
大田神社のすぐ近くにあったのが第二興和荘。学生時代に4年間下宿していたところです。雨が降ると自主休講してましたねえ(笑)。
上賀茂神社から明神川が流れ社家町を通るところは、なかなか絵になるのでドラマやCMなどによく登場していました。そのまま流れて下宿前を流れていたのも、この明神川です。
京都といえば盆地なので夏は暑く、冬は底冷えするのですが特に御園橋を越えると温度が違うとよく言われていました。確かに北大路あたりでは何もなかったのに上賀茂では雪が降っていたこともありました。

大田神社のすぐ近くにあったのが第二興和荘。学生時代に4年間下宿していたところです。雨が降ると自主休講してましたねえ(笑)。
上賀茂神社から明神川が流れ社家町を通るところは、なかなか絵になるのでドラマやCMなどによく登場していました。そのまま流れて下宿前を流れていたのも、この明神川です。
京都といえば盆地なので夏は暑く、冬は底冷えするのですが特に御園橋を越えると温度が違うとよく言われていました。確かに北大路あたりでは何もなかったのに上賀茂では雪が降っていたこともありました。
上賀茂神社からずっと東側へ行くと「かきつばた」で有名な大田神社があります。天鈿女命(あめのうずめ)が祭神でアマテラスが隠れた時に踊った神様で芸能の神様になっています。大田神社は上賀茂神社や加茂氏が登場する前からあった古い社のようです。

学生時代はそんな古い歴史があるとは知らず、ただ近くにあったので、よくお参りに行っていました。大田神社に曲がる交差点にあるのが戸田牛乳店。40年ほど前によく利用していましたが健在でした。閉まっていたので、現役でやっているのかどうかは分かりませんが
船場総研(中小企業診断士受験を目指す船場勉強会のOB組織)のイベントで滋賀へ
船場総研ではコロナ禍のためオンライン・イベントが続いていましたが、久しぶりのリアル・イベントです。近江今津駅に集合して竹生島へ渡り、竹生島から長浜へ出て町を散策し、最後は大津で宴会して散会するコースです。

念願だった竹生島へ行ってきました。パワースポットで有名ということですが、そんなことはどうでもよく(笑)目指すは唐門!京都・東山にある豊国廟の極楽門を豊臣秀頼の命で移築したものですが、元々は秀吉時代の大坂城にあったことが判明しました。
■秀吉・大坂城 唯一の遺構
2006年にエッゲンベルグ城(オーストリア)で豊臣期の「大坂城図屏風」が見つかり、山里丸から二の丸に抜ける極楽橋とこの唐門の姿がそっくりでした。極楽橋は豪華絢爛な屋根がついた橋で、この屋根部分が秀吉が亡くなってから移築されて豊国廟の極楽門になったようです。つまり家康が豊臣を攻めたの大坂の陣で、すっかり燃えてしまったと思われていた秀吉・大坂城の遺構が残っていたことになります。
上賀茂神社の門前に位置するのが御園橋。昔は狭い橋でしたが拡張されて両側に歩道も整備されています。御園橋を過ぎるとちょっと下って上賀茂神社前のロータリーに出ます。日本では珍しいロータリーですが私が学生の頃にはあったので少なくとも40年前にはありましたね。

行き交う道が5本あって、おまけに上賀茂神社のバス停から出る道もあるのでロータリーでないと無理なんでしょうね。ここもきれいに整備されて拡張されていました。
京都産業大学に行く時に柊野(ひらぎの)経由の場合はよくこのロータリーを使っていました。そうそうヒラギノフォントの名前はこの柊野が由来しています。時たま上賀茂神社前を通らずに圓通寺から精華大経由でも行ってましたが、こっちは遠かったです。
大阪府よろず支援拠点のお仕事で熊取へ。大阪の南で関空の近くです。

熊取といえば雨山城と土丸城という山城で有名なところです。熊取にある煉瓦館(熊取交流センター)ホールで「インボイス制度とキャッシュレス」セミナーをしてきました。久しぶりの対面式セミナーで、主催は熊取商工会です。商工会にも会議室があるんですが煉瓦館の方が広いということでセミナーはもっぱらこっちなんだそうです。
煉瓦館はもともと綿布工場だったところを保存・再生したものです。中にはホールや会議室以外にレストランや染色教室などもありました。土地柄なのか、だんじりの展示もありました。山城以外に、こんなおシャレな所があるんですね。
秀吉が京都の町に造ったのが御土居という名前の羅城。平城京にしても平安京にしても羅城門は造りましたが長安のように町を羅城で囲むようなことはしませんでした。秀吉が作った御土居は基底部が約20m、頂部が約5m、高さ約5mの台形状で堀が設けられ全長22kmもありました。

もっとも防衛用に作ったのかどうかははっきりしていません。東側は鴨川の氾濫に備えた洪水対策のようです。御土居には7つの出入り口が設けられ鞍馬口や粟田口などの地名として残っています。上賀茂の一角にこの御土居が残っていて、まっすぐ東にのびた御土居が賀茂川に沿って右に曲がる角の所が残っています。遠くからみたら単なる土の塊ですが(笑)戦国時代の羅城が都会に残っているのがすごいですね。
「やさしい雨の 祇園町 加茂の流れに映る あなたの姿...」
昔、かぐや姫の「加茂の流れに」という曲がありました。

賀茂川といえば上皇となり権力を握った白河院が、権力があっても何ともならないものとしてあげたのが「賀茂川の水、双六の賽、山法師」。賀茂川はよく氾濫していました。今は堤防がありますが、昔は木屋町通りぐらいから鞠小路ぐらいまでが河原になっていて牛馬の放牧や耕作地として使われていました。秀吉が作った御土居もこの洪水対策の目的がありました。
川を渡る場所として三角デルタが有名ですが府立植物園近くにもできていました。
今年も葵祭の行列が中止になってしまいました。つまり鴨川ホルモーも中止なのかなあ(笑)。

葵祭の斎王代が禊をするのが下鴨神社の御手洗池(みたらしいけ)です。みたらし団子が生まれたところです。後醍醐天皇が下鴨神社に行幸した時に御手洗池で水をすくおうとすると、1つ大きな泡が出て、続いて4つの泡が出てきたそうで、これを団子に模したのが御手洗団子(みたらしだんご)になります。
まあ諸説ありまして、平安時代から御手洗祭があり、この時に境内で売っていたのが串に刺して焼いた団子が「みたらし団子」と呼ばれるようになります。いずれにしても下鴨神社が関係していそうです。
下鴨神社はパワースポットとして有名で、摂社の河合神社では手鏡形の絵馬に描かれた顔にお化粧して願い事を記入する女性がたくさんいます。相生社は縁結びで有名で、こちらも女性がたくさん。

もっとも知られていないパワースポットもあります。境内には縄文時代から続く原生林・糺の森が拡がっていて、古代の祭祀遺跡が発掘されています。境内からちょっと離れたところにあるのが奈良殿神地で、小川に囲まれた小島(船島)は神様が天鳥船で降臨した所と伝わっています。これ以上のパワースポットはないのですが誰もいませんね(笑)。
下鴨神社の正式名称は賀茂御祖(かもみおや)神社。賀茂氏の神様で賀茂氏の祖は神武天皇を先導し、大和の葛城を通って山城に入ったと伝わっています。葛城といえば鴨氏なので関係があるかもしれません。
安倍晴明神社、近くにあるのが慶長時代の天主堂跡。

信長時代は鯉山や橋弁慶山がある鉾町に南蛮寺がありました。信長の家臣に弥助という黒人武士がいて、最後まで信長につき従います。本能寺の変で明智軍と戦った弥助は捕らえられますが、日本人でなかったため、南蛮寺に預けられます。イエズス会は弥助から本能寺の変などについて聞き、本国に報告しています。それ以降の弥助の消息は分かっていません。
信長のあと、秀吉が天下をとりましたが秀吉が伴天連追放令を出したことで南蛮寺は破壊されてしまいました。戦国時代、戦さの捕虜は人身売買されましたが、海外にもたくさん連れていかれたことが理由の一つにあったようです。
関ケ原の合戦後に家康の天下になると天主堂が復興され、これが慶長時代の天主堂になります。ところが家康の外交顧問だった英国人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が東インド会社の代理人でもあったことから布教ではなく貿易だけをしたいオランダとの貿易に傾斜。10年ほどでキリスト教が禁教となり天主堂も破壊されました。