2020年もあっという間に終わりですね。年内最後の土曜日は大阪産業創造館2Fにある大阪府よろず支援拠点で相談業務です。

今年はコロナ禍でたくさんの相談があった一年でした。相談対応のために土日も交代で相談するようになりましたが、さすがに落ち着いてきたので日祝はなしで土曜だけ相談という体制になっています。
2020年もあっという間に終わりですね。年内最後の土曜日は大阪産業創造館2Fにある大阪府よろず支援拠点で相談業務です。

今年はコロナ禍でたくさんの相談があった一年でした。相談対応のために土日も交代で相談するようになりましたが、さすがに落ち着いてきたので日祝はなしで土曜だけ相談という体制になっています。
クリスマスです。

今年もあと1時間ほどでNORADによるサンタ追跡がはじまります。ノーラッド(NORAD)の正式名称は北アメリカ航空宇宙防衛司令部でアメリカ合衆国とカナダが共同で運営する統合防衛組織です。
■サンタ追跡プロジェクト
サンタ追跡プロジェクトが始まったのはアメリカとソ連との間で冷戦まっさかりだった1955年。そもそもはノーラッド司令部があるコロラド州の大手スーパーが配ったチラシに問題がありました。チラシには子供向けサンタクロース・ホットラインの電話番号が掲載されていましたが、これが間違った電話番号を記載。よりにもよってノーラッドの司令長官用ホットラインの番号でした。
さっそく子供から司令長官に電話がかかってきます。「サンタさんはどこにいるの?」という子供の問い合わせに対し、シャレのきいた司令長官だったようで「レーダーで調べた結果、サンタさんが北極から南に向かった形跡がある」と子供に回答。それ以来、クリスマス・イヴになるとノーラッドが全勢力をあげてサンタを追跡する伝統が始まり、現在まで続いています。
大阪中心部にあるのが堺筋本町。いわゆる船場ですが繊維街はだいぶ衰退してしまって帝人本社跡地はタワーマンションに生まれ変わっています。

堺筋本町にあるのが大阪国際ビル。1階には紀伊国屋書店が入っていて、よく利用していますというか、けっこうな金額を使っているはずです。近くに本屋があるのがいいですねえ。
この大阪国際ビルから大阪の町が一望できますが、写真は東側、生駒山の方角です。生駒山のずっと左側の山の上にあったのが飯盛山城。
大阪城はビルの陰で見えませんが左の方にはランサムウェアの攻撃を受けたカプコン本社のビルが見えています。
茨木で仕事でしたので、ついでに茨木神社へ寄ってきました。神社には茨木城の搦手門が移築されています。茨木城は摂津にあったお城ですが、現在は住宅地になってしまい殿町といった城にまつわる地名が残っています。遺構として残っているのは搦手門だけです。

茨木城の城主はいろいろと変わりましたが、信長・秀吉の時代に城主だったのが中川清秀。茨木の隣が高槻で高槻城の高山右近が従兄弟となり、山崎の合戦では最前線で高山右近とともに活躍しました。秀吉と勝家が激突した賤ヶ岳の戦いでは二番手で大岩山砦を守っていた時、勝家軍の佐久間盛政が大きく迂回して攻撃してきたため奮戦しましたが討死します。
早いもので、もう師走です。

師走といえば忘年会ですがコロナ禍の影響で中止の連絡ばかり。結局、1回も開催せずに年を越しそうです。忘年会無しなんて、たぶん社会人になって初めてじゃないかなあ。
飲食店は忘年会の自粛や時短営業のため、いつもの年のようにお酒の量が出ませんので、日本酒の蔵元や酒造メーカーにも影響を与えています。
忘年会がなくなったので酒代がその分、浮くはずなんですが、結局、家で飲んでいるのでいつもと同じです。世間一般の人は忘年会では飲むけど家で飲まないんですなあ。
黒木西城を目指して尾根を登り頂上を目指しますが堀切などの遺構がない。
おかしいなあ、確かにこの山のはずなんだが。しかし、どうも違う。結局、一山間違えておりました。せっかく登った山を降りるのは面倒なので尾根筋を歩いて、ひたすら隣の山を目指します。

ようやくたどりつくと郭の間を堀切があるのを発見。郭をずっと歩いていくと大堀切と大土塁がありました。写真が堀切から見た大土塁ですが、よく分かりませんね。ぜひ、現地で見てください。行くのは大変ですが
黒木西城は黒木氏の居城という説、秋山氏が本城である秋山城を奪われた時の城説、松永久秀が秋山城攻略のために築いた陣城説などがあります。
ひんがしの野に かぎろひの立つ見えて
かへり見すれば月かたぶきぬ

御存じ、万葉集に出てくる柿本人麻呂の和歌です。歌を詠んだ場所が阿騎野で、この写真の場所(かぎろひの丘)ではないかと言われています。昔から阿騎野では薬狩りが行われ、草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行した時に詠みました。「かぎろひ」とは東の空に見える明け方の光のことです。
阿騎野は飛鳥から多武峰を超えた所でしたので行きやすかったのでしょうね。柿本人麻呂は歌聖と言われる割には生涯についてよく分かっておらず梅原猛が「水底の歌-柿本人麻呂論」で刑死によって沈められたという大胆な説を出しています。昔、読んだなあ。「隠された十字架 法隆寺論」も面白かったなあ。
山城で案内板などがある所はほんの一握り。地元の人に聞いても知らないケースがほとんどです。そこでひたすら城の記録を検索し、先人が登った場所などを探します。あとは「近畿の城郭」などに縄張図などが掲載されていますので、これでどういう山かを把握して現地に向かいます。

宇陀五津城は五津(いつつ)という場所にあるお城です。採石場の隣という記録があったので、この山だろうと藪を突っ切って尾根にたどりつき頂上を目指しましたが平削地があるばかりで空堀などが見つかりません。おかしいなと麓まで降りて採石場の反対側の山へ。ピンポン!こちらに宇陀五津城がありました。主郭を中心に二重の空堀に囲まれ、技巧的な城になっています。二重の空堀は見事ですねえ。誰が造った城なのか皆目わかっていません。
コロナ禍の影響で大学の講義はオンラインになり、経営相談もオンラインで行うことが日常になりました。ツールとしてMicrosoft Teamsなどいくつかありますが、よく使われているのがZoomです。
営業でも取引先がオンラインにしてくれという要望からZoomで商談することも増えました。オンライン商談する時のポイントについてAll About・企業のIT活用にガイド記事を書きました。えひ、ご覧ください。
織田信長より先に天下をとった三好長慶ですが後継者の息子に先立たれるなど晩年は不遇でした。

三好長慶は永禄7年(1564年)に42歳で亡くなりました。この年、美濃では斎藤龍興を諫めるため竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取り斎藤龍興を半年ほど追い出す事件がありました。織田信長は桶狭間の戦いに勝利し、徳川家康と同盟することで東側の脅威をなくし、本格的に美濃攻めをしていた頃です。
■御体塚
三好長慶は飯森山城で亡くなり、遺骸は郭に塚を作って仮埋葬されました。これが御体塚ですが、郭はハイキングコースから微妙にはずれていますので誰もおりません(笑)。その後、八尾にある真観寺に墓は移されます。
■三好義継が家督を継ぐ
三好長慶の後は甥が継ぐことになり、これが三好義継です。松永久秀や三好三人衆がバックアップしますが、家督を継いだのが15歳ぐらいですので内紛が発生。しかも織田信長の上洛もあって、三好家はしっちゃかめっちゃかになります。最後は追放された足利義昭を若江城で匿ったため織田軍に攻められて25歳で討死しました。この三好義継の墓も八尾の真観寺にあります。