大和三山をゆく(1) 橿原神宮

橿原神宮

珍しく奥さんと休日が一致。「大和三山へ行こう」という申し出に「ハイハイ」と応じたのはよいのですが、まさか三山すべてに登る強行軍になるとは(笑)

とりあえずは畝傍山の麓にある橿原神宮です。明治23年(1890年)明治天皇が創建しました。大きな干支の絵馬があります。

■神武天皇陵
日本書紀の壬申の乱の記載に大伴吹負が大海人皇子側として戦いますが、この時の神武天皇陵に馬と武器を奉納して勝利した記事があり、畝傍山近くに神武天皇陵があったことになります。

幕末、尊王攘夷から天皇陵探索の気運が拡がりました。神武天皇陵の候補地として塚山説・ミサンザイ説・丸山説の三説があり、最終的に孝明天皇がミサンザイの地に決定しますが、藤原京造営でも壊されなかった塚山古墳(現綏靖天皇陵)や丸山説も有望です。つまりよう分からんということです。

■皇紀
辛酉(しんゆう)は「かのえとり」とも呼ばれ天命が改まると考えられました。60年ごとに訪れる辛酉の年が21回めぐる1260年ごとに、この世を揺るがす大革命が起きる考え方があります。明治から考えると601年が辛酉の年で推古天皇と聖徳太子の時代でした。そこから、さらに1260年を遡った紀元前660年を神武天皇の即位とし、これが皇紀になります。

男水門

男水門

和歌山和小野町に水門吹上神社があります。水門は「みなと」と呼びます。この神社の境内に神武天皇聖蹟・男水門顕彰碑が建っています。ここは神武天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)ゆかりの地で「男水門(おのみなと)」です。

以前、生駒山の山道にわけいって日下直越道(くさかただごえみち)で五瀬命負傷碑を発見。えらい山深いところにありました。神武天皇の東征で大坂から生駒山を越えて大和へ向かう時、五瀬命は長髄彦の放った矢に当たってしまいました。神武天皇は退却して草香津から船出し紀州へ向かいます。五瀬命は傷が悪化し紀伊国の男水門で亡くなりました。ここがその場所で、五瀬命が男建(おたけ)びをあげて亡くなったので「男水門(おのみなと)」と呼ぶようになったそうです。

ところが古事記では泉南の山の井水門で亡くなったことになっています。よう分かっていません。とりあえず関係する3ケ所はコンプリートしました。

鷺森御坊

鷺森御坊

織田信長と石山本願寺との10年戦争、いわゆる石山合戦は石山本願寺側が和睦に応じ、門主・顕如が石山本願寺を退去することで終わりました。天正8年(1580年)、退去した顕如が入ったのが和歌山にある鷺森御坊です。南海・和歌山市駅からすぐの所にあり、今はそれほど大きな寺院ではありませんが、発掘調査で深さ3mの堀が巡っていたことが分かり、寺院というより平城になっていました。

顕如は天正11年(1583年)に貝塚御坊(願泉寺)へ移ります。天正13年(1585年)に秀吉から天満の地を与えられ、天満本願寺を建立します。天神祭りで有名ですね。天正19年(1591年)に秀吉から京都七条堀川の地が与えられ本願寺ができましたが、顕如が亡くなった後の跡目争いを利用して徳川家康が西本願寺、東本願寺に分離し、一向宗の力をそぐことに成功します。

船場総研・総会

パソコン通信Nifty-Serveの時代から連綿と続く中小企業診断士試験の勉強会「船場勉強会」のOB組織です。とは言いながら昨年度は総会と近江八幡ツアーとイベントは2回だけでした。高齢化とともに年々、参加者が減少していますが、昨日は珍しく6名も参加。ほとんどの時間が近況報告で、今年度は久しぶりにセミナーをやろうということになりました。パチパチ。

終わってからは船場センタービルの地下2階へ。ビジネス街なので土日にやっている居酒屋が少なく、空いていた居酒屋に入るとハッピーセットということで18時までビールが199円になっていました。安いのはいいのですが、最近は注文をQRコードでやんないといけないのが面倒ですね。

和歌山市民図書館

和歌山市民図書館

南海・和歌山市駅に隣接して和歌山市民図書館ができていました。

中に入ったら、めちゃくちゃオシャレな図書館で、2020年にできたそうです。運営はカルチュア・コンビニエンス・クラブが行っています。1階は蔦屋書店とスターバックスが入っていて、そのままエスカレーターで上がると2階と3階が図書館になっています。ホテルのロビーのような雰囲気でオシャレですねえ。

歴史コーナーには「戦国合戦大事典」(新人物往来社)などが揃っていて充実していますね。「バグは本当に虫だった」もあったんですが開架じゃなく書庫に入っていました(泣)

和歌山城

和歌山城

和歌山でお仕事だったので、まずは和歌山城へ

和歌山へ行くたびに寄っているのでたぶん10回以上は来ています(笑)

和歌山城を造ったのは来年の大河ドラマ主人公である豊臣秀長です。秀吉の紀州征伐のあと、秀長が紀伊もおさめることなりました。そこで虎伏山に平山城を築き拠点としました。これが和歌山城です。江戸時代になると徳川家康の十男・頼宣が入り、紀州徳川家となります。

城のあちこちに秀長時代の野面積みの石垣が残っています。もう少し後の切込みハギと混在するのが楽しめます。

杉山古墳

若草山

平城京を造営する時に古墳などを壊しましたが、大安寺では杉山古墳という前方後円墳を敷地に取り込んでいます。

大安寺では古墳を壊しながら麓に瓦窯を6基作っていました。奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いていたようです。前方部から土砂や葺石が運び出して資材調達に使っていたようですが、古墳そのものは残っています。

5世紀後半頃にできた古墳のようで公園として整備されていて登ることができ若草山などを一望できます。墳丘長は150メートルほどあったようですが、現在は120メートルほどになっています。

大安寺

大安寺

大安寺は2つの塔がある巨大な寺でした。塔の基壇跡がしっかり残っています。

大安寺は厩戸皇子(聖徳太子)が平群につくった熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が大本です。名前は祇園精舎にならいました。そこから百済大寺、高市大寺、大官大寺となり平城京遷都によって大安寺になりました。

舒明天皇が百済大寺を作りましたが建設途中で落雷による火災などにあったようです。これが子部大神の怨みと考えられ皇極天皇は夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺で九重塔とみられています。大安寺の失われた塔も九重の塔でした。

天平の甍(大安寺)

大安寺

辰市城から北上し、平城京の南限である九条を超えていくと大安寺があります。ちょうど本堂で神楽を演奏しながら舞が行われていました。

大安寺といえば普照(ふしょう)ですね。井上靖の「天平の甍」に苦難の道が描かれています。

許可なく出家する私度僧が多く、唐から戒律は伝わっていましたが不完全なものでした。そこで聖武天皇は唐から優れた僧を招くことにします。命をうけたのが大安寺僧だった普照と栄叡で養老5年(733年)に派遣される遣唐使に加わります。唐に滞在して10年目に鑑真と出会い、日本への渡航を要請します。快諾をえますが、そこからが大変で、日本への渡航が5回も失敗し鑑真は失明してしまいます。また749年には苦楽をともにした栄叡が唐で病死してしまいました。

6度目にしてようやく渡航が成功し、天平勝宝6年(754年)平城京に鑑真が到着します。普照が唐に渡って20年が経っていました。鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武天皇などに戒を授けます。やがて唐招提寺が建立されます。

辰市城

辰市城

中ツ道の終点が東九条町だったので、ちょっと歩いて辰市城跡へ。

主郭があった場所は辰市幼稚園でしたが、久しぶりに行ってみると南部公民館東九条分館になっていました。住宅地になっていて城跡は残っておらず水路跡が堀跡かなという程度です。

ここが有名な「辰市城の戦い」の舞台です。松永久秀と筒井順慶が大和の覇権を争っていました。大河ドラマ「麒麟がくる」でも二人の対立が描かれていました。松永久秀が信貴山城、筒井城、多聞山城という城をつないだネットワークを築いていましたが、そこにクサビをうつために筒井方が辰市に城砦を築きます。急ごしらえの城郭でしたので松永久秀方が攻めたてますが筒井方の後詰があらわれ、松永方が敗戦。松永久秀の大和支配がゆらぐ分水嶺の戦いになりました。