よろず塾ワークショップセミナーを開催しました

よろず塾ワークショップセミナー
大阪府よろす支援拠点の「よろず塾ワークショップ」。
本日と次週の2回で開催します。テーマは「成果の出るWEB活用法」をモノにする! 編。ワークショップ形式で行うので、限定20名の募集ですが申込開始と共にすぐに埋まってしまいました。
本日の内容は「あなたのホームページは見る人のニーズを考えていますか?自分のよさをアピールして売り上げアップ!!」ということでサイトのターゲットとニーズを妄想(ペルソナ分析)し、タイトルや説明(descrption)をしっかり作って自社のよさをアピールしましょうという内容です。フューチャーライトコンサルティング代表の西谷さんと2人体制で行いました。
18時から21時までの長丁場ですが、皆さん熱心に取り組んでおられました。次回は「ネット活用はホームページだけと思っていませんか?ソーシャルネット活用からリアルでの広報までを学ぶ!!(ネットを活用したプロモーション&販路拡大)」です。

カレー専門店B

 
カレー専門店B
大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
お昼は地下鉄谷町四丁目駅のすぐ近くにあるカレー専門店Bへ。このお店は昭和62年に開業した老舗で、谷町四丁目界隈のカレー戦争の火付け役となったお店です。
今日は21時まで「よろず塾ワークショップ」をやらないといけないので、お腹が減るといけないとチキンカレーの大盛りを頼みましたが、量がすごかった(笑)

天野屋利兵衛は男でござる

天野屋利兵衛
マイドーム大阪の裏口が東横堀川となりますが、この一角に「義侠 天野屋利兵衛之碑」があります。
天野屋利兵衛って、あの忠臣蔵の天野屋利兵衛!!
忠臣蔵十段目に登場する堺の商人が天野屋利兵衛(忠臣蔵では天河屋義平)。吉良邸への討ち入り用と判っていながら、赤穂浪士に武器を援助する商人として登場。役人(実は天野屋利兵衛の真意を疑う赤穂浪士が変装した姿)の取り調べを受けますが、決して口を割りません。武具が入っている長持の上に座り、有名なせりふをはきます。それが、「天野屋利兵衛は男でござる」。
天野屋利兵衛は実在した人物で、熊本藩細川家と岡山藩池田家の大阪屋敷に出入りしていたと伝わっています。屋敷が東横堀川に架かる大手橋(本町橋から北に2つ目の橋で、マイドーム大阪のすぐ近く)のたもとにあったと伝承されています。それで碑が建っているんですね。
天野屋利兵衛は忠臣蔵で有名ですが、赤穂浪士とは関係がなかったというのが定説です。ところが赤穂浪士の一人である大高源吾が墓のある薬王寺に共に葬られていますので、なにかあったのかなあ。竹本座のパトロンでもあったので、自分が登場するように画策したとの説もあります。
そういえば幕末、高杉晋作を助けた政商として白石正一郎の名前がよく上がりますが実際はそれほどでもなく、入江和作が幕末の志士たちを援助し、高杉晋作の住居の世話や「おうの」
の面倒もみていましたが、あまり世間に広まっていません。

マイナンバーを漏洩すると執行猶予がつかない

ITC三重
ITC三重の定例会
2016年1月からスタートするマイナンバー制度がテーマで村阪理事長から話をしてもらいました。
マイナンバーなどを従業員が名簿屋などに売ってしまうと4年以下の懲役もしくは200万円以下の罰金となりますが、執行猶予が3年なので4年フルの刑となると執行猶予がつかず実刑になってしまいます。また、個人情報保護法と違い、従業員と共に法人も罰せられます。
従業員からマイナンバーを集めるタイミングは12月に年末調整の扶養控除等異動申告書を出してもらうので、この時にマイナンバーを集めるのが現実的。意外なところでは駐車場を個人から借りている場合や株主の配当支払いでもマイナンバーが必要となります。本人確認で免許証などがない場合、2016年1月から住民票に個人情報が入るので、それで代用ができます。
大企業ではマイナンバーカードについているICチップから読み取りするようなことを考えますが、中小企業の多くは手書きでの転記になります。絶対に間違いが発生するのを行政はどうするつもりなんだろうという議論になりました。

本能寺の変は今週、日曜日

備中高松城
備中高松城の戦いシリーズの最終回。(笑)
高松城の周りは湿地帯で城を攻めるには狭い道を行くしかなく、城から狙い撃ち。「のぼうの城」で有名な忍城と同じ沼城でした。ですので高松城の経験があった秀吉は三成に水攻めを命じたのでしょう。
■水攻めの開始
秀吉は高松城を3万の軍勢で囲み、攻めてみましたが敗退。そこで誰もやったことがない水攻めを開始します。工事に着手したのが1582年5月8日。旧暦ですので新暦にすると5月29日となります。完成に12日かかりましたので、新暦の6月9日に完成。足守川の水をせき止めて流し入れ水攻めを開始。
ちょうど梅雨シーズンで、今日のような雨が降り、みるみる水位があがっていきます。後詰(援軍)に来た毛利軍も手が出せず講和の申込をしますが、秀吉は信長に出陣を待って毛利攻めをするために、ノラリクラリと講和を引き延ばします。
■本能寺の変はこの日曜日
信長に京都から来てもらうため山陽道と高松城までの街道を整備し、途中に休憩所なども造っていたのでしょう。秀吉の中国大返しができた理由に、この街道整備が大いに貢献しました。
1582年(天正10年)の今日、秀吉は水攻めの真っ最中。高松城の士気を下げるために石井山の付城で宴会でもやっていたのでしょう。明智光秀は今日、丹波亀山城に入り、出陣の準備をはじめます。信長は安土城にいて、森蘭丸など小姓を連れ京都へ出発するのが金曜日。
本能寺の変は21日(日)になります。来週の月曜日に本能寺の変が秀吉の本陣にもたらさせ、来週から怒涛の人生が秀吉を待つことになります。

総社はめんどうくさいから生まれた

吉備津彦神社
備中高松城シリーズの番外編。
岡山から高松城へ行く途中にあった備前国一宮・吉備津彦神社へ行ってきました。中山の麓にありますが、山の反対側には備中国一宮・吉備津神社があります。吉備津彦命は崇神天皇の時代に日本の4ケ所に派遣された四道将軍の1人で、山陽道に派遣されました。お墓は山の上にありますが、
邪馬台国ではないかといわれている奈良の纏向遺跡から吉備の土器が見つかっており、最初の国造りに参加したのは確実なようです。吉備津彦神社のあたりが古代の聖地だったんでしょうね。
岡山に総社市というところにありますが、昔、国司が任地に赴任すると一宮から順番に土地の神様を回っていました。ところが、全部回るのは面倒くさいと始まったのが総社です。これは国内の神社を国府の近くの1ケ所に集めることで、総社神社や六所神社という名前で全国に残っています。
岡山県の総社市には美作国の総社神社があります。

宇喜多家の陣跡

宇喜多陣跡
先日行った、備中高松城シリーズ第4段!(笑)
秀吉側で戦った宇喜多忠家の陣跡。八幡山の山頂で、現在は八幡神社が建っています。宇喜多といえば宇喜多直家が有名で、当初は毛利方でしたが後に織田信長に降参しています。これで備前(岡山)は織田方となったため毛利との境目は備中となりました。毛利方の防波堤となったのが備中七城、その一つが備中高松城です。いわゆる境目の城となりました。
宇喜多直家は備中高松城の前年に病没しており、後は嫡男の宇喜多秀家が継ぎましたが、まだ10歳と若かったため叔父の宇喜多忠家(直家の弟)が宇喜多勢を率い高松城攻めに参戦しています。宇喜多忠家が陣をかまえた八幡山の眼下が高松城で、向こう側には堀尾吉晴や秀吉の陣が見えます。なかなか眺めがよい陣跡です。
家督を継いだ宇喜多秀家は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室として秀吉の一門衆となりました。関ヶ原の戦いでは石田三成と共に戦い敗北。薩摩まで逃げ島津が家康と交渉してくれ、結局、八丈島に流されることになります。83歳まで長生きし、関ヶ原を戦った大名の中では最後に残った一人となりました。

国宝・松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていた場所

堀尾吉晴陣
先日行った、備中高松城シリーズです。(笑)
秀吉の本陣がある石井山のすぐ前に小高い岡があり、ここに陣を構えていたのが堀尾吉晴。今は神社になっていますが、神社の裏側にまわると堀切が残っていました。
秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣が堀尾吉晴。今度、天守が国宝となる松江城を造ったことでも有名です。備中高松城の水攻めをしたていた頃は38歳の壮年でした。秀吉の信任も厚く、備中高松城城主の清水宗治が自決した時は検死役を務めています。
備中高松城の戦いが終わり、中国大返しの時の山崎の戦いでは明智光秀軍に対して先手の鉄砲頭として参加し手柄をたてます。九州征伐や小田原征伐にも従軍。小田原征伐の後、関東に移封された徳川家康の旧領・浜松城主12万石に封じれます。秀吉が亡くなった後は徳川家康と結び、関ヶ原の戦いでは東軍側に参加。
やがて松江24万石に封じられ、尼子氏の本拠地だった月山富田城に入りますが、山城だったので平地である松江に松江城を造ります。この時に築城年を記した「祈祷札」が天守につけられました。築城の年代を証明する大事な札でしたが、1937年以降に所在不明となったため松江市が懸賞金500万円をかけて探したところ松江神社にあるのを発見。これが決め手となって国宝の申請をします。札が見つかった松江神社は懸賞金の受け取りを辞退しています。
松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていたのが、この場所です。

「本能寺の変」の知らせが飛び込んだ秀吉本陣

秀吉本陣
岡山へ行ったついでに備中高松城と付城(敵城を攻めるための城)を巡ってきました。まず、備中高松城を見下ろす石井山。ここに秀吉の付城がありました。石井山の頂上に登ると開けたところがあり、ここが秀吉の陣跡。備中高松城が眼下に見えますが、かなり近いので人の識別ができるほどです。ここなら清水宗治の姿もよく見えたでしょう。
この秀吉の陣に飛び込んできたのが「本能寺の変」の知らせ。通説では毛利軍と間違って使者が紛れ込んでしまったとありますが、旗指物を見たら、どの軍かわかるし、毛利軍は水攻め堤防の先の山々に陣取って、同じように旗指物を上げていましたから、間違うことはなかったでしょう。となると明智光秀が秀吉に知らせたことになりますが、抜け目ない秀吉だったので、なにか変事が起こればすぐに知らせを送る自前の通信網をあらかじめ作っていたのでしょう。
いずれにしても、この場所で安岡寺恵瓊を通じて毛利方と交渉が始まります。清水宗治の自害と引き換えに城兵を助けることで話がつき、清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、小舟に乗って、舞を踊った後に自害。首は秀吉の陣に運ばれて、首実検が行われ、篤く葬られました。陣のすぐ隣に清水宗治の首塚がありました。
毛利軍の撤退を確認した後、水攻めの堤防を決壊させ、ここから秀吉の「中国大返し」が始まります。ここが、まさに、その場所だったんですねえ。以前に書いたガイド記事が、ちょうどこの場所のことでしたので感慨深いものがありました。
→ 中国大返し 秀吉に本能寺の変の第一報が

烏帽子型城(河内長野)

烏帽子型城
専門家派遣が午前中で終わり、雨も上がったので河内長野へ、烏帽子形城へ出かけてきました。
河内長野駅を降り、風情がある高野街道を歩くと天野酒の蔵元・西條合資会社があります。享保三年(1718年)創業の蔵で、豊臣秀吉が愛した僧房酒を復活した蔵元としても有名です。蔵元のすぐ近くから城跡まで看板が出ていました。山城跡で看板があるのはありがたいですね、さすがは国指定史跡。城跡は河内長野駅の近くにある烏帽子形山の山頂にあります。
烏帽子型城は楠正成が作ったといわれていて、当時は上赤阪城などと連携していたのでしょう。室町時代は畠山氏の城となり、秀吉の紀州攻めでは中村一氏が城の普請をしています。イエズス会の報告書にも出てくる城でキリシタンの領主もいたようです。烏帽子型城は単郭の城ですが、かなり複雑な縄張になっています。掘跡や櫓の跡がはっきり残っていて、公園になっていますから木も伐採されていて、郭跡もよく分かり、堀跡も歩けます。もっとも公園化によって改変された所もあります。
南海特急が停車する駅から少し歩いた所に見事な山城が残っているのがすごいですねえ。烏帽子形城はきちんと整備されており、スーツ姿でも登れる山城で、おすすめです。ただ縄張図などは事前に調べて行かないと、説明がどこにもないので要注意。予備知識がないと、なんでこんなにデコボコしたり、穴が空いているだけで、どこが公園なんだ、になってしまいます。