近江国府から800mほど行ったところに小高い丘があり、ここが堂ノ上遺跡。看板はありますが、何もない原っぱです。当然、誰もいません(笑)。
堂ノ上遺跡は東海道、東山道、瀬田川を見下ろす高台にあり発掘調査によると奈良時代後半には建物が造られていました。近江国府と同じ瓦などが見つかっているので同時に造られたようです。一説には瀬田駅家との説もあります。
■駅家(うまや)とは
天武天皇時代に古代道路網が整備されました。当時は白村江の戦いからそう時間が経っておらず、唐などとの外交関係が緊張していました。緊急事態を伝える情報システムが全国に整備され、大路は幅12メートルの道がまっすぐ作られました。途中には駅家が作られ、ここで馬を取り換えて都を目指しました。伝達スピードはめちゃくちゃ早かったようで大宰府では発生した藤原広嗣の乱が大宰府から聖武天皇が行幸していた関宮(津市白山町)まで705キロあり、これを5日で伝送したそうです。1日140キロの移動です。
忠臣蔵で浅野内匠頭が吉良に切りつけた刃傷事件を起こし、使者は早かごを使って江戸ー赤穂間620キロを伝えるのに四日半かかりましたので、ですので駅家制度がいかに早かったかが分かります。
■崩壊した駅家制度
駅家には駅田という田が与えられ、この田から採れる稲を民衆に貸し付けた利息で経営されていましたが、持ち出しが多かったようで地元の名士が所管していました。天皇の崩御など緊急事態があると駅家で馬を乗りかえながら知らせが伝えられました。
ところが、これがだんだん拡大解釈されて単なる公務でも使われるようになり、駅を経営する側にとってはたまったものではありませんでした。律令体制の崩壊と共に道路も整備されず消えていき駅家もなくなっていきました。