大晦日、大祓ですねえ。飯盛山城から四条畷神社に降りると境内に茅の輪があったのでくぐってきました。
今年、行ってよかった山城 ベスト5
竜口城(三重県) 百地三太夫の城 行くのが大変でした
播磨白山城(兵庫) 書写山円教寺の裏にある秀吉と黒田官兵衛の陣
松尾山城(岐阜) 関ヶ原の戦い 小早川秀秋
長篠城(愛知) 長篠・設楽原の戦いの舞台
深溝城(愛知) 深溝松平家当主が残した家忠日記の舞台
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飯盛山城へ
石仏山城へ行く予定だったのですが奥さんの付き合いで飯盛山へ。まあ山城へ行けるからいいかと登ってきました。飯盛山城は三好長慶の居城として有名ですが、その前は守護代の木沢長政の居城でした。
木沢長政って、あまり知られていませんが、あっちについたり、こっちについたりと、まあ戦国武将らしいやり方をした武将です。政敵を排除するために一向宗と法華宗の宗教対立まで利用しています。制御がきかなくなって痛い目にもあっています。
信貴山城の城主でもあり河内では絶大な地位を築いていましたが、太平寺の戦いで三好長慶に敗れ討死しました。近鉄安堂駅から山を登っていくと太平寺共同墓地があり、ここに木沢長政の五輪塔があります。昔、龍田道を歩いている時に見つけました。
采女城は四日市あすなろう鉄道・内部駅近くにあります。久しぶりにナローゲージ(狭軌)の電車に乗ってきました。
昔は全国に軽便鉄道が作られ、各地を走っていましたが路線バスなどの普及によって廃止が続きます現在、軽便鉄道が残っているのは四日市あすなろう鉄道内部・八王子線と桑名から出ている三岐鉄道北勢線です。ほかに黒部峡谷鉄道がありますが、こちらは季節列車ですので通年で走っているのは三重県にある二路線だけです。
四日市駅を発車すると日永駅で西日野方面と内部方面に分岐しますが三角形の形をした島式ホームがいいですね。時折、鉄道マニアが写真を撮っています。軽便鉄道ですので社内は狭く、漱石ではないですがマッチ箱のような電車です。
船場総研では毎年、堺筋本町にある「ねぎ坊主」で忘年会を行うのが恒例でしたが、コロナなどもありしばらく伝統が途絶えておりました。久しぶりに「ねぎ坊主」営業最終日に復活です。「ねぎ坊主」は地下に移転してメニューも少し絞り、ニンニクの油揚げなどは、なくなっていますが定番の巨大だし巻きや蓮根饅頭は健在です。店内を二人だけでオペレーションをまわすしていました。
四日市でお仕事でしたが時間があったので四日市あすなろう鉄道に乗って内部駅へ。ちょっと歩いて久しぶりに采女城へ登ってきました。標高は低く、きれいに登山道が整備されていてスーツでも登れます。おすすめはしませんが。
1260(文応元)年に後藤基秀が武功により三重郡采女郷の地頭職となり采女の地に移住し、城を築いたと伝わっています。また承久の乱で上皇側について敗れた後藤基清が築いた説もあります。後藤氏は南北朝から室町にかけては北畠氏に仕えたようです。
采女城は足見川と内部川の合流地点の北岸にある丘陵尾根にあります。南北に延びる尾根に一の郭,二の郭,三の郭を置き、西に四の郭,九の郭、南西に五の郭,六の郭,七の郭、南に八の郭が連郭式に配されています。永禄年間(1558~70年)、織田信長が伊勢侵攻がはじまり、滝川一益に攻められ、落城しました。
近鉄四日市駅の北西にあるのが浜田城。跡地は鵜森神社と公園になっていますが神社の周りに土塁と堀跡が残っています。都会の中によく城跡が残りました。浜田城は文明2年(1470年)に田原氏(赤堀氏)によって築かれましたが信長の伊勢侵攻で滝川一益に攻められ落城、廃城になりました。
時が流れて小牧・長久手合戦が起き、伊勢も戦場になりました。松ヶ島城(松阪)を服部半蔵ら甲賀衆とともに守っていた滝川勝利は羽柴秀長(2026年大河ドラマの主人公)に攻められて開城します。滝川勝利はもともと一志にいた木造氏で滝川一益に気に入られて娘婿になります。
松ヶ島城を出た後、織田信雄の命で浜田城に入り、廃城になっていた浜田城を改修します。秀吉側は浜田城の周りに羽津城など付城をつくります。どうも滝川勝利は秀吉と連絡をとっていたようで動きを封じるだけで、織田信雄が秀吉と和睦を結ぶまで守り切った形になりました。
北陸の雪解けで始まったのが賤ヶ岳の戦い。柴田勝家、秀吉側、双方とも陣城戦になりました。
秀吉側は弟の羽柴秀長が田上山城に入り本陣にしました。北国街道を封鎖する神明山砦、堂木山砦、東野山城、溝谷砦、菖蒲嶽城に第一防衛ラインを築きます。また余呉湖東側の尾根に賤ヶ岳砦・大岩山砦・岩崎山砦を築き第二防衛ラインにします。
対する勝家側は玄蕃尾城を本陣とし、行市山砦に佐久間盛政、派生する尾根筋に前田利家・利長が入った別所山砦などを築きます。
勝家側は挙兵した滝川一益との連携でしたので秀吉の封鎖を突破する必要がありました。ですので陣城は簡易的なものが造られます。反対に秀吉側は南下を食い止めながら、滝川一益を孤立させ各個撃破したらよいので、技巧的で守りに徹した陣城を築きあげます。
ですので山城的に面白いのは秀吉側の陣城になります。秀吉側の陣城を優先して、ほぼすべてに登りましたが、まだ勝家側の陣城が残っています。これから積雪シーズンですので賤ヶ岳の戦いと同様に雪解けシーズンを狙うしかなさそうです。
堂木山砦と連携していたのが神明山砦です。堂木山砦を一巡りした後、各砦への分岐点に戻り、西側にある山頂へ向けて登っていきます。途中に切岸と郭らしきものがあり、出丸のようです。さらに登っていくと大きな郭があり山頂に主郭がありました。
神明山砦の守将は蜂須賀家政(蜂須賀小六の息子で徳島藩の藩祖)と記載されていますが「賤ヶ岳合戦記」には木村隼人(大坂の陣で有名な木村重成のお父さん)が中心になって守備したとあります。郭の周りにも削平地があり兵が駐屯したのでしょう。
この主郭を中心に東西尾根に郭が配置されています。奥には二重になった堀切があり、茂山砦へと続いています。茂山砦は前田利家が佐久間盛政の中入り攻撃を助けるため移動した茂山に築かれた砦です。ただ一時的な利用のためか遺構が残っていないようで行くのは断念。茂山から堂木山にかけてはハイキングコースになっていて、山城では珍しく2組のハイカーとすれ違いました。
20年ほど続いている【おやぢの会】の忘年会。
オブザーバー参加のはずだったのが、知らない間に正会員になっています。忘年会の場所は「つるとんたん北新地店」で、うどんすきがおいしかったですねえ。忘年会が終わって店を出ると、入口に長蛇の行列ができていました。そんな有名店でしたっけ?御堂筋イルミネーションを見ながら帰りました。
忘年会の前は東梅田駅近くの清風堂書店へ。小さな新刊書店なんですが、品揃えが独特で面白い本に出あえます。京都にあった三月書房を彷彿とさせる書店ですね。続いて大阪駅第3ビルへ。昔は5軒ほど古書店が集まっていたんですが昨日は永井古書店だけしか開いていませんでした。
賤ヶ岳の戦いの最前線になったのが堂木山砦です。柴田勝家に対抗するために秀吉は天神山砦-今市山砦を防衛ラインとしましたが、天神山砦を見下ろせる行市山砦に佐久間盛政が陣取ったため防衛ラインを1.5km南側に下げます。
神明山砦・堂木山砦を尾根沿いに配置し、北国街道を挟んだ反対側の尾根に東野山城を築きました。堂木山砦と東野山城の間には土塁の壁を造り最前線の防衛ラインにします。堂木山砦には秀吉方に寝返った長浜城主・柴田勝豊の家臣が入りました。城主は寝返りましたが反対した家臣も多く砦を脱走して柴田側に寝返るものもいたため、最終的には木下一元が守将となります。
余呉駅のすぐ北にある山にエッチラオッチラ登ると堂木山砦と神明山砦への分岐点に出ます。ここから登っていくと堂木山砦に到達しますが砦というより城になっています。郭が4つあり、虎口も食い違いになっており、なかなか技巧的です。