我孫子城

あびこ観音
企業さんへ訪問した後、我孫子へ。
我孫子は上町台地の南端になっていて、少し微高地になっています。今は環濠がなくなってしまいましたが、戦国時代は我孫子環濠集落になっていました。地下鉄・御堂筋線が通っていて「あびこ駅」があります。
戦国時代の始まりとなった明応の政変があった頃から、我孫子は軍勢の駐屯地になったことから、いろいろな古文書に登場します。環濠集落の一角にあったのが我孫子城です。城跡は何も残っておらず「あびこ観音」して親しまれている吾彦山大聖観音寺の境内が我孫子城の城域であったと言われています。
615年、大阪夏の陣があり真田信繫の突撃にあった徳川家康が「あびこ観音」に逃げ込み、本堂の須弥壇に隠れて難を逃れたという話があります。

枚岡祭り 太鼓台踏切越え

枚岡祭り
昨日、カタシモワイナリーから枚岡駅へ戻るとちょうど枚岡祭りの宮入の最中。
見所はいろいろあるのですが、枚岡駅横の踏切越えがいいですね。近鉄電車の職員が踏切にはりついて電車のタイムテーブルを確認し、余裕がある時間帯を見つけ太鼓台を通します。踏切を超えた先にはきつい登り坂がいきなり始まります。
昨日は祭りで沿線に人が多いこともあり電車も徐行状態。タイムテーブル通りに走らなくなってきたため最後の四條太鼓台の踏切通過では警報器が鳴る中、電車の方を止めて太鼓台を通していました。
▼四條 踏切越え
https://youtu.be/KE4nNEm-NMk

カタシモワイナリー

カタシモワイナリー
中小企業診断士の船場勉強会のOB組織が船場総研で年に何回かイベントをしていますが、本日は柏原市にあるカタシモワイナリーへ。
まず安堂駅で待ち合わせをしたのですが、案の定、電車を間違えて別の路線に乗ってしまい、遅れるとの連絡がいつものメンバーから入ります。ここまで迷えるともはや特技ですねえ。
とりあえず遅刻者を待つ組と先発隊に分かれ、私は先発組に合流して出発。地図とスマホナビを装備した先達者に着いていくと、どんどん山の中へ。結局、迷ったということカタシモワインへ着いた時には後続隊とほとんど同じ到着時間でした。
カタシモワイナリーの高井社長に苦労話やたこ焼きにあうシャンパンをコンセプトにした「たこシャン」開発など、いろいろな話をお聞きしてから、工場見学をし、次にブドウ畑へ移動。ここでもブドウにまつわるお話しや耕作放棄地問題、マーケティングなどについてお話しいただきました。
お昼は古民家で、なんとフランス料理のフルコース。高井社長にワインのサービスをうけながら、シェフによる料理の説明付きでなかなか贅沢な時間でした。船場総研でフランス料理なんて、おそらく初めてです。新酒のカタシモワインはとってもいい香でおいしかったですね!グラッパもおいしかった!

枚岡祭り

枚岡祭り
雨が降ろうが風が吹こうが10月14日、15日は枚岡祭りです。
河内一ノ宮である枚岡神社の秋郷祭。なんせ枚岡神社は中臣連の神さんを祭っていて、奈良の春日神社の神さんはこの枚岡神社から勧請されましたので元春日とも言われています。なんせめちゃくちゃ古い神社です。
枚岡神社の氏子である出雲井・鳥居、額田、宝箱、豊浦、五条、喜里川、客坊、河内、四條から23基のふとん太鼓が出て、境内をねり歩き、「ちょうさぁじゃっ!!」「えんやさぁじゃ!」の掛け声が響きます。
夜、帰ってから祭りを見に行きましたが、いつみても勇壮ですね。金曜の夜というのに人で一杯でした。なにより楽しみは枚岡駅から額田駅までずらっと並んだ屋台です。

摂津 沢良宜城

沢良宜城
阪急南茨木駅から少し行ったところにあるのが沢良宜城跡。城跡はマンション群になってしまい、マンション横の公園に案内版が建っています。2つの川に囲まれた要害の地に城跡があり、案内版には足利義満が将軍の時に起きた応永の乱について掲載されていました。
応永の乱とは周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護だった大内義弘が、室町幕府に反旗をひるがえし堺に攻め上ってきた事件です。結局、鎮圧されるんですがこの時に沢良宜城主だった藤井三位が将軍の馬廻り衆として出陣したとあります。
沢良宜城は、応仁の乱の頃には廃城になっていたようです。けっこう大きな城で環濠の砦だったようで微高地に作られていました。古い字名に”城ノ内”や”城ノ前”というのが残っていたようです。
マンション横に南北に伸びた佐和良義神社がありますが、ここが馬場跡だったようです。近くに道祖神社があり、裏手に土塁のようなものがあったので、ここは出城だったかもしれません。

ツンドクが増えた

本
サンパルにある「ひょうご産業活性化センター」で窓口相談をしていた時は隣のダイエーにジュンク堂があったので、昼休みに本の買い出しにせっせと通っていました。
最近は三重県産業支援センターとマイドーム大阪で窓口相談をしていますが、問題が一つあって昼休みに行けるようなところに本屋がない!
三重県産業支援センター近くの四天王寺会館に古本屋ができたと聞いたので、先日行ってみましたが、まだまだ本が少なかったですね。
今日は久しぶりに丸善へ行けたので、ドヤドヤと7冊ほど買うと1万円ほどに、鞄に放り込んで帰ってきましたが、ツンドクの山に追加されただけ、我ながらいつ読むんだろう。でも見つけた時に買っておかないと本屋の棚からはすぐ消えてしまいますねえ。

家康陣跡
大河ドラマ「真田丸」、いよいよ大坂の陣ですね。
我が家のすぐ近くを東高野街道が通っています。ここに枚岡中央公園という小さな公園があり、滑り台など遊具が揃っていて、ウチの子供も小さい頃はよく遊んでいました。
東高野街道とは京都と高野山を結ぶ道で東大阪では生駒山麓を通っています。古代から軍隊が移動する道で、四条畷の戦いの舞台にもなりました。大坂冬の陣では徳川秀忠が東高野街道を南下し、大坂城の南側に展開しました。
このあたりは豊浦村で、公園一帯にあったのが庄屋・中村屋敷。少し高台になっていますので、当時は大坂城まで見渡せたはずです。冬の陣では徳川秀忠が中村屋敷に泊っています。夏の陣では家康も東高野街道を使いましたので、河内岡山城近くの砂に泊った後、この中村屋敷に泊ったようです。公園の一角に碑があります。

河内廃寺跡

河内廃寺跡
近鉄奈良線が瓢箪山駅に向かって生駒山山麓を下る時、ちょうど瓢箪山駅手前のカーブ右手に見える空地が河内廃寺跡です。
ずっと空地でしたが、今は史跡公園にするための工事がすすんでいて、久しぶりに見に行ったら礎石などがきれいに並べられていました。ゴチャゴチャした住宅地の中にありますので、地図を見て行ってもたどりつくのはちょっと大変です。来年4月に一般公開の予定です。
河内廃寺は7世紀中頃に創建された古代寺院で発掘調査の結果、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置になっています。隣りには河内郡衙があったようです。郡衙(ぐんが)とは、古代律令時代の役所です。7世紀中頃というと白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に日本が大敗し、高安城や屋嶋城、金田城が造られ、その後に壬申の乱が起きた頃になります。
河内廃寺跡近くを東高野街道が古代から通っていますので街道を見下ろす微高地に寺が作られ、街道からは優美な姿が見えたでしょうね。発掘調査によると寺が廃寺になったのは鎌倉時代末期頃で土石流で崩壊したようです。

よろず塾ワークショップセミナー

大阪よろず塾
大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
午後は西谷コーディネータと”よろず塾ワークショップセミナー”を開催。「成果の出るWEB活用法をモノにする!」編の2回目です。
ソーシャルネット活用からリアルでの広報までを学ぶ!(ネットを活用したプロモーション&販路拡大)というタイトルでFacebookなどの活用法やSNSが効果的にいかすためのプロモーションについて説明しました。

平野氏陣屋跡

田原本
近鉄・田原本駅の東側は城下町になっていて小さな通りが碁盤の目のように走っています。
駅から少し行った田原本町役場あたりにあったのが平野氏陣屋跡。陣屋の遺構は残っていません。戦国時代、田原本をおさめたのが平野長泰という人物。賤ヶ岳の七本槍で有名です。七本槍というと福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元の5人は真田丸にも登場して有名なんですが、糟屋武則と平野長泰はあまり知られていません。
実は真田丸に平野長泰は登場していて、母衣衆になった信繁の上司です。信繫に「おまえはいいなあ」と言ったり、胡散臭さい人物として描かれています。
もともと尾張津島の住人で平野村をおさめていたことから平野氏という名前にしています。織田信長は祖父の時代から津島の経済をおさえたことでビッグになりましたので、津島は賑やかな町だったでしょう。
若き平野長泰は秀吉に仕え、軍功をあげていきます。そして与えられたのが田原本です。関ヶ原の合戦では徳川秀忠に従っていたので、上田城攻めにも加わっていたでしょう。大坂の陣では一転、大坂方につこうとしますが、家康に止められます。戦国時代の武将としては珍しく天寿を全うしました。