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青山町の初瀬街道沿いにあるのが若戎酒造
城巡りのついでに寄ってきました。冬なので加熱処理していない生の瓶詰の「しぼりたて」シーズン。お店に行ったら純米吟醸の「しぼりたて」がありました。本当は純米に「しぼりたて」がいいのですが、若戎は純米吟醸しか作っていません。とってもフルーティーな味。
若戎酒造は嘉永6年(1853年)創業。黒船来航で騒然とする幕末に酒造りをはじめ、昨年、創業160周年でした。創業時の当主が義左衛門という名前から酒銘が義左衛門になっています。
江戸時代、上方では福の神「えびす」の像が刷られた、若戎と呼ばれるお札を元旦から売る風習がありました。元旦になると早朝から「わかえびす、わかえびす」とえびす売り声が響き、新年の朝一番から福を招き入れようと、お札を買い求めました。ここから若戎という名前をつけたそうです。1月に飲むには縁起がよいお酒です。
近くには江戸時代に勧請された「えびす神社」もあり、商売繁盛をお願いしてきました。
桐ケ谷城 三重県・青山町
青山町駅の北側に城氏城がありますが南側にあるのが桐ケ谷城。
桐ケ谷城も青山町駅のホームから見えていて、鉄塔が建っている山です。坂を登り、山に着いたら道なきヤブの中を登っていきますが城氏城ほど急ではありません。ですがスーツ姿で登るのはあまり、おすすめしません、(笑)
頂上に方形郭で四方が土塁と堀に囲まれた城があらわれます。かなり崩れていますが土塁の高いところは5メートルぐらいありました。郭の中はけっこう広いのですが、ヤブ状態。木に青いパネルがつけられており、伊賀の山城ではこの青いパネルに城の名前が書かれていて本丸跡の目印になります。もっともパネルに桐ケ谷城の字は見えないぐらいになっていました。
城の記録は残っていないようですが、すぐ近くに初瀬街道(奈良と伊勢を結ぶ街道)があり、街道のすぐ山側に阿保城(あおじょう)があります。聖武天皇の阿保頓宮があったとことも言われています。
桐ケ谷城は阿保城のすぐ裏手の山なので阿保城の詰城か支城だったのでしょう。城氏城が初瀬街道の向こう側に見え、青山町の街道宿は城氏城、桐ケ谷、阿保城の3つの城が連携して守っていたのでしょう。
城氏城 天正伊賀の乱の舞台
専門家派遣の帰りに近鉄・青山町駅で下車。
青山町駅のホームからすぐ北に小山が見えていて日生学園の看板がかかっていますが、ここが城跡。低い山なのでスーツで大丈夫だろうと、登りはじめましたが、これが大きな間違い(笑)。途中からヤブだらけの崖をエッチラオッチラ登ることになってしまいました。
城を探索して帰りに分かったのですが、登るのなら山沿いの西に舗装されていない道の途中に山から水が流れているところがあり、ここからだと比較的、簡単に山に登れます。たぶん大手道だったんでしょう。本丸近くまで水の流れが続いていて、籠城するなら水の確保はとても重要です。現在まで水の流が続いているとなると、かなり考えて縄張したのでしょう。
この城は城氏の城ということで城氏城という名前になっています。城八太夫という人物がいて、信長と戦った天正伊賀の乱について書かれた伊乱記に名前がでてきます。城氏城も天正伊賀の乱の舞台だったようです。青山町は青山高原を超えたところにあり、伊勢から北畠(織田)信雄が攻めると、ちょうど伊賀への入口にあたりますので、いの一番で攻められたんでしょう。
いくつかの郭と本丸を取り巻く堀と土塁がなかなか見事でしたが本丸は狭かったです。歩いて15歩ほどしかありませんでした。
今日、1月23日は電子メールの日
今日、1月23日は電子メールの日です。
「1・23」→「いい・文(ふみ)」→「E文」の語呂合わせで、電子メッセージング協議会(JEMA)が1994年に制定しました。
いまさらなんですがメールをきちんと送っていますか?
誰でも、「面と向かって言いづらい」ことはあると思います。特に上司には。
直接怒鳴られたりする可能性のないメールなら、比較的言いやすいですが、これは要注意です!!
重要な案件の場合は、最も迅速かつ確実な方法で報告しましょう。目の前に上司がいるのであれば、最も確実な方法は「面と向かって直接話すこと」です。もし上司が出張中などで、電話をしても繋がらないなどといった状況では、留守電に「ライバルに契約を取られてしまいました。詳細はメールしておきますが、時間が空いたら折り返し電話をしてください。」とメッセージを残し、メールで経緯や理由を報告するとよいでしょう。
【ワンポイントアドバイス】
・重要な報告は、”最も迅速で確実な方法”で報告する。優先順序は、以下の通りです。
(1)直接口頭で
(2)電話
(3)メール・FAX
▼一通のメールが信頼を失う
ITコンサル 水谷哲也式 管理職のためのメールマネジメント
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陣屋おそるべし
黒田官兵衛 備中高松城を水攻めにする
茶臼山古墳 真田幸村の陣跡
今年は大坂夏の陣から399年(来年が400周年)。
和睦で堀が埋め立てられ裸城になってしまった大坂城では野戦するしかなく、真田幸村が陣取ったのが茶臼山古墳。今は天王寺公園の中にあり、ハルカスがすぐ近くにあります。
茶臼山古墳のすぐ近くにあるのが四天王寺で、四天王寺南門前に布陣したのが毛利勝永。戦闘が始まると本多忠朝、小笠原秀政らを瞬く間に討ち取り、酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破。あわてたのが徳川方、毛利勝永の軍勢をとめようと各軍が殺到。
ぽっかり穴が空いた所に真田幸村隊が突進。松平忠直隊を突き抜け、徳川家康本陣を襲います。徳川家康の本陣は天王寺駅の少し向こうの阿倍野あたりでした。家康本陣を3回攻撃し、武田信玄との三方がケ原の戦いで馬印を倒されていらい、倒れることがなかった馬印を倒されます。家康もかなり危なかったようで、この時に家康は殺され堺にお墓が作られたという話まで残っています。
真田隊は力尽き、茶臼山古墳のすぐ北にある安居神社の地で休んでいた幸村が討ち取られます。真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、毛利勝永は反撃してきた藤堂高虎隊を打ち破りながら撤退します。
茶臼山古墳は上まで登れますが、かなり広い平場になっていて陣を置くには最適。大坂冬の陣では反対に徳川家康が茶臼山古墳を本陣にしていました。
大坂国誕生の地 真田丸
近鉄名古屋駅に丸い柱と四角い柱がある理由
近鉄名古屋駅の普通や急行が止まるホームは丸い柱になっており、奥の特急乗り場のホームは四角い柱になっています。
現在の地下鉄の駅ができたのは戦前の昭和13年。当時は関西急行電鉄の時代で、あまり金がなかったので1面1線の配線にする予定でしたが、将来の発展を見込んで3面3線の駅にしました。この時に工事をして出来たのが丸い柱。
ところが戦後、輸送量が増えたこともあり1967年(昭和42年)に4面5線への拡幅工事を行います。この時に工事で増えたホームが四角い柱になりました。奥が特急乗り場になっていますが、何とか8両編成が止まるようになっています。
手前の急行の乗り場はホームの端まで止めて、やっとさ6両編成が止まります。名古屋駅以外の急行が止まる駅は8両編成でも大丈夫なんですが、名古屋線は名古屋駅のせいで朝夕、混んでいても6両編成になっています。
奈良と大阪難波を結ぶ奈良線は10両編成の急行が走っているのですが、奈良駅が名古屋駅と同じ地下駅で余裕がないので、西大寺駅で電車をつないで難波まで10両で走らせています。名古屋線の場合は名古屋へ行く通勤・通学客が多いので、途中で車両を減らすわけにはいかず、ずっと6両編成のままでしょうね。