
地下の正倉院展へ出かけてきました。
今年、平城京跡出土木簡が国宝に指定されたそうで、平城京跡資料館では「地下の正倉院展」として11/26(日)まで3期に分けて展示されています。
会場入口にあったのが下ツ道の溝から見つかった長い棒に書かれた木簡。平城京の朱雀大路はもともと飛鳥時代にあった下ツ道を拡張したもので下ツ道の溝から藤原京時代の木簡が発見されています。早い話がゴミです。
内容は手形(パスポート)で近江国蒲生郡で田作人(農業)をしていた伊刀古麻呂、大宅女の2人が藤原京へ戻る際に発給されたものです。かなり大きな木簡で40cm近くあります。行先は左京小治町で、どうも飛鳥の雷丘付近のようで、藤原京の一部です。近江から山城国を超えて大和へ入り、当時は平城京はありませんでしたが関所があったのでしょう。最後の関所を超えたので大きな木簡は邪魔と溝に捨てたと思われます。
何もない花隈城

神戸へ行ったついでに花隈城跡へ寄ってきました。元町駅のすぐ近くにあり、城跡はなにも残っていませんが石垣風の駐車場になっています。公園には碑が建っています。
JR線から、すごい急坂になっていて丘陵が突き出した一番先に城がありました。摂津を支配した荒木村重が織田信長に反旗を翻した時に有岡城(伊丹城)の支城となって織田軍の池田恒興などと戦います。荒木村重は毛利への援軍要請のため有岡城を抜け出し、尼崎城を経て花隈城に入りますが、結局、荒木村重は毛利に逃れ花隈城は落城します。
花隈城の北側の諏訪山には池田恒興と嫡男の元助が陣取り、生田の森(生田神社のあるあたり)には池田輝政が陣取っていました。元町周辺は戦場でした。勝った池田恒興は兵庫城を築城し、花隈城は廃城となります。古図が残っていた本丸、二の丸、三の丸まであった大きな城だったようです。
中小企業診断士の日

11月4日は中小企業診断士の日です。
今年は土曜なので大阪中小企業診断協会では本日、イベントを開催。しかも兵庫県中小企業診断協会、京都府中小企業診断協会と同じです。
さて中小企業診断士の知名度向上のため公的行事では経営の羅針盤をモチーフにした診断士バッチを着用することになっています。それはよいのですが、バッチのありかを朝から探すことに。なんせ3Sができていないので、まず出てきたのが診断士の旧バッチ。さすがに、これをつけていったらまずいだろうと再捜査。30分ほどたってようやく見つけました。めでたし、めでたし。
マイドーム2階でイベントが開催されましたが基調講演の後、5社の事例発表。会場には企業紹介のパネルが用意され、大阪府よろず支援拠点が毎年、行っている事例発表会と同じフォーマットでした(笑)。
正倉院展 糞置村
昔の地形を道が覚えていた津堂山城古墳

近鉄・藤井寺駅の北で大和川近くにあるのが津堂城山古墳。城山という名前がついているように室町時代は三好氏が城として使っていました。近辺にある恵我ノ荘駅近くの大塚山古墳も城として使われていました。
本当の継体天皇陵といわれている高槻の今城塚古墳も堀と思われるような窪みなどがあり城跡と考えられていましたが、発掘調査の結果、伏見大地震によって墳丘が地すべりによる崩壊で城ではなかったことが判明しています。
津堂城山古墳は前方後円墳として認識されていましたが、考古学者の末永雅雄氏(橿原考古学研究所初代所長)が戦後、空から古墳を観察する新しい研究方法を考案します。航空写真をよく見ると道路が変な風に曲がっていることが判明。外側にも濠があったようで発掘してみると濠跡を発見。結局、二重の濠をもつ巨大な前方後円墳だったことが判明します。古市古墳群では応神天皇陵の次に大きいことが分かりました。
住宅地が外濠にあわせて建てられ昔の地形を道や住宅が覚えており、今もその痕跡をGoogleマップで見ることができます。
浜田城の冠木門

近鉄四日市駅のすぐ横にあるのが浜田城跡。
県内では一番大きな町である四日市。都会のど真ん中に城跡が残っているのは奇跡的ですね。主郭跡には鵜森神社が建っており、周囲を土塁が巡っています。昨日、リーディング産業展へ行くついでに久しぶりに浜田城へ寄ると冠木門が復元されていました。
浜田城は北勢地域を納める赤堀三家(赤堀氏・浜田氏・羽津氏)の城です。藤原氏の系統で先祖には百足退治で有名な藤原秀郷がいます。本貫は上野国赤堀郷で、四日市へ移ってから三家に分かれました。この赤堀氏が三滝川の南側の辻で毎月4が付く日に市場を開いたことから四日市の地名となります。
赤堀氏は織田信長の伊勢攻めで滝川一益軍に破れ天正3年(1775年)に赤堀城と浜田城が落城します。浜田氏の跡取りは逃げて、後に織田信雄に従いますが、小牧長久手の合戦で戦死してしまい、ここで断絶します。一時期、滝川一益の娘婿で木造氏だった滝川勝利が浜田城の城主を勤めていましたが、小牧長久手の合戦の後、廃城となりました。
二上山城(雌岳)

太子町巡りの最終目的地が二上山の山頂にある二条山城。
岩屋から二上山城の雌岳を目指します。二上山には二つの頂上があり、高い方が雄岳で低い方が雌岳、山城巡りに行くのはいいのですが山道をひたすら登らないといけないのが、しんどいですなあ。二上山城は大和と河内の両方を見渡せる絶好の場所で、写真は雌岳から見た大和三山。
二上山に城郭を築いたのは楠木正成で楠木氏河内国七城の一つと言われていますが、どうですかねえ。河内国守護だった畠山氏が古市に作った高屋城(平丘城)の支城として二上山城を作ったのでしょう。雄岳の城郭が大きく、雌岳は二上山城のさらに支城、出城のような感じですが竹内街道を監視することができます。近くに信貴山城があり、一緒に運用されていました。木沢長政が改修した時代の遺構が残っていますが、木沢長政が三好長慶軍に討ち取られた太平寺の戦いで二上山城も落城した模様です。
雌岳の遺構ですが頂上の郭や帯郭跡が3つほど残っています。雄岳も登ろうとしましたが、さすがに力尽きて山道を降りてきました。リベンジしなくっちゃあ!
岩屋

太子町のすぐ東にあるのが大和と河内の境にある二上山。”にじょうざん”とも読みますが、昔は”ふたかみやま”と呼んでいました。二上山は雄岳と雌岳の2つの山頂からなっており、駱駝のコブのような形になっています。
大和の東側、大神神社の近くにある檜原神社(元伊勢)から見ると春分と秋分の日に夕日がこのコブの間に沈むのを見ることができます。二上山には非業の死を遂げた大津皇子の墓があることでも有名です。
二上山の南を通るのが竹内街道で日本最古の官道です。推古天皇の時代に隋からの使節団を迎え入れるために整備されたと考えられていて、オリンピックで道路を作るのと同じですね。現在は国道166号が走っていて飛鳥時代からの道が今も使われています。ただ車が多く、あまり情緒を感じられません。そんな時は竹内峠ではなく、少し北の岩屋峠にハイキングコースがあり、こちらがおすすめ。ここには奈良時代に作られた大陸風の石窟寺院「岩屋」があり、国の史跡に指定されています。
厚生年金保険料が上がる

今日は給料日。もっとも自分で自分に給与を支払いますので、なんの感激もありません(笑)。
今月の給与明細を見ると厚生年金保険料のところが少しあがっています。デフレ時は保険料を下げると決めたマクロ経済スライドが導入されたのが平成16年の年金制度改正です。この時、平成16年10月の13.934%から毎年0.354%引き上げることが決まりました。最終的に18.3%となり、これが上限となります。この9月が最後の引き上げで18.3%で固定されることになります。サラリーマンの場合、半額は会社負担(労使折半)ですので、9.15%となります。
ということで新しい厚生年金保険料を計算して控除し、自分の銀行口座に振り込みました。来月もしっかり働けよ(笑)!
和を以て貴しとなす

太子町のマンホールをよく見ると「和を以て貴しとなす」と書かれています。ご存知、十七条憲法の第一条です。今回の選挙の争点に憲法改正が話題にあがっていました。
十七条憲法は「篤く三宝を敬へ」など、法律というより役人の心構えが中心に書かれています。当時は他に法律がなかったようですので十七条憲法が最高法規となります。
やがて律(刑法)と令(行政法など律以外)が制定され、律令時代となります。鎌倉時代になると公家は律令にしばられますが、武士用ではなかったので御成敗式目が制定されます。戦国時代の分国法(今川仮名目録など大河ドラマ・井伊直虎に出てきました)も、この御成敗式目が基本となっています。もっとも戦国時代、法はあっても自力救済(権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすこと)の世界でした。ですので映画「七人の侍」が描かれました。あの映画のテーマは自力救済です。
江戸幕府になると武家諸法度、禁中並公家諸法度が制定され、明治となり大日本帝国憲法ができ、昭和の日本国憲法へとつながっていきます。
