物部村(守山)

物部村

守山を歩いていると「牛馬三昧之碑」という碑を発見。というより側面にある物部村という文字が目に入りました。

調べるとかって栗太郡物部村があり、奈良時代には既にあった地名で一時期は法隆寺の荘園があったようです。守山駅近く勝部神社はニギハヤヒや経津主神を祭り、物部氏の神さんだったんですね。

蘇我馬子と物部守屋との戦いを日本史で習うため物部氏が滅んだと誤解している人も多いのですが、守屋一統が滅んだだけで物部氏は全国に点在し物部系の神社があります。例えば名古屋の千種にある高牟神社は尾張物部氏の拠点があったところです。また近鉄中川駅のデルタ線の近くにも物部神社もあります。東大阪や八尾の多くの神社の祭神は物部の神さんです。デンボの神さんで有名な石切神社もそうですし、宮司は物部氏の一派である木積(こづみ)氏です。

下之郷遺跡

下之郷遺跡

下長遺跡の東にあるのが下之郷遺跡です。

弥生時代の環濠集落である下之郷遺跡ですが、堀の規模がすごく、まず中心部を囲む三重になった堀跡が見つかりました。さらに集落の外周を囲む形で三重の堀がめぐっていました。堀の幅が8メートル、深さ2メートルもあります。他にも堀跡があり、いくつの堀がめぐっていたのか今もって分かっていません。堀は水堀が主体でした。堀は土塁とセットですので防衛の意味もありましたが現在の貯木池のように木材の保管にも使われたようです。

米は熱帯ジャポニカ米を食べていたようで中国や朝鮮半島から伝わったのではなく東南アジアから直接入るルートがあったようです。

■倭国大いに乱れ
想定されている集落の大きさは東西330メートル、南約260メートルもあります。集落の入口には土橋があり銅剣や折れた弓などが見つかっていますので戦闘が行われたようです。弥生時代の平城ですねえ。時代は吉野ヶ里遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡などと同じ時代で邪馬台国よりも300~400年前古く、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国・・」と書かれた時代の国の一つです。

下長遺跡

狐塚古墳

「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読むと伊勢遺跡周辺の遺跡が面白そうなので、まずは下長遺跡へ。といっても遺跡の多くは工業団地になっていて小さな3基の古墳が点在しているだけです。下長遺跡は伊勢遺跡から北西に1.5kmほど離れたところにあり、弥生時代から平安時代まで使われていたようです。

古墳時代前期には首長の居館が作られ祭場もあり、儀仗が見つかっていますから王がいたようです。遺跡の中央を琵琶湖まで続く川が流れていました。船も見つかっていて、川に沿って交易のための倉庫や交易場所があったようです。琵琶湖は古代の高速道路ですので瀬戸内海ルートと日本海ルートを結び、北陸・東海とのハブでもありました。

下長遺跡は伊勢遺跡のための物資の集散、交易の拠点として使われていたようです。その後、大和王権がスタートし伊勢遺跡が終焉するとともに、下長遺跡はますます栄えますので、物流拠点のハブとして大いに機能したようです。

卑弥呼を擁立した伊勢遺跡

伊勢遺跡

「倭国乱れ、相攻伐して年をへたり。すなわち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼といふ」有名な魏志倭人伝ですが、各国から王が集まり一女子を立てる話合いをした場所が伊勢遺跡ではないかと言われています。伊勢遺跡は突然、現れ、用が終わると消えます。その後に邪馬台国畿内説の有力候補である纏向遺跡ができます。

伊勢遺跡は滋賀県の栗東駅と守山駅の間の伊勢町にあります。昔、行った時は野原に立札ぐらいしかなかったのですが、ちょうど「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読んでいて遺跡公園として整備されているとあり、久しぶりに行ってきました。

見違えるように整備されていましたが、他に観光客がいません(笑)。遺構展示施設でマンツーマンで解説してもらい一人だけでビデオ上映してもらいました。

■弥生時代の国際会議場
伊勢遺跡は真ん中に方形の塀で囲まれた大型建物が並び、傍らに楼観があります。不思議なのは円周状に大型建物が並び、等間隔で真ん中の建物を取り囲んでいます。さながら真ん中が国際会議場で各国の大使館が取り巻いているようなイメージです。当時は通信が大変でしたので全権を委任された大使か王そのものが参画していたのでしょう。

船場総研26周年 近江八幡ツアー

ヴォーリズ

船場総研という高齢化がすすんでいる団体があり、話題といえば病気の話になっています(笑)。これでも中小企業診断士の集まりですので、格調高くガイドに案内してもらい近江八幡に残るヴォーリズ建築をめぐってきました。ヴォーリズといえば大丸心斎橋店本館や関西学院大学、神戸女学院の建築などで有名ですが初期の建物などが近江八幡にたくさん残っています。特に煙突に特徴があり、横に穴があいています。

太平洋戦線が終わった時、天皇の戦犯扱いが問題になった時にマッカーサーと日本との間の交渉にヴォーリズが活躍していた話、「あさが来た」の広岡浅子との交流、「たねや」がなぜクラブハリエを始めるようになったのかなど、いろいろな秘話も聞けました。

ミシガン

ミシガン

琵琶湖を就航する遊覧船「ミシガン」。有名なんですが乗ったことなかったので先日、ファイティング・コンサルタンツの面々と乗ってきました。大津は「成瀬は天下を取りにいく」で盛り上がっていて難読地名だった膳所もいまや全国区です。

15時の就航にまにあわせて14時頃に60分クルーズのチケット(2,400円)を買います。近くでビールを飲もうとお店に入るとアルコールはなし(笑)。仕方ないので就航までベンチでだべっておりました。14:50分にミシガンに乗ると3階にあるミシガンバーを目指します。ここビールを売っているのですが船が出てから販売ということで15時まで待って列に並んでビールをゲット。あとは展望デッキで船旅を楽しみます。

ミシガンって1982年(昭和57年)就航で、40年以上の歴史があるんですね。新入社員でプログラマをやっていた頃ですなあ。

ちはやふる 近江神宮

近江神宮

「ちはやふる」の舞台である近江神宮。創建はかなり新しく1940年(昭和15年)です。皇紀2600年を記念し天智天皇を祀る神社としてできました。

■百人一首の聖地
正月に坊主めくりで遊び、蝉丸をひいてしまったと叫んだ人も多かったでしょうが、古式ゆかしい、かるた取りの遊びです。百人一首とは藤原定家が選んだ秀歌集で大河ドラマ「光る君へ」の登場人物である赤染衛門、清少納言、紫式部、藤原公任の歌も採用されています。

この百人一首の第1歌が「秋の田のかりほの庵の苫を荒みわが衣手は露にぬれつつ」という天智天皇の歌で、このために近江神宮で全国高等学校かるた選手権大会や競技かるた名人位・クイーン位決定戦などが行われるようになります。「ちはやふる」の聖地となりましたが、「けいおん」豊郷小学校のような賑わいはないですね。

大津宮

大津宮

「白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い」を覚えていますか?
倭の同盟国だった百済を支援していましたが新羅・唐に攻められ滅んだため、中大兄皇子は百済復興のために海外派兵を決定、倭に滞在していた百済の太子を帰国させ戦わせます。結局は白村江の戦いで倭軍は敗北。

実は孝徳天皇や大海人皇子が唐派で中大兄皇子と対立していたのではという説もあり、こうなると朝鮮情勢で対立した物部vs蘇我と同じですね。中大兄皇子は唐・新羅に対抗するため北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城を築きます。岡山の鬼ケ城や大阪の高安城はこの時にできました。大宰府では水城など羅城で囲みます。

■なんで大津に遷都?
中大兄皇子は都を飛鳥から大津に移し、天智天皇として即位しますが、なんで大津に遷都したのかが不明です。防御説もありますが敦賀に上陸されて琵琶湖を南下されたら大津はすぐやられます。

天智天皇が亡くなった後に壬申の乱が起き、最後の戦いが瀬田の唐橋で行われ、大友皇子は敗れます。結局、大津宮は5年半だけ使われた幻の都となりました。錦織地域の住宅建築などによる発掘調査で幻の都だった大津宮が見つかりました。住宅地に宮跡が残っています。

アニメ「ケイオン」豊郷町

アニメ「ケイオン」豊郷町

山城登りがシーズンオフになり、最近は平城巡りをしております。今回は豊郷町周辺の平城を狙います。以前、JR河瀬駅でレンターサイクルを借りて山崎山城や荒神山城を巡ったので再度、レンターサイクルを借りようと行ってみたら3月末でがなくなっていました。ガビーン、それなら豊郷町により近い一つ手前の稲枝駅で降りたのに!

路線バスもないし、しょうがないので豊郷町を目指して歩きます。せっかく豊郷町に行ったついでに豊郷小学校旧校舎に寄ってきました。ここはアニメ『けいおん!』の聖地になっていて、アニメファンがそこかしこに。建築はヴォーリズで、オシャレですねえ。レトロな階段などがあり、手すりには「ウサギとカメ」の像があったりします。3階は軽音楽部・部室のモデルになった部屋があり、皆さん写真撮影をしておりました。

草津 追分

草津 追分

草津川跡地公園のすぐ近くにあるのが追分の道標。ここで東海道と中山道に分岐し、東海道は江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ53次でした。のちに大坂の高麗橋まで延びて57次になります。中山道も東海道と同じで日本橋と三条大橋を結びますが内陸を通り69次ありました。東海道は大井川の渡しなどが雨で通れなくなるので、道は険しいですが時間がよめる中山道がよく使われました。皇女和宮の江戸下向でも中山道が使われます。

■草津をおさえた信長
足利義昭を奉じて上洛した織田信長が副将軍なんかいらないと断り、代わりに堺、大津、草津を直轄地としてもらっています。武田信玄は鉄砲に着目しており、数を揃えていましたが問題だったのは弾薬。信長が堺を抑えてしまったので、火薬の原料となる硝石が手に入りません。海運拠点の大津、陸運拠点の草津を抑えてしまい琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われました。

武田信玄が三方ヶ原の戦いで家康を破り、西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると考えたという説もあります。