若江の戦い 木村重成

木村重成
後藤又兵衛が道明寺の戦いで討死した同日、北方の若江では木村重成が討死しました。
大河ドラマ「真田丸」では白石隼也が演じています。東高野街道を南下する家康、秀忠を狙って側面からの攻撃を考え、長宗我部盛親とともに八尾・若江に布陣します。木村重成は若江村を担当しています。当時、大坂城の東側は付替前の大和川が流れ、池も多く湿地帯になっていました。
豊臣方の狙いを見抜いた藤堂高虎が迎え撃ちます。木村隊、長宗我部隊はよく戦い、藤堂方の武将が次々に戦死、兵の半分を失う壊滅的な状況となります。後年、名張藤堂家の祖となる藤堂高吉(丹羽長秀の三男)が踏ん張っているところに、井伊直孝が応援にかけつけます。
■来年の大河ドラマ 井伊直孝が救援に
真田丸を攻撃した赤備えの井伊隊で、来年の大河ドラマ「井伊直虎」に出てくる井伊直政の次男です。真田信繁が真田丸の櫓から「向こうにも、ここにいたるまでの物語があるのだろうな」と来年の大河ドラマにエールをおくっていた人物です。
木村重成自身も槍をとって戦いましたが討死しました。首が家康に届けられたところ、頭髪に香が焚きこめてあり、家康が感嘆したという逸話が残っています。藤堂と井伊はこの戦いでの被害が多く、翌日の先鋒を辞退しています。
木村重成の墓は若江城跡近く、第二寝屋川の横の公園にあります。陣を置いたのは少し北にある蓮城寺になります。(若江鏡神社のすぐ近く)

小松山(後藤又兵衛)

小松山
大河ドラマ「真田丸」の次週予告を見ていたら、真田信繁が伊達政宗に向かって「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と叫ぶシーンが出ていましたので、木村重成も後藤又兵衛も討死するんですね。
難波から大阪近鉄線に乗って八尾、柏原を過ぎると大和川を渡って、すぐ河内国分駅に着きます。河内国分駅のすぐ西にある小山が小松山で道明寺の戦いが行われたところです。今は住宅街になっています。奈良から大軍が移動するには王子から大和川沿いに隘路を進むしかありません。大阪側の出口が河内国分になります。徳川軍が出てきたところを迎え撃とうと後藤又兵衛が出陣し、この小松山で幕府軍を叩きましたが、新手が次々にあらわれる徳川軍にはかなわず討死します。
小松山は河内国分を見下ろす位置にありますが、すぐ西側にあるのが石川でその先には誉田御廟山古墳など巨大古墳が連なっています。山崎の合戦で明智光秀が陣をひいたのが恵解山古墳のように、当時、古墳は城代わりとして使われていました。石川を堀にし、古墳群に防衛ラインをひくのが本来の戦略でしたが、どうも後藤又兵衛が一人だけ突出してしまったのではないかというのが最近の学説です。大河ドラマで後藤又兵衛が「死に場所を探しに来た」というセリフがありましたが、あれは伏線なんでしょうね。

大河ドラマ「真田丸」 鉄壁の防衛ライン(岡山)

御勝山
大河ドラマ「真田丸」を見ていたら最新の城郭研究の結果が反映されていました。それが真田の新しい防衛ライン。堺雅人が図を示していました。
大坂冬の陣で活躍した真田丸を破却された真田信繁はさらに南側に新たな防衛陣地を築きます。西側は大坂冬の陣で家康が陣を置いた茶臼山。東側は同じく秀忠が陣を置いた岡山です。大坂の陣で徳川側が勝ったので御勝山と呼ばれるようになりました。写真は現在の御勝山で後円部の一部しか残っていません。
茶臼山と岡山を陣城に改修し、2キロほどの間に堀を造ります。堀跡が見つかっていましたが和気清麻呂が古代に大和川の付替えをした時のものと考えられていましたが、どうも大坂の夏の陣で真田信繁が造ったようです。
新しい真田丸の古図が見つかったと話題になった「浅野文庫所蔵 諸国古城之図」ですが、茶臼山の陣城についても書かれており、そこにあったのが武田流の丸馬出しで、同じ丸馬出しが岡山にもありました。岡山を守っていたのが大野治長です。
防衛ラインで家康軍を止めて戦闘部隊と本陣との間に間隙ができたところで両側の丸馬出しから出撃して本陣を狙うという作戦でしたが、味方が敵につられ防衛ラインを超えて攻めてしまったため、策は瓦解してしまいました。

第48回BLAST研究会

BLAST研究会
2002年、中小企業診断士の登録要件である実務補習を大阪で行ったメンバーが中心になってできた研究会です。新制度ができてからできましたので参加要件は新制度での合格者になっています。ニュータイプと呼んでおります(笑)
2002年以来、ずっと続いている研究会で、昨日は大阪産業創造館で3名に発表してもらいました。
『狩猟のビジネス展開について』 松下さん
『ある診断士の独立』 米田さん
『京都人から見た外国人観光客の変化』 伊吹さん
参加者は30名ほどで、終わってからは、もちろん宴会です!

足利義昭、信長ゆかりの若江城

若江城
河内国若江郡(現在の東大阪市)にあったのが若江城。残念ながら碑しか残っていません。
織田信長に京から追放された15代将軍足利義昭が送り届けられたのが若江城。信長の命を受け羽柴秀吉が警固しながら三好義継が守る若江城に足利義昭を送り届けます。足利義昭は、ここから毛利の鞆へと落ちていきます。この後、織田信長が佐久間信盛に若江城攻略を命じ、若江城は織田信長の城となります。若江城は信長の大坂での拠点で、石山本願寺との戦いでは最前線基地でした。
明智光秀らが守っていた天王寺砦が石山本願寺に攻められて、もうじき落城しそうと言われた時に信長は若江城で軍勢が揃うのを待っていましたが、時間がないため、わずかな手勢を引きつれて若江城から出陣し、本願寺勢を強襲して天王寺砦を助け出します。石山本願寺との和睦が成立した後、必要がなくなり若江城は壊されてしまいます。もともとは河内守護となった畠山基国の守護所から出発した城で200年にわたり使われました。
大坂夏の陣では、若江城あたりで八尾・若江の戦いが行われ、若き木村重成が討死します。

忘年会、欠席の弁

12月がスタートし、忘年会シーズンに突入。
今日は大阪府中小企業診断協会の交流会”いちもく会”の忘年会ですが、残念ながら欠席です。なんせ明日は朝から人間ドッグです。
皆さん、ご存じのように人間ドッグ前夜に酒を飲むような人間はおりません。それなら忘年会で酒を飲まなければよいというのはムリな相談です。皆がおいしいお酒を飲みながらワイワイやっている横で、なにが悲しくてウーロン茶を飲まないといけないのか。
冬の高野山でいてつく寒さのなか朝6時からの勤行に参加するなど、それなりに修行はしましたが、そこまで悟りきれておりません。”櫓三年に棹八年”と申します。何事も一人前になるには修行が必要ですが、まだまだ若輩者です。というわけで忘年会は欠席です。
”忍の一字は衆妙の門”という言葉もあります。耐え忍ぶことこそが成功への第一歩となります。人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず...。
あ~あ、お酒飲みたいな~あ!

額田、喜里川は松平容保の知行地だった!

額田駅
我が家の隣町が額田と喜里川で、枚岡神社の秋郷祭ではそれぞれ町から太鼓台が出ます。
先日、額田の歴史を調べていたら豊臣時代は長束次郎兵衛が奉行としておさめていて、徳川時代は代官でしたが、幕末の慶応2年に松平容保の知行地になっていました。
松平容保!!
って、あの会津藩の松平容保!
そうです、新撰組の生みの親の松平容保です。
幕末の京都は勤王浪士のテロで治安は最悪でしたので、会津藩主・松平容保が京都守護職に任じられます。しかし京都を守るためには金が要ります、そこでその賄いの知行地として喜里川村と額田村があてられました。
しかも、金だけでなく会津藩の人足が各村に割り当てられたので、それぞれの村から、費用村持ちで、京都に詰めなければならなくなったそうです。東大阪の我が家の一角も幕末の動乱に巻き込まれていたんですねえ。

蛤御門

蛤御門
昨日、京都まで行ったので久しぶりに蛤御門を見てきました。地下鉄・丸太町駅を上がると、すぐ御所ですので、少し歩いたところに蛤御門があります。
幕末に禁門の変(蛤御門の変)が起きたところです。政変で京都を追放された長州藩が、御所の会津藩、薩摩藩を攻めた事件ですが、結局、長州は負けてしまい、朝敵となってしまいます。松下村塾の久坂玄瑞、寺島忠三郎は鷹司邸で自害。入江九一は鷹司邸を出たところで討ち取られます。大河ドラマ「花燃ゆ」では東出昌大が久坂玄瑞、鈴木伸之が寺島忠三郎、要潤が入江九一役でした。
蛤御門の周辺が長州との激戦地となり、門柱には弾痕が残っています。結局、京都市街も焼けてしまい、”どんどん焼け”と呼ばれています。京都人が”先の戦”というと太平洋戦争ではなく、蛤御門の変と答える逸話が生まれることになります。
主戦派だった真木和泉は敗残兵と共に天王山で戦いましたが敗退し、自害します。JR山崎駅から秀吉が造った山崎城へ登る途中に「十七烈士の墓」があります。

スプーン作り

スプーン
昨日は船場総研(中小企業診断士の集まり)のイベントで秋の京都へ。
地下鉄・丸太町駅に集合し、家具で有名な夷川通へ。稲井ビルディング2Fに、クリエイター達が集まるお洒落なABSという場所があります。まずは、ここでスプーン作りのワークショップ。
美山在住の木工屋さんsola works代表・鈴木さんの指導のもと、荒削りしたスプーンを形にしていきます。何十年ぶりかに持つ彫刻刀やナイフ、豆カンナで悪戦苦闘。ふだんはよくしゃべるメンバーが黙々と誰もしゃべらずに集中して仕上げていきます。
ウーン、仕事よりも集中しますねえ。(笑)途中、2名ほどケガ人が出ておりました。最後に紙やすりをかけてニスみたいなものを塗って、完成です。
第2部はABSに入っているconnectさんやmisoさんによるプレゼン。終わってからはいつものように宴会でした。

織田有楽斎の近くにいた片桐且元

茨木
織田有楽斎の領地だった摂津・味舌を通っていたのが亀岡街道。亀岡街道は、大阪から北摂を経由して丹波の亀岡に向かう街道です。亀岡街道は味舌から5kmほど北に行った茨木城の近くも通っていました。
織田有楽斎が味舌を領していた頃の茨木城・城主は片桐且元と弟の片桐貞隆です。方広寺鐘銘事件の処理などで大坂方から疑われ、結局、徳川方についたあの片桐且元です。
片桐且元、織田有楽斎ともに大坂城につめていたので領地では会わなかったかもしれませんが、けっこう近接した場所でした。茨木城から京都寄りにある高槻城は大坂の陣の頃、徳川氏の直轄地になっており、大坂の陣で高槻城は補給基地となります。南の兵站基地は堺で、こちらは大坂方に焼きうちされます。