知的生産の技術研究会の機関紙「知研フォーラム」が届きました。
今回の310号は、7月に亡くなられた梅棹忠夫先生追悼特集号。表紙の写真は若い梅棹先生と知研を立ち上げられた八木会長の写真です。
大宅荘一塾のメンバーだった八木会長が「知的生産の技術」(岩波新書)に出合い、知的生産の技術研究会を立ち上げましたが、梅棹先生には了解はとっていませんでした。
ところが岩波が出している雑誌「図書」に、知的生産の技術がよく売れて、その影響で京大カードが発売され、東京では熱心な人が知的生産の技術研究会を開いていて社会的な変化が起きていると書かれていて、あわてて梅棹先生の了解を得に京都へ向かったという話は以前、八木会長から聞いていたのですが、その前後の逸話も載っておりました。
知研関西は地元ということもあり、梅棹先生と接触する機会が多かったのですが、そこらへんの逸話は「知研関西と梅棹先生」として一文を掲載してもらいました。
知研関西と梅棹先生
知研関西へ梅棹先生に出席いただいたのは知研関西10周年記念セミナー(1997年)が最初。いらい、体調をくずされるまで知研関西と日本ローマ字会が共済で開催した「梅棹先生を囲んで語り合う会」で定期的にお会いしておりました。梅棹先生はエスペランティストであり、日本語の国際化にはローマ字運動が必要だと、晩年はローマ字運動にとりくんでおられました。
セミナー後の雑談になると百科事典のようにいろいろな話題がとびだし、学術的な話題には「へ~え」と感心するお話ばかりでした。とくに言語や探検の話が多かったですね。
●中国の周りをアルタイ語が取り囲んでいる
日本語はアルタイ語とふかい関係にあり、アルタイ語を使用しているのはトルコのチュルク語、モンゴル語、満州語、朝鮮語、そして日本語。モンゴル語の文法は日本語と同じ語順になっている場合がおおく単語を置きかえて日本語の語順でいえば通じるそうです。
この言語分布をみると、ぐるっと中国を取り囲んでアルタイ語族が並ぶかたちになります。中国語の言語体系は日本語と全然ちがい、同じ音の漢字がありますが四声で全部、区別しています。広東語にはこの声調が9つもあります。日本にも「はし」のような抑揚が変わる例がありますが、基本的に声調はありません。反対に日本語には五段活用がありますが中国語にはありません。中国語とよく似ているのはタイ語で声調が5つあります。チベットも同じで、つまりアジアでは中国・チベット・タイをアルタイ語族が取り囲んでいるような言語分布になっています。
●漢字を使っている中国が隣国だった
問題は中国が四大文明の一つの強国であったこと。日本は7世紀から9世紀にかけて漢字を取りいれましたが日本語は50音だけの言語で正確な中国語ではなく、なまった音を導入しました。これが「音読み」になっています。また意味をあらわす「訓読み」の2つの読み方を併用しました。
梅棹先生によれば漢字を借用した国の中で、こんなことをしたのは日本だけ。ベトナムや韓国でも漢字を導入しましたが読みはひとつだけです。これで千年間、日本はしんどいことになる国民的悲劇だとよくおっしゃっていました。日本では国語を学習するのに必要な時間が10倍にはねあがり、自分たちの言語を学ぶのに数年間を要する信じられない事態となってます。
日本は大国中国の隣に位置したがゆえに、本質的に構造の異なる漢字を導入し、とんでもない運命にひきずりこまれました。隣の韓国はチベットから伝わったモンゴル(元)のパスパ文字を使って、ハングルを14世紀、15世紀頃に成立させましたので、この事例に学ぶべきだともよくおっしゃていました。
●索引がない学術書は読む価値がない
梅棹先生がよくおしゃっていたのが索引の重要性。日本にも情報の蓄積はありますが、現在の日本語のままでは、必要な情報がタイムリーに引きだせません。自国語が正確に読んだり、書いたりできません。梅棹忠夫全集の索引を作るのにも1年もかかったそうです。欧米なら一瞬で出来あがってしまう索引が日本では作れません。まず単語の読みかたがわかりません。特に固有名刺は絶望的で、本人に確認しなければ読みかたがわからないような名前は、他の国にはありません。アメリカでは索引のないような本は、読む価値もないとされますが日本では学術書にさえ索引のないものが多くあります。
日本の文明を維持していくうえで、現在の言語体系では21世紀が乗りきれません。もっと表音化させていかないといけません。特に目を悪くしてからはラジオのニュースを聞くことが多く、同じカガクでは科学と化学の区別がつきません。そこで日常会話では「バケガク」と言って区別していますが、そういうことをやって表音化が進めるべきとおっしゃっていました。中国では四声があるので、同音異義は発生しませんが、日本では同音異義ばかり、聞いて分かる言語にしていきたいという考えです。
パソコンで入力する時に多くの人がローマ字仮名変換していますので、ローマ字を入力した時点でとめてしまえば、同音異義語ばかりとなるので、工夫して「バケガク」のように表音文字となり、留学生や日本に興味のある人にとって学びやすい言語、つまり国際化できるとよくおっしゃっておられました。
■「知的生産の技術」発刊30周年記念会
1999年7月「知的生産の技術」発刊30周年記念会を大阪の千里で開催。本を出版後、梅棹先生は海外にでかけていて日本でベストセラーになっていると岩波書店からの連絡は中東で受け取ったそうです。この会で「フィールドワークの先駆者はだれですか?」という質問に梅棹先生が答えられたのが鳥居龍蔵という名前でした。
後で本屋へ行くと、鳥居龍蔵伝がありさっそく買って読みました。鳥居龍蔵が生まれたのは明治3年。小学校を中退し、学歴はありませんが東京帝国大学の人類学教室の坪井博士に師事、やがて標本の臨時雇いに、えんがあって25歳で遼東半島へフィールドワークに派遣されます。これが皮切りでした。やがて結婚し、子供がうまれても、今度は家族をつれて蒙古へフィールドワークへ。当時は馬賊などが暗躍していた時代でたいへんでしたが、赤ん坊をつれた奥さんを伴っていたので相手も警戒心をとき、これがフィールドワークに効果的でした。東アジアを中心に旅行自体が大変な時代にいろいろなところへ出かけます。
当時の学者は机上で書物から論文を書く人が多く、実際に現場を出かけて論文を書く鳥居龍蔵の態度はかなり異質でした。やがて人類学教室の主任教授になりますが、内部的なゴタゴタにいやけがさし、辞職願を出すことも、この時に解剖学の小金井博士という人が登場するのですが、この方、星新一のおじいさんだったんですね。波乱万丈の人生でしたが、その名前と業績は日本よりも海外で著名な方でした。お話を聞いてから、メモした用語などをもとに後でたくさんのことを学ばせていただきました。
●印象的なお話を2つ
梅棹先生のもとへ、大学から入試問題に文章を使ってもよいかと問い合わせがありました。入試問題を確認すると梅棹先生の平易な文章にいろいろな漢字をいれてわざと難しくしてありました。大学に連絡すると、そのままの文章だと試験問題にならないと言われ、最終的に断ったそうです。私の文章は大学の問題にもならないくらいわかりやすいんだと明るく話されていました。
もうひとつ印象的なお話は読書の話。いろいろな学術書を読まれますが、目的は誰かの本に書いてあることと同じことをやってもオリジナリティーがなくなるので、そのための確認作業のために本を読まれるそうです。インターネットで調べた文章を切り貼りして卒論を出すような昨今の学生にぜひ聞かせたい言葉でした。
梅棹先生のおかげで本当にいろいろな刺激を受けました。ご冥福をお祈りします。