ごもった後、実家(熱田)へ戻り、ここで源頼朝を産んだそうです。現在は誓願寺というお寺になっています。最寄駅は地下鉄・神宮西駅です。
寺の前に右大将頼朝公誕生舊地の碑があります。頼朝のお父さんふだった源義朝は平治の乱で敗軍の将となり、亡くなったのは尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で裏切りが原因でした。源氏は愛知県と深い縁があるんですね。
源頼朝、織田信長、豊臣秀吉は3人とも名古屋生まれながら、鎌倉、安土、伏見を本拠地にし、名古屋とはあまり縁がないですね。