中小企業診断士試験・2日目

中小企業診断士試験・2日目

今日は経営法務、経営情報システム、中小企業経営・中小企業政策の3科目です。
経営情報システムはAIの問題がでるでしょうねえ。バックプロパゲーション(誤差逆伝播法)法などは受講生に説明したので大丈夫でしょう。
そうそう「脳・心・人工知能」(甘利俊一著 講談社ブルーバックス)を読んでいたら確率的勾配降下法という名前で甘利先生が1967年にAIの学習法を提唱していたんですね。

当時のコンピュータの能力の低さから注目されませんでしたが、これが後のバックプロパゲーション法と同じでした。こうなると生成AIは日本から誕生していた可能性がありました。4004もそうですが、この手の埋もれた逸話が多いですね。

大和郡山城

大和郡山城

平城京・羅生門の最寄駅が近鉄郡山駅です。駅のすぐそばに大和郡山城があり、城の中を近鉄線が通っています。

大和郡山城は小さな城があったのを筒井順慶が大幅に改修し、筒井氏が伊賀に転封した後は羽柴秀長が改修して居城にしました。羽柴秀長といえば来年の大河ドラマの主人公です。「2026年放送NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』 秀長さんゆかりの町」というノボリがたくさん並んでいました。

羽柴秀長は兄の秀吉を大いに助け天下取りに貢献しました。最後の仕上げである小田原攻めの時に大和郡山城で病死します。市内には大納言塚というお墓があります。

下ツ道をゆく(15) 羅城門跡

平城京 羅城門

下ツ道シリーズのラストです。

稗田環濠集落の北側にあったはずの下ツ道は残っておらず、佐保川の堤防をすすんでいくと平城京の羅城門跡があります。川の流れが往時とは変わっており、羅城門は現在の来世橋の位置にあり、礎石が河川敷にあります。下ツ道は羅城門から朱雀門までを幅70mの朱雀大路となり3.7km先の朱雀門まで続きます。こちらも道として残っておらず、平城宮跡歴史公園に復元されているだけです。

羅城門は九条大路にあり平城京の南は九条までと考えられていましたが2018年に十条大路跡が見つかり、藤原京の十条と一致していたことが分かりました。ただ十条大路は遷都からわずか20年以内に埋め戻されたようで大きな謎になっています。東大寺などの外京を東側に造りましたので何か計画していたんですかねえ。

下ツ道をゆく(14) 稗田環濠集落

稗田環濠集落

下ツ道を北上すると、稗田環濠集落にぶちあたります。稗田と聞いてピーンとくるあなた。古事記ファンですねえ!

古事記は太安万侶が稗田阿礼(ひえだのあれ)が語る物語をまとめたものと伝わっています。稗田阿礼については実在したかも含めてよく分かっていませんが稗田環濠集落にある賣太神社の祭神になっています。天照大御神が天岩戸に隠れた時に、岩戸の前で踊って天照大御神を誘い出した神様が天鈿女命(あめのうずめの)で、この系統が猿女君(さるめのきみ)となり稗田に移り住んでから稗田氏となります。

稗田環濠集落は村を守る水堀がよく残っており、戦国時代の雰囲気がよく残っています。

前期講義が終了

三重大学

津は海風が入るので少しは涼しいはずですが、微塵も考えられず、うだるような暑さです。前期、データサイエンス1の講義が本日15回目をむかえ無事に終了。前期テストはなく小テストとレポートだけの評価です。

そう最初の講義で言ったのに、まともにレポートを出していない学生が2人ほど残っています。出席もとってないので、レポートぐらいきっちり出せよ!2人には期限を区切ってレポートを出すよう連絡し、出なければ不可ですね。

学生は今週で講義が終わり、前期試験が終わった8月8日から9月30日まで2ケ月ちかくの夏休みです。いいな~あ!

下ツ道をゆく(13) 番条環濠

番条城

下ツ道から少し西に行くと番条環濠があります。佐保川に沿って南北に伸びた番条城で、北は菩提仙川が掘替わりになっています。中世は3つの郭で構成され北側から北ノ城、北薮、南薮という地名でした。番条城の東側には堀跡である水路が今も健在です。

大乗院の衆徒だった番条氏の居城で越智氏とともに筒井氏と対立していましたが、長禄3年(1459年)筒井方に攻められ敗れました。番条氏は筒井氏に従うことになります。写真は北藪にある堀跡(念仏堀)です。と言っても今はただの水路になっています。筒井氏との戦いで堀に落ちて多くの戦死者が出たことから念仏堀という名前になっています。

下ツ道をゆく(12) 八条北遺跡

八条北遺跡

西名阪道と京奈和道をつなぐ郡山下ツ道ジャンクションを作る時に発掘調査が行われました。縄文時代などの遺跡のほかに古代の下ツ道も出土しました。今は幅3mあるかないかの街道ですが古代は19mもありました。両側には側溝が作られ東側の側溝が大きく幅が6m以上で深さも2mほどあったので側溝というレベルではないですね。大量のウマの骨などが出土していますので廃棄するゴミ箱代わりだったようです。他にも祭器で使ったものが出土しています。

現在の下ツ道は古代の下ツ道をほぼ踏襲していることも判明しました。下ツ道歴史広場が整備されていますが、案内版とトイレがあるだけで、工事現場だったところをそのまま公園にしたようです。ジャンクションの高架下を下ツ道が通っていますが、ジャンクションを抜けると、ますます幅が短くなり小道になります。

下ツ道をゆく(11) 八条環濠

八条環濠

二階堂駅から北上して下ツ道を歩いていくと菅田神社の鳥居がありました。Googleマップで見ると400メートル行ったところにあります。遠回りになるので行こうかどうしようかと考えて、もう一度地図を見たら菅田神社のまわりに水路みたいなのがあります。もしかして環濠集落?ということで寄り道するとピンポン!八条環濠でした。

当時の環濠集落は堀でかこまれた城で八条環濠も八条平城と呼ばれていました。菅田神社のすぐ横を水路が流れ境内には環濠の名残らしき水たまりがありました。

下ツ道をゆく(10) 二階堂

二階堂

下ツ道は近鉄・二階堂駅のすぐ横を通っています。古い駅で大正時代にできた天理軽便鉄道(法隆寺-天理)の二階堂駅がスタートです。大阪から天理へ向かう天理教信者を想定して軽便鉄道が作られました。ところが大軌(近鉄)が西大寺駅から南進し、橿原神宮駅と結び、天理軽便鉄道を横断する形になりました。これを機として大軌(近鉄)にM&Aされます。1952年に平端-法隆寺が廃線となり、平端ー天理が近鉄・天理線として残りました。

二階堂駅の近くにある二階堂地蔵堂の二層屋根が二階建てに見えたことから二階堂と名付けられたそうです。今の地蔵堂ではなく古い時代のお堂です。もともとは膳夫寺(かしわでら)がありました。聖徳太子の妃、膳夫姫が天香久山の北側に建立した膳夫寺が移建されたものです。時代とともに膳夫寺がすたれ地蔵堂が建てられました。

ということになっていますが橿原市膳夫町にも膳夫寺があり、実のところよう分かりません。

下ツ道をゆく(9) 鍵

鍵

鍵にあるのが有名な唐子・鍵遺跡。出土した土器に楼閣が描かれていて発見された時は邪馬台国だと大騒ぎになりました。弥生時代の初期から集落が作られ最盛期の頃には周囲に環濠が巡り大型建物が建てられていました。この頃に楼閣があったようです。

弥生時代後期になると近畿一円の弥生時代の遺跡において洪水などの痕跡が見つかりますが、唐子・鍵遺跡も洪水にみまわれ建物などは流されましたが、同じ場所で再建しました。そのまま古墳時代にまで突入し、古墳が作られています。ですので弥生時代を通じた全期間の遺物が出土する遺跡になっています。