明智越え

明智越え

保津城が守ってきたのが「明智越え」という街道です。

亀岡から京都へ行くには唐櫃(からと)越え、山陰道、明智超えの3つの道がありました。明智越えは亀岡と嵯峨を結ぶ古道で、本能寺の変では部隊の一部がこの道を通って本能寺に向かったと伝わっています。住宅街を保津の高台に登っていくといきなり明智越えの山道が始まります。

住宅街の途中には愛宕という石標がいくつか建っていて、明智越えは愛宕神社参拝路でした。保津から愛宕山南麓の水尾に出て愛宕神社に登ります。水尾から嵯峨にも山道が通じています。明智光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから明智越えと呼ばれるようになります。本能寺の変の前、光秀は愛宕神社に参詣し連歌会を催します。この時に「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」という有名な句をよみます。

保津山城

保津山城

保津東砦から二重堀切を超えると保津山に登る山道(送電線の保線路)があり、これを登っていきます。途中までは階段もあって快適に登れます。保津山城は保津城の詰城だったようです。規模が大きな郭が数段にわたって連なっていて、送電線の鉄塔よりも奥に郭が続き、頂上付近にある大きな堀切まで続いていました。

堀切は堀切道として使われていますが、こちらから城に入るのはけっこう大変で、二重堀切から登るのが一番です。堀切道は丹波と京都を結ぶ街道だったため、この街道を守るための城でもありました。

保津東砦

保津東砦

保津城の裏側に土橋があり、ここから山道が続いており、頂上ちかくまで登ると見事な二重堀切があります。二重堀切の東側に郭が連続しており、今は低くなってしまいましたが土塁跡が残っていました。ただ小規模なので砦だったようです。今は林などで眺望がさえぎられていますが、当時は保津川や丹波亀山(亀岡)の地がよく見えたでしょう。

また砦の近くを丹波と京都を結ぶ街道が通っているので、こちらを監視する砦でもありました。

保津城

保津城

亀岡駅からサンガスタジアムを横目に進んでいくと保津川下りの乗船場があり、橋の下を乗客を乗せた船がくぐっていきます。さらに山へ登っていくと京都へ向ける明智越と呼ばれる山道があり、この山道を守る位置にあるのが保津城です。いつできた城かは分かりませんが、南北朝時代の観応3(1352)年に保津城を攻め落とした文章があり、それ以前に城があったようです。

光秀の頃には村上紀伊入道が保津の領主だったようで、柿を送ってもらった光秀からの礼状が残っています。保津城には三段になった郭や堀切、土塁が残っています。ちょっと高くなった櫓台跡もありました。広い郭は館城になっていたようです。藪もありますが比較的整備されていて案内板もありました。

週休3日はどこへいった

猫

前期高齢者になったので、「毎日が日曜日」ではなく。仕事をセーブして週休3日を目指しています。

の予定だったんですが、今日はLEC梅田で経営情報システムの講義。日程は1年前に打診があり、その頃は何も考えてなかったのでOKを出してしまっていました。ウーン。

明日から大学での講義も始まるのですが、誤って受講登録をした学生からの連絡などの対応を土曜日にしておりました。週休3日はどこへいったんだあ!

丹波亀山城

丹波亀山城

明智光秀は丸岡城(余部城)を拠点にしていましたが新たに荒塚山と呼ばれる小高い丘に丹波亀山城を築城します。JR亀岡駅のすぐ近くです。丹波攻略の拠点にするため城下町を整備し総構えになっていました。本能寺の変で光秀が出立したのがこの丹波亀山城です。

その後、城主がいろいろと変わり、小早川秀秋によって修築され、家康の時代になると天下普請により藤堂高虎の縄張りによって近世城郭となりました。現在の城はこの当時のものですが、石垣の下の方は野面積みになっていて光秀か小早川の時代の石垣でしょう。途中から打込み接ぎになっていて変遷を楽しめます。

大正時代に荒れ放題になっていて売りに出された丹波亀山城を買ったのが亀岡生まれで大本の教祖となる出口王仁三郎です。太平洋戦争中は軍部から迫害を受けてせっかく整備した丹波亀山城も破壊されましたが、戦後に石垣などを積みなおし再整備しました。今、中心部は宗教施設になっていますが、総合受付で入館券を購入すれば天守台近くまで行けます。

丸岡城(余部城)

丸岡城(余部城)

京都から続く山陰道が亀岡の曽我谷川を超えると余部という場所になります。ここで山陰道と別れ、篠山街道が始まります。いきなり高台を登ることになり、この高台にあったのが丸岡城で、付近には古城、政所などの地名が残っています。昔は曽我谷川などが城の近くにあり天然の堀になっていました。応仁・文明の乱の時には城はあり、丸岡城は東軍の拠点になっていました。

明智光秀の丹波攻めで丸岡城は落城し、光秀は丸岡城を拠点にしていましたが新たに亀山城(今の亀岡城)を築いて移りました。丸岡城の遺構は残っておらず主郭のあったところが西岸寺になっていて高台なので亀岡を一望できます。

入鹿の首塚

入鹿の首塚

乙巳の変-645年に起きたクーデター。昔は大化の改新と習いましたが、今は乙巳の変の後に行われる政治制度改革を大化の改新と呼んでいます。

中大兄皇子と中臣鎌足が談山で密談し、三韓(新羅、百済、高句麗)からの使者が来日した式典にあわせて蘇我入鹿を暗殺します。今なら皇居で外国の特命全権大使が信任状を捧呈している最中に総理大臣を暗殺するようなものです。蘇我蝦夷は甘樫丘にあった蘇我邸を燃やし自殺します。昔からいろいろ説がありますが、結果的に一番得をしたのが孝徳天皇(軽皇子)なので首謀者ではないかと言われています。

飛鳥寺の横に入鹿の首塚があり、邸宅があった甘樫丘が見えますが、暗殺されたのはここではなく飛鳥板蓋宮になります。切られた首が飛んできて埋めたという伝説があります。

日本史には全然、出てきませんが蝦夷には蘇我善徳(蘇我馬子の息子)という兄がいて飛鳥寺の初代寺司を務めていました。業績を書くとまずいのか日本書紀には一文しか出てこない謎の人物です。

豊浦宮

豊浦宮(とゆらのみや)

豊浦宮

甘樫丘からちょっと行ったところに豊浦宮跡がありますが、飛鳥寺などの華やかさがないためか観光客は誰もいません。592年に推古天皇が即位した宮殿で推古天皇の祖父である蘇我稲目の向原の家がありました。

■仏教伝来の地
百済から仏像が送られ蘇我稲目がこれを受け入れて、向原の家を寺として安置しました。反対したのが物部守屋です。昔、日本史で習いましたね。その後、疫病が流行ったため物部氏、中臣氏が国神のたたりだと騒ぎたて仏像を難波の堀江に流し、寺は焼きはらわれます。この仏像が拾われて長野に運ばれて善光寺におさめられました。ほんまかいな。

仏像を捨てた難波の堀江ですが大阪の大川もしくは阿弥陀池(和光寺)、向原寺の横にある池などの諸説があります。

推古天皇の一代前の崇峻天皇は桜井から談山神社へ行く途中にある倉橋に宮殿をおいていました。ところが崇峻天皇は蘇我氏と対立し、馬子に暗殺されてしまいます。蘇我氏は本拠地である飛鳥に天皇を囲いこもうとしたようで、豊浦宮-小墾田宮-飛鳥岡本宮と宮が作られます。ここから飛鳥時代がスタートします。乙巳の変の後、孝徳天皇は大和の地を離れて難波宮へ移りました。

亀形石造物

亀形石造物

丘の上にある酒船石遺跡から降りると2000年に見つかった亀形石造物があります。昔は整備されていなかったのですが、今はきれいになって整備のために一人300円を徴収していました。斉明天皇が道教を信仰していたので、祭祀が行われた遺構とみられています。

■四天王寺の方が古い?
四天王寺からよく似た亀形石造物があります。境内にある亀井堂で「経木(きょうぎ)流し」が行われていて、古本市などが行わるとよく見に行きます。亀をかたどった石の水槽と、そこから出た水を受ける同じく亀の形をした石の水槽からなっています。

2019年に調査が行われ古墳時代の石棺などに用いられた「竜山石」でした。飛鳥時代には使われていたようで、亀形石造物より古いのではという説もあります。そんなものが今も現役で使われているんですね。

乙巳の変後に孝徳天皇は難波京へ遷都し、四天王寺は都の南限でしたので祭祀に使われていたのでしょう。