飯盛山城

iimori201303.jpg昨日は野崎城を見た後、そのままハイキングコースに入って飯盛山頂上へ登ってきました。 

天気予報は曇りでしたので、雨はそのうち止むだろと思っていたら、だんだんひどくなってきます。引き返すのもしゃくだし、ぬかるんだ山道をえっちら登っておりました。さすがに誰も登っていません。 

飯盛山山頂には四条畷の戦いで戦った楠木正行の銅像が建っています。この頂上付近が飯盛山城の本丸で、郭跡が残っていますが、飯盛山城は連郭式になっていて、かなり広大。所々には崩れた石垣が残っていました。 

こんな日に誰もいないと思っていたら雨の中をもう一人登っているおじさんがいて、一般人は絶対に気にしない郭跡などを見ていました。飯盛山城を見にきたようで同好の士ですなあ(笑) 

飯盛山城は河内平野を見下ろす山城のため、太平記の時代からありました。有名な四条畷の戦いもここが舞台の一つでした。飯盛屋城は歴史の舞台にたびたび登場し、信長よりも先に京都を掌握した三好長慶の居城になったり、最後は織田信長によって落城させられ廃城になったようです。 

北条氏の城 小田原城

odawara2013.jpg石垣山一夜城から麓まで降りて、早川という名前の川を渡ると小田原城の総構えがあった場所。 

秀吉は最前線のすぐ近くに城を作ったんですね。一夜城から歩いて30分ほどで麓、そこから10分ほで総構えです。麓の最前線には山崎の合戦、北ノ庄攻めにも参戦した堀秀政が布陣していましたが病死してしまいます。陣をひいていた麓の海蔵寺にお墓があります。 

小田原城の総構えは2里半(約 9 km)と長く、空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものでした。今はほとんど痕跡がなくなりましたが、早川口には二重土塁が残り、当時の総構えがどんなものだったか実感できます。土塁はけっこう高く、町中を取り囲んでいました。西洋や中国の城と変わりませんね。この総構えで攻めてきた上杉謙信や武田信玄を撃退。 

小田原城では城の復元が進んでいて常盤木門や馬出門が出来ていました。江戸時代の雰囲気が楽しめます。天守閣はコンクリート製ですが、一番上に上がると目の前にあるのが雄大な太平洋と箱根の山々、そして一夜城のあった石垣山。一夜城跡を見ると車ぐらいの大きさなら動いているのも充分に見えます。北条氏にとってはめちゃくちゃプレッシャーだったでしょうね。 

鉄壁の総構えと一夜城のプレッシャー、こりゃ小田原評定になるはずです。

石垣山一夜城

isigaki201303.jpg東京駅から東海道本線のホームへ。熱海行きの普通電車に乗るんですが、やってきた電車が15両もありました。新幹線並みですね。さすがに東京はすごいなあ。 

JR早川駅で下車。ここから農道なんですが国道よりきれいな道沿いに30分ほど登ります。途中には参陣した武将の紹介があり、楽しめるようになっています。小田原攻めが行われた石垣城へ通じる道がそのまま農道になったようです。 

車で上まであがっていく横をテコテコ歩きます。なかにはスポーツ自転車で上がる猛者もいました。 

頂上近くにあるのが石垣山一夜城。以前は笠懸山という名前でしたが秀吉が総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。秀吉が工事中に白壁にみたてた白紙を貼った城を造り、周りの木を切ったので一夜で城ができたと北条氏が驚いたところから名づけられましたが、たぶん、そんなことはなく工事をしている所を見せながら心理戦に持ちこんだのでしょうね。 

目の前に小田原城が見えますが、当時は総構えになっていたので攻めるのはかなり大変。そこで支城を各戸撃破し、小田原城からいつでも見える石垣山にその頃、関東にはなかった総石垣の城を築き、威圧したのでしょう。 

本丸跡や曲輪跡などがきれいに残っていました。おすすめは一番奥にある井戸曲輪で、見事な石垣が残っていました。奥までくる観光客はほとんどいませんでしたね。 

ああ、いい運動だった!

桜町中将城

sakuramati201301.jpg滝川氏城のすぐ隣にあるのが桜町中将城

天正伊賀の乱で伊賀勢・最後の拠点となった名張の柏原城がなかなか落ちず、長期戦になりそうなため織田信雄が家臣の滝川雄利に命じて造らせた城。伊賀攻めの際に、織田信長は信忠を伴って織田信雄の陣所を訪れた記録が信長公記に残っており、この桜町中将城だったようです。

伊賀平定後は伊賀をおさめる拠点となりましたが本能寺の変後に使われなくなりました。織田信雄は、京都の屋敷が桜町にあったことから桜町中将と呼ばれ、これが城の名前になりました。

入口が分かりにくい城で、城の中は雑木林状態。土塁や堀跡ははっきり分かり、主郭は滝川氏城に比べると小さく、殿様の館として用いられたのでしょう。最寄駅は近鉄・美旗駅です。

雪の滝川氏城(名張)

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月曜日、東京は大雪でしたが関西でも榛原~伊賀にかけて積雪がありました。翌日の火曜日、名張の企業へ行く前に滝川氏城によってきました。 
天正伊賀の乱での織田側の拠点となった城です。主郭と周りを囲む土塁がきれいに残っているんですが、主郭が三重県内最大の大きさで70m四方もあります。広いので主郭内はグランドとして整備されていて野球などができるようなっています。でも中世の城跡で野球をしていると子供は知らないでしょうね。もっとも昨日はそのグランドも雪で埋もれていました。(笑) 
■負け組だったのに最後は大名にまでなった滝川雄利 
城を作ったのは滝川 雄利(たきがわ かつとし)という人物。伊勢国司・北畠の一族である木造氏の出身なんですが、昔から木造氏は北畠と仲が悪く、織田信長に味方して伊勢進攻を手助けしました。伊勢進攻の指揮をした滝川一益に気に入られ娘婿になっています。それで滝川になりました。 
やがて北畠を滅ぼし伊勢を支配した織田信雄の付家老になります。伊勢を支配下においた織田信雄が次に目を向けたのが伊賀の土地。伊賀へ進攻しますが伊賀の土豪も強く2回失敗します。 
織田信雄は織田信長から親子の縁を切るとまで激怒されますが、信長もほうっておけないので5万の兵で伊賀へ侵攻し伊賀を平定します。最後の合戦になったのが名張の赤目近くにある柏原城で、柏原城を攻めるための拠点として作った城が滝川氏城です。 
この滝川雄利という人物、小牧・長久手の戦いでは織田信雄側で戦い、秀吉の九州征伐、小田原征伐に参戦、関ヶ原の戦いには西軍で参戦、最後は徳川家康に仕えて常陸片野藩の初代藩主となりました。 
滝川一益、織田信雄、豊臣秀次、石田三成と負け組に組しながら、最後は大名にまでなった、なかなか波乱万丈の人生です。