
本日と明日は枚岡神社の秋郷祭各町内を太鼓台が巡り、15時頃に神社への宮入がはじまります。瓢箪山の商店街へ買い物に行ったのですが、行くまでに3つの太鼓台通過で待たされました。
商店街のアーケードへ着くと、喜里川の太鼓台が休憩中でした。この後、太鼓台が商店街のアーケードに入る前に脇を通って、買い物に行ってきました。

本日と明日は枚岡神社の秋郷祭各町内を太鼓台が巡り、15時頃に神社への宮入がはじまります。瓢箪山の商店街へ買い物に行ったのですが、行くまでに3つの太鼓台通過で待たされました。
商店街のアーケードへ着くと、喜里川の太鼓台が休憩中でした。この後、太鼓台が商店街のアーケードに入る前に脇を通って、買い物に行ってきました。

せっかく豊田に行ったのなら、目指すは足助城です!
豊田市駅からバスで1時間ほど揺られ足助の町へ、町から1時間ほどかけて真弓山に登ります。車でも登れるように舗装されていますが、歩くとなるときついですね。足助城は発掘調査にもとづいて全国で初めて戦国の山城を再現したもので、まさに山城のテーマパークです。高櫓、長屋、物見台、冠木門、木柵などが復元されています。当時の山城を体感できる全国でも珍しい施設で公園として整備されていて入場料は300円です。平日の朝、行ったのですが誰も観光客はいませんでした。なんてもったいない!
足助城は境目の城で、いろいろな文献に登場し小牧・長久手合戦の舞台にもなっています。足助城を作ったのは挙母神社にも関係している足助鈴木氏のようですが足助氏という説もあります。城からは足助の町がよく見えます。堀切や切岸などよく整備されていました。

豊田市はもともと挙母(ころも)市でしたが、トヨタの企業城下町でもあり市名が変更になりました。ただ町を歩くと挙母の名前が残っていたりします。その一つが挙母神社です。
創建は諸説ありますが、1189年(文治5年)義経の家臣である鈴木重善が建立した説があります。熊野から平泉の義経のもとに向かう途中、挙母で衣川の戦いで義経が討ち死にしたことを知り、この地に隠れ住んだそうです。やがて吉野から「子守明神(吉野水分神社)」を勧請し挙母神社の創建になりました。
「熊野の鈴木」でピーンときたあなた!ピンポン、そうです。熊野が発祥の地であるあの鈴木氏です。本家の鈴木重家は衣川の戦いで義経とともに討死にしています。この重家の叔父が重善で重家が幼い時は預けられて面倒をみていました。自身も平泉に向かっていましたが病気がちで義経の訃報から、そのまま三河に土着し三河鈴木氏の祖となりました。
豊田市駅からちょっと歩いた街中にあり、近くには桜城址公園があります。

豊田に向かうには岡崎駅から愛知環状鉄道に乗り換えます。環状という名前ですが、環状にはなっておらず岡崎駅とJR中央線の高蔵寺駅を結ぶ路線です。岡崎駅から乗ると、それほど混んでいないのですが途中の三河豊田駅がトヨタ本社工場の隣にあり、一気に乗客が増えて満員に、ほとんどは2駅進んだ新豊田駅で降ります。
朝は新豊田駅と三河豊田駅の間だけシャトル便が出て、トヨタ社員を大量輸送しています。新豊田駅からデッキ(今、工事中)で名鉄・豊田市駅につながっていて、名古屋方面へは地下鉄鶴舞線に乗り入れているので便利ですね。

気賀駅から豊田に向かうには遠鉄バスで浜松駅へ出るか、天浜線(天竜浜名湖鉄道)で東海道線の新所原駅に出るしかありません。ということで天浜線に乗ることに遠鉄バスもそうですがICカードが使えずに現金決済です。
天浜線は掛川駅~新所原駅を結ぶ路線で気賀駅を出ると浜名湖のすぐ横を進んでいきます。一両編成で帰宅する学生が多いですね。浜名湖の対岸が見えますが、けっこう切り立っていて三方ヶ原の高台を実感できます。

井伊谷の目的地はもちろん井伊谷城です。大河ドラマでも井伊直虎などが井伊谷城から井伊谷を一望するシーンがでてきます。
井伊谷城がある山は、そう高い山ではないので麓から15分ほど登ると城跡につきます。井伊谷城はけっこう単純な縄張りで土塁がある主郭と帯郭で構成されています。戦国時代に改修されることがなかったんですね。すぐ眼下に井伊家の屋敷があったはずですが、今は住宅地になっています。
井伊谷城を造ったのは井伊家初代の井伊共保といわれています。そう井伊の旗印になった井戸の人物です。屋敷のすぐ裏山が井伊谷城で、詰め城になっています。

万博へ行ってきました!
といっても55年前に開催されたエキスポ70の方です。ファイティング・コンサルタンツの集まりで千里中央駅に集合。百番でランチ&ビールの後、モノレールで万博記念公園駅へ。モノレールはけっこう混んでいて、ニフレルへ行く客が多いのかなと思ったら万博記念公園で焼物市が行われていました。太陽の塔からミンパク(国立民族学博物館)を巡って、疲れてきたので途中のピザ屋でビール!
少し歩くとEXPO’70 パビリオンがあります。前回の万博の鉄鋼館が残っていて当時の万博の様子が展示されています。どでかい太陽の塔の頂部に設置されていた「黄金の顔」を見てきました。モノレールで千里中央に戻り、ランチに行った百番で宴会!店の人に「お昼にもきましたね」と言われてしまいました。

大河ドラマ「おんな城主 直虎」でよく出てきた龍潭寺です。住職の南渓和尚(小林薫)が直虎(柴咲コウ)を小さな時から支えていました。井伊家の菩提寺だったので元祖から井伊直政までの墓が境内にあります。後に彦根に移りましたので井伊家の墓は彦根市の清凉寺、近江市の永源寺、また東京都世田谷区の豪徳寺(招き猫で有名)の三箇所にあります。
■南北朝の舞台 井伊谷宮
龍潭寺の横にあるのが井伊谷宮で宗良親王(むねながしんのう)を祀っています。宗良親王は後醍醐天皇の皇子ですが、皇子といいながら戦の最前線にいました。南朝が落ち目になった時、伊勢から陸奥へ船で目指しますが、暴風雨で遠江に漂着し、井伊を頼ります。やがて井伊が北朝に攻められると信濃に移ります。
「おんな城主 直虎」では今川氏から派遣された検地奉行(木村祐一)が隠田(年貢の徴収を免れるために密かに耕作している水田)を見つけた時に「ここはかつて、南朝の御子様が隠れてお住まいになられていた里でございます。故に、井伊の領地にありながら、井伊の領地にあらずという扱いでございます」と返答するシーンがでてきました。「おお!宗良親王のことじゃないか!」とドラマを見ながら感激したものです。

浜松駅から三方ヶ原を横断し、気賀へ行った目的はもちろん井伊谷です!
気賀駅でレンターサイクルを借て20分ほど走れば井伊谷へ到着。大河ドラマ「井伊直虎」の舞台で、彦根藩・井伊家の故郷ですね。彦根藩といえば「井」と書かれた真っ赤な旗印が有名ですが、旗印のもとになったのが
井伊谷にある井戸の井桁です。井伊家初代が生まれたといわれる井戸で、井伊谷に移った時に本貫として井伊と名乗るようになりました。
井伊家は徳川四天王である井伊直政の時に彦根に移りますが、井伊家の聖地として彦根藩主が繰り返し井伊谷の井戸を整備し、今に残っています。大河ドラマでは山の中にある雰囲気ですが、田んぼの中にポツンとあります。

東海道は海岸沿いを進みますが、浜名湖が1498年の明応地震で外海とつながってしまいましたので「今切の渡し」を船で渡らないといけません。「今切の渡し」近くには新居関所がつくられました。
「今切の渡し」を避ける浜名湖を大回りする本坂通(ほんさかどおり)があります。女性や大名の利用が多かったことから姫街道とも呼ばれています。こちらには気賀関所ができ冠木門などが復元されています。ただし本来の場所ではなく実際にあったのは気賀宿の東側でした。1729年に清国の商人が京都で天皇に象を見せ、江戸の吉宗に見せる途中に気賀宿に宿泊しましたが大騒ぎだったのでしょうね。