普賢寺谷 小田垣内遺跡

小田垣内遺跡
小田垣内遺跡

皆さま、お待ちかねの普賢寺谷・城館群シリーズ。今回は小田垣内遺跡です

垣内という地名がついていますので、かって城がありました。他にも内本町のように内がついていると城内を指す場合が多いです。

京奈和自動車道のすぐ横の山の中にあります。隣には同志社大学多々羅キャンパスがあります。近くまで小道があり、ここから郭内に入れるが楽ですね。小田垣内遺跡はけっこう古い時代から使われていたようで室町時代の石仏が土塁の中から見つかっています。

高い土塁と堀切などが見事に残っていました。けっこう大きな郭跡ですので、いろいろな館が建っていたようです。谷の反対側に大西館がありますので、大西関係者の城だったかもしれません。

太閤園でセミナー

太閤園
太閤園

大阪府よろず支援拠点のお仕事で太閤園へ。
近畿菓子卸商業組合の「流通問題検討会議」でセミナーをしてきました。演題は「AI・Iot活用」で持ち時間は40分でしたが、一つ前の話が伸びたので持ち時間は20分に(笑)。だいぶ端折ってしゃべってきました。
一つ前が岡山にある株式会社大町の秋山社長でチンドン屋さんの恰好で登場し会場を盛り上げていました。田道間守にちなんで3月12日を「だがしの日」にしようと運動されるなど、なかなか面白い内容でした。
会場は大手の菓子メーカーなど80名ほどが参加し、なかなか盛況でした。

普賢寺谷 駒ヶ谷遺跡

駒ヶ谷遺跡
駒ヶ谷遺跡

同志社大学・田辺キャンパスは山の上にあり、麓を流れているのが普賢寺川。反対側も山になっていて川が流れているのが普賢寺谷になります。不思議なことに谷の両川に城郭が続きます。

南北朝時代から山城が造られたようで、その一つが駒ヶ谷遺跡。ただし遺跡に関する情報はほとんどありません。昔は山しかありませんでしたが大学ができたので道路が整備され大学正門前の道がずっと多々羅という地を通っています。西山神社あたりから山に登れる道があり、登っていくと送電線があって、このあたりが郭のようです。探し回っていると井戸跡や堀切を発見。どうやらここらへんが遺跡のようです。ただけっこう崩れていたりして、よう分かりませんでした。

大学キャンパスにある筒城宮

筒城宮
筒城宮

継体天皇は応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた人物。万世一系ということなら、ほとんど傍流で、この時に王朝交代したのではという説もあります。継体天皇陵は宮内庁指定ではなく高槻にある今城塚古墳と言われています。

継体天皇は大和に入れなかったのか、または越前-琵琶湖ー淀川の水運(当時の交易は日本海ルートが主でした)を重視したのか根拠地とした宮殿が

507年 樟葉宮(くすばのみや:枚方市)
511年 筒城宮(つつきのみや:京田辺市)
518年 弟国宮(おとくにのみや:長岡京市)
526年 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:桜井市)
と移り替わり、大和に入ったのは即位から19年後になります。

同志社大学・京田辺キャンパスの入口を入ると右手にこんもりとした森があり、階段を登ると開けた場所があって、ここが継体天皇・筒城宮跡伝承地で石碑などが建っています。周りはキャンパスに囲まれています。

京田辺は木津川に近く、琵琶湖と大和や難波(瀬戸内海)との水運を意識するなら最適地になります。

大阪府よろず支援拠点 コーディネータ研修

大阪府よろず支援拠点
大阪府よろず支援拠点

午後はマイドーム大阪で大阪府よろず支援拠点のコーディネータ研修。人手不足対策などの事例をもとにグループ討論などを行いました。面白かったのが地図を元に大阪府の市町を記載するアイスブレーク。忠岡町や河南町ってなかなか出てこないですね。

研修後はシティプラザ大阪の最上階にある居酒屋で宴会。研修時間は13時~17時で4時間でしたが、結局、宴会も17時過ぎから21時までで4時間でした(笑)。結局は研修時間と同じだけ飲んでました。

同志社大学キャンパスに残る新宗谷郭

新宗谷郭
新宗谷郭

同志社大学には今出川キャンパス以外に京田辺キャンパスがあります。山を切り開いて作ったキャンパスなので駅から延々と坂を登らないといけません。ここに普賢寺谷城館群とよばれる17もの城郭がありましたが多くは校舎の造成で消えてしまいました。ただ新宗谷(しそがたに)郭が敷地内に残っていることを知り、出かけてきました。

キャンパス内を探しましたが、案内がないのでよう分かりません。ようやく知真館3号館の脇に森に入る小道を見つけ、ここが城への入口でした。森に入ると一角にないといけません。ここに普賢寺谷城館群の説明版がありました。堀切を進むと虎口があり、ここから主郭へ入ると土塁が巡っていて、大きな主郭以外に2つの郭がありました。堀切もしっかり残っています。

普賢寺谷城館群は反信長だったようで、足利義昭が若江城へ落ち延びる時も普賢寺谷を通り、支援していました。松永久秀による普賢寺谷の焼き討ちも行われており発掘された遺物には火災の痕跡が残っています。

トラカフェ食堂

桔梗が丘
桔梗が丘

午後、企業研修でしたので大阪から桔梗が丘へ。駅前に近鉄百貨店がありましたが、撤退。三重県内の百貨店は津の松菱と四日市の近鉄百貨店だけになりました。

近鉄百貨店時代は喫茶店やパン屋さんなどランチに困らなかったのですが、今は伊勢が中心のスーパーが入っています。このスーパーの一角にトラカフェ食堂があります。別に阪神ファンというわけではなく、スーパー・ギュウトラだからだそうです。伊勢を中心に展開している地元スーパーです。

駅前でランチを食べようとすると、このトラカフェ食堂だけですね。定食が6種類ほどあって安い(460円だっけ?)ですので、とってもリーズナブル。買い物客などが利用しています。

古市高山城

古市高山城
古市高山城

古市城の本丸推定地は小学校になっていますが、近くに出城が2つ残っています。藤原城は藪だらけにさすがに入れませんでしたが、高山城は郭に入れる所があったので中に突入。見事な郭跡と堀切が残っていました。写真が郭から見た堀切なんですが、藪だらけで分かりませんね。

古市氏は筒井氏とずっと争っており、一度は筒井氏を追い落として衆徒の棟梁(大和の支配権)を手に入れますが勢力を盛り返した筒井氏に攻められ没落します。子孫は生き残り、小笠原家茶道古流などを伝えています。

興福寺や春日社の荘園管理をしていた大和の国人は春日若宮祭礼に流鏑馬を勤仕するしきたりがありました。十市氏、箸尾氏、筒井氏、楢原氏、越智氏などは奉仕していましたが、なぜか古市氏は入っておらず異端と思われていたようです。それが理由なのか赤沢氏や木沢長政、松永久秀といった大和国外からの侵攻勢力と組みすることが多く、大和の国人連合と松永久秀との間で起きた辰市合戦では古市氏は松永方で戦っていました。松永久秀が信長に滅ぼされたあと、古市氏は隠棲したようです。

下請かけこみ寺事業

三重県中小企業診断協会の研究会
三重県中小企業診断協会の研究会

昨夜はアスト津で三重県中小企業診断協会の研究会

11月は下請取引適正化推進月間でもあり「下請かけこみ寺事業の活動内容と下請代金支払遅延等防止法のポイント」というテーマで岩佐診断士(下請かけこみ寺 相談員)にお話しいただきました。

中小企業のなかにはドンブリ勘定で製造単価をずっと据え置いたままの企業もあり、作れば作るほど赤字になっているケースがあります。原価管理をしっかりやって製造原価を出せば、「この金額では赤字なんで受注できない」と親企業とも価格交渉できます。

また価格を上げれば競合に負けると思っている企業もありますが競合分析を全然していません。受注企業の廃業が多いなか、発注側もやめてもらったら困るところがたくさんあることに気が付いていないケースもあります。

古市城

古市城 本丸推定値
古市城 本丸推定値

奈良市中心部から南東にある古市の里にあるのが古市城です。

城主は荘園の下司だった古市氏で、力をつけ大和で勢力を競った五大国人(筒井、十市、箸尾、越智、古市)の一人となります。当時の記録には古市城で連歌会や茶会が開催され古市は文化の中心でもありました。

古市胤栄は村田珠光の高弟でもあり小笠原家茶道古流の祖ともなります。千利休から始まる表千家、裏千家、武者小路千家が有名ですが、茶湯の開山と称される村田珠光から続くのが小笠原家茶道古流で、当主は平成の時代まで古市氏でした。

また風呂釜が壊れたので修繕費用を捻出するため、当時の大和で禁止されていた風流踊が踊れる小屋をつくり、入場料として6文をとりました。今でいうクウド・ファンディングですねえ。小屋は大盛況で、3千人もの人々が集まり日本初の有料ダンスホールと言われました。アイデアマンだったようです。

古市城は台地西端に作られており高台から奈良市街を見渡せます。東市小学校が本丸推定地になっていますが本丸の遺構は残っていません。また城の下が環濠集落になっていて城下町が形成されていたようです。

これで大和の五大国人が居城にしていた筒井城、十一平城、箸尾城、越智城、古市城をすべて制覇できました。