堂木山砦

堂木山砦

賤ヶ岳の戦いの最前線になったのが堂木山砦です。柴田勝家に対抗するために秀吉は天神山砦-今市山砦を防衛ラインとしましたが、天神山砦を見下ろせる行市山砦に佐久間盛政が陣取ったため防衛ラインを1.5km南側に下げます。

神明山砦・堂木山砦を尾根沿いに配置し、北国街道を挟んだ反対側の尾根に東野山城を築きました。堂木山砦と東野山城の間には土塁の壁を造り最前線の防衛ラインにします。堂木山砦には秀吉方に寝返った長浜城主・柴田勝豊の家臣が入りました。城主は寝返りましたが反対した家臣も多く砦を脱走して柴田側に寝返るものもいたため、最終的には木下一元が守将となります。

余呉駅のすぐ北にある山にエッチラオッチラ登ると堂木山砦と神明山砦への分岐点に出ます。ここから登っていくと堂木山砦に到達しますが砦というより城になっています。郭が4つあり、虎口も食い違いになっており、なかなか技巧的です。

適塾

適塾

淀屋橋近くにある適塾へ。

司馬遼太郎の「花神」(大村益次郎の物語)を読んで訪れて以来なのでウン十年ぶり。地元の人間って、いつも行けると思うと行かないもので、通天閣もハルカスの展望台も行ったことないですね。単に高所恐怖症というだけなんですが(笑)

適塾は緒方洪庵が開いた蘭学塾で全国から福澤諭吉、大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、箕作秋坪、佐野常民などが集まり、明治の礎を作る多くの若者を送り出しました。2階にはヅーフ部屋があります。この部屋にヅーフ編オランダ日本語辞典が置かれ塾生が争って使っていました。

塾生は塾頭の総括のもと成績で等級にわけられ,昇級競争は激しく切磋琢磨しながら勉強しました。争って勉強した部屋などを見学できます。階段が城なみに急になっていますね。

旭光

旭光

深溝城の復元模型などを見に行った幸田町郷土資料館ですが、屋外にいろいろと面白いものが展示されていました。その一つが旭光という戦闘機。リンゴの品種みたいな名前ですねえ。

F-86セイバーという機種でジェット戦闘機の第一世代になります。昔、プラモデルで作りました。アメリカ製ですが日本やイタリアでも生産されたそうで、派生型も含めて1万機ほどが造られたそうです。航空自衛隊での愛称が旭光(きょっこう)だそうです。

ちょうど「小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相」 (角川新書 平山優著)を読んでいて「家忠日記」の記載がたくさん出てきます。家忠は深溝松平氏で本拠地が深溝城。幸田町郷土資料館へ行くのは歴史好きだけですが、行くと戦闘機やヘリなどが屋外展示されていて目が点になります。こちらを目的に行くマニアもいるそうです。

中央構造線(長篠露頭)

中央構造線(長篠露頭)

昔、地理で習ったのが中央構造線とフォッサマグナ。フォッサマグナは日本中央部を南北に横断する溝で、西には糸魚川-静岡構造線があります。中央構造線は日本列島を東西に約1,000km走る断層で衛星写真をみると四国の真ん中を通る山脈がそのまま紀伊半島につながっているのが分かります。これが関東までつながっていますが長篠城ちかくに露頭しているところがありました。

行ってみたら豊川の川沿いの崖でした。(笑)黒い地層と白い地層できれいに分かれていました。

豊橋のチンチン電車

チンチン電車

豊橋駅前からチンチン電車が出ていました。前方入口から200円を払って乗り、停留場で降りるシステムです。正式名称は豊橋鉄道・東田本線になっていました。

豊橋駅前は阪堺線の天王寺駅のように止められる車両は一両だけで、駅に近づいた車両は停留場に車両が止まっていると出発するのを待つ必要があります。2005年に名鉄の岐阜市内線が廃止になったこともあり、東海地方では唯一の路面電車として残っているそうです。吉田城近くの市役所前まで乗りましたが、本数も多いし風情があっていいですねえ。

吉田城

吉田城

せっかく豊橋まで出たので吉田城へ。

もともとは牧野古白(こはく)が築いた今橋城でしたが松平の支配下になると酒井忠次が東三河を統治する拠点としました。西三河の筆頭は石川数正です。三方ヶ原の戦いで家康に勝った武田信玄は家康の本拠地である三河へ進撃します。また水軍を組織して三河を攻めはじめます。陸と海から攻められた家康は吉田城に入って信長に援軍を要請しましたが、信長は機内の戦いで身動きがとれない状況でした。ところが信玄はなぜか撤退をはじめます。結局は病から死亡し、家康はなんとか虎口を脱します。

家康が関東に移封されると池田輝政が入って改造を始めます。この当時の城の遺構が残っていて本丸を中心に堀切や土塁が残っています。二の丸の土塁も低いながら残っていました。シンボルとして豊川に面する鉄櫓(くろがねやぐら)が復興されています。

馬場信房の墓

馬場信房の墓

長篠城の近くに馬場信房の墓があり、信房の首を埋めたと伝えられています。馬場信房は武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた重臣で、三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めました。

長篠の合戦では鉄砲の弾という物量戦と武田軍が攻めつかれたところへ信長が温存していた兵力をぶつけたため武田軍は崩れます。馬場信房は撤退する武田軍の殿隊をつとめ、武田勝頼が戦場を脱出したのを確認し、そのまま引き返して敵方に突入し戦死します。62歳でした。

武田家の武将の討死は撤退時が多く、勝頼を逃がすために身代わりになったようです。勝頼は決して凡庸な2代目ではありませんでした。真田信綱・昌輝兄弟も長篠の戦いで討死にしたため、真田昌幸が家督を継ぐことになり真田丸につながっていきます。長篠の合戦は武田家に致命的な影響は与えませんでした。

■武田家滅亡の引き金
高天神城を家康が攻め、武田勝頼は高天神城の後詰にいけず、落城したことで勝頼の信頼が落ちます。信長は勝頼と和睦交渉しており、交渉を長引かせて救援にいけないよう時間稼ぎしていました。高天神城が落ちてから勝頼が見捨てたと宣伝する心理戦でした。

また上杉謙信の跡目争いで勝頼が上杉景勝に加担したことが致命傷になりました。上杉景虎を敵に回すことは景虎の兄である北条氏政を敵にしてしまい、これが武田家滅亡へつながっていきます。

設楽ヶ原

設楽ヶ原

徳川家康・織田信長連合軍と武田勝頼軍が戦った設楽ヶ原です。現地へ行ってみたら思った以上に狭い場所で両軍が対峙した連呉川も小さな川でした。互いがよく見えたでしょう。観光用に馬防柵が作られていました。

信長の鉄砲で有名な戦いですが、鉄砲の装備率を見ると武田勝頼と信長との差はあまり、ありませんでした。問題は弾で信長、家康軍はタイから輸入した鉛を使っていました。武田領に金山はありましたが鉛山はなく、武田軍は最初に鉄砲を討った後に弾が少なくなるため突撃したようです。

■信長の経済封鎖
武田側の長峰砦跡から見つかった弾は中国からの渡来銭と成分が同じで銅銭を材料にしていました、また神社に賽銭の中の悪銭を上納させて弾にしようと命じていました。信長側はは堺で硝石をおさえ伊勢商人にも東国に物資を流してはいけないと圧力をかけていました。また大津、草津を抑えていたので琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われていました。武田信玄が三方ケ原の戦いなど西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると起こした行動ではという説もあります。

■長篠の戦いは銅山の取り合い
武田信玄と家康で奥三河の争奪戦が行われましたが理由の一つが銅山です。長篠城ちかくの睦平鉛山の銅で作られた弾が長篠古戦場から出ています。長篠がある奥三河には睦平鉛山があり、徳川側の弾の原料である鉛に使われていました。長篠の戦は、この鉱山の取り合いでもありました。経済戦争の側面があったんですね。

■しかみ像
信長は本願寺攻めのために兵力を温存したいため馬防柵を構築し陣城を築きます。また柵から出て戦うなという指令を出しますが、当事者の家康側は馬防柵の外へ出て戦いました。有名な家康の「しかみ像」がありますが、三方ヶ原の負け戦を忘れないために書かせたと言われていますが書かせたのは尾張藩祖の徳川義直のようで長篠の戦の時のようです。徳川美術館が出した図録の解説で三方ヶ原の戦いと記載したため広まったようです。

長篠城

長篠城

西三河での研修が無事に終わったので一日休みをとり豊田から岡崎経由で豊橋へ。豊橋駅から飯田線に乗り換えます。乗ってから気づきましたが飯田線では豊川以降ではICカードが使えません(泣)。

2両編成の列車がどんどん山の中に入っていくに連れて乗客はほとんど降り、乗っているのは5人ほど。長篠城駅で降りましたが降りたのは一人だけです。目的は駅の近くにある長篠城です。ずっと訪れたかったのですが、なんせ大阪から遠いので、こういう機会でもないと行けません。

■長篠城
長篠城は武田信玄と徳川家康の境目の城になったことから武田側になったり徳川側になったり揺れ動いた城です。信玄亡きあと、武田勝頼が長篠城を攻撃し、徳川家康、織田信長連合軍と戦になりました。主郭はかなり大きく、堀切が見事に深いですね。豊川と宇連川が堀替わりになっており、すごい崖で武田軍は平地側から攻めざるをえない形になっています。鳥居強右衛門がいかに長篠城から脱出したかもわかります。

武田勝頼・本陣跡

武田勝頼・本陣跡

長篠城を攻撃中の武田勝頼に家康・信長連合軍が後詰に出てきた知らせが届きます。武田勝頼は迎撃のために設楽ヶ原に向かい途中の高台を本陣にしました。今は木々で見通せませんが、当時はよく戦場が見えた場所だったのでしょう。酒井忠次による鳶ケ巣山砦への奇襲が功をそうしたと伝えられていますが、奇襲攻撃より3時間も前から武田軍の攻撃がはじまっていたようです。武田軍は奇襲攻撃に気づいていた公算が高いのですが家康には勝てると計算したのでしょう。

武田勝頼は信玄の四男で信玄が滅ぼした諏訪氏を継いだため諏訪四郎勝頼と呼ばれていました。ところが長男の武田義信が廃嫡となり、次男は盲目で出家し、三男は早くに亡くなっているため四男の勝頼が武田家を継ぐことになります。もともと武田家の跡取りではない点が本人にとっても負い目だったのでしょう。信玄が落とすことができなかった高天神城を落とすなど実績を出しました。勝頼は諏訪家の跡取りだったはずが、思いがけず信玄の後釜となり、苦労しながらも版図を拡げた優秀な武将で、信長も高く評価していました。

■信長はしぶしぶ長篠へ
信長が本願寺に味方する河内を攻めるために出陣したのにあわせ本願寺を支援するため武田勝頼が三河に進軍します。岡崎奉行だった大岡弥四郎が武田勝頼に内通しており岡崎に向けて出陣しますが途中で謀反が発覚し、岡崎攻めを中止にします。方向転換した後、野田城、吉田城を攻めて、ついでに長篠城を攻めますが、思いのほか抵抗されます。

高天神城の戦いで家康から援軍を求められた信長は結局、間に合いませんでした。家康は援軍が来ないと武田に寝返って尾張を攻めると使者に言って信長を促した話が残っています。同盟関係が瓦解するところまで追い込まれた信長はしぶしぶ出陣します。信長は兵を失う可能性を減らすために陣地を築いて馬防柵をたて負けぬ戦をします。