沢村栄治といえば伝説の速球投手。プロ野球の最優秀投手には毎年、「沢村栄治賞」(沢村賞)が贈られます。
巨人軍で活躍した投手ですが戦争で右肩を痛め、日本に戻ってからは肩を痛めたのでサイドスローに転向。3度目のノーヒットノーランを達成しています。すごいですね。
また徴兵されて日本に戻ってきましたが体はボロボロ。巨人に復帰しましたが成績はふるわず巨人からは解雇されてしまいます。そして3度目の徴兵で戦死。
沢村栄治は伊勢市生まれで生家跡は近鉄・宇治山田駅の目の前にある明倫商店街を抜けたところにあります。商店街入口に「沢村栄治誕生の街」と看板があるし、商店街の中にも案内があるので、よく分かります。
実はお墓も伊勢にあります。実に分かりくいところで案内も何もありません。伊勢の企業へ行くついでに知り合いに連れていってもらいました。沢村栄治のお墓はボールの形で、前面に巨人の「G」、後面に沢村の背番号「14」が刻まれていました。27歳という若さで亡くなったんですね。
月: 2013年9月
木木会 中小企業診断士の交流会
古墳が大学の中に!
名古屋城がやられたら八事で迎え撃つ
秀吉のお母さんの家
21歳でなくなった北畠家の貴公子
東天下茶屋の安倍晴明神社から少し行ったところにあるのが北畠公園という小さな公園。
北畠公園の中に北畠顕家(きたばたけあきいえ)のお墓があります。北畠顕家は「神皇正統記」で有名な北畠親房の長男。16歳で陸奥守に任ぜられ、鎮守府将軍として奥州にいたのですが足利尊氏が後醍醐天皇と敵対すると上洛して新田義貞・楠木正成とともに九州へ追い落としました。この後、また奥州に赴任しています。
ところが勢いをも盛り返した足利尊氏が九州から攻め上ってきました。そこで奥州より再度上洛。各地で転戦し、岐阜の大垣では足利方を大いに破りましたが、高師直軍との阿倍野での合戦後、堺の石津で戦死し東天下茶屋に葬られたそうです。
北畠親房の三男である北畠顕能が伊勢国司となったことから、伊勢の北畠氏が始まります。長い間、南北朝に分かれて争っていましたが和解し、双方から順番に天皇になるという約束ができました。
ところが足利幕府が約束を反故にしてしまいます。そこで伊勢国司北畠家の第3代当主だった北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)が挙兵し、幕府軍とぶつかります。北畠満雅は津市の南にある雲出川において幕府軍を大敗させますが、その後、津の中心街にある「岩田川での戦い」で敗れ、北畠満雅は戦死してしまいます。こちらは津の阿漕駅の近くに碑だけ建っていてお墓はありません。
あべのにある安倍晴明神社
午前中は専門家派遣で大阪の企業さんへ。天王寺駅から阪堺電車(チンチン電車) に乗って3駅目の東天下茶屋駅へ。 企業さんへ寄った後に神社へ行ってきました。
駅のすぐ近くを熊野街道が通っています。熊野街道というのは大阪から熊野本宮へお参りする参道道で途中にマイルストーンとなる王子社があります。この熊野街道から近鉄百貨店あべのハルカスが見えますが、このあたりも「あべの」と呼ばれています。
「あべの」の知名の由来は諸説あるんですが、有名なのが古代にこの地を領有していた豪族・阿倍氏の姓からとする説です。
安倍晴明神社と言うと京都が有名なのですが、大阪は生まれた所に神社があります。安倍晴明は葛の葉という狐の子として有名。安倍晴明のお父さんが狩人に追われていた白狐を助けますが、この白狐が葛の葉で、やがて恋仲となり生まれたのが安倍晴明。ただ正体がばれると「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という一首を残して信太の森へと帰っていきます。
やがて成長した清明は陰陽師となります。神社には狐の像もありますし、やっぱりシンボルマークは五芒星ですね。
旧国鉄 伊勢鉄道開業40周年
国鉄時代に名古屋から津へ行こうとすれば、関西本線に乗って三重県内陸部にある亀山駅へ向かいます。ここで紀勢本線に乗りかえて津に行きますが、三重県を三角形のように走ればならず大回り。必然的に海岸を走る近鉄に乗ることになります。
そこで四日市と津を結ぶバイパス線として40年前(1973年)9月1日にできたのが伊勢線。名古屋へ向かう特急が伊勢線経由になりましたので早くなり便利になりました。ところが国鉄の分割・民営化に伴い第三セクターに。今ではレールバスがトコトコ走る路線になっています。
経営は順調でJRの快速みえや南紀特急がこの伊勢線を借りて走っているため賃貸収入で黒字経営。ただ快速みえが我が物顔で走っているのを、本家であるレールバスが駅で通過を待ち「軒を貸して母屋を取られる」ということになっています。(笑)
御器所西城(尾陽神社)
羽の生えたトースターが飛ぶ
■スクリーンセーバで画面の焼きつきを防ぐ
昔、画面がブラウン管だった時代、同じ画面をずっと表示していると焼きつきが起き、画面の跡が残ってしまいました。防止するために登場したのがスクリーンセーバで、焼きつきが起きないよう画面を常時動かしました。
有名なのがアフターダーク。アフターダークと言っても村上春樹の小説タイトルではありません。バークレー・システムズ社から発売されたスクリーンセーバ。
1990年代初頭、マッキントッシュ用のスクリーンセーバと言えば花火のようなシンプルなものが中心でしたが、そこに登場したのがアフターダークです。アフターダークにはいくつかのスクリーンセーバが入っていましたが、その中の一つが羽の生えたトースタ(フライング・トースタ)。
■羽の生えたトースタが画面の中を飛ぶ
コンピュータを使わずにしばらく放置しておくとスクリーンセーバが起動され、やがてトースタと焼けたパンがマックの画面いっぱいに飛びはじめます。なかなかシュールな画面でした。このシュールさが話題となりアフターダークはよく売れ、後にウィンドウズ版も登場します。アフターダークはモジュールと呼ばれるファイルを入れ替えることでスクリーンセーバを切り替えることができました。
中には猫のボリスが蝶々を追い掛けたり、闇夜に夜行性の動物の目が次々と画面に浮かぶスクリーンセーバがありました。画面からは狼の遠吠えや虫の音が聞こえ、深夜、残業している時にスクリーンセーバが動くとまるでジャングルで仕事をしているような印象でした。その後、ジョーク的なモジュールが次々と開発され、中には羽の生えたトイレや懐かしいみかん星人もありました。
現在は液晶モニターが中心となり、スクリーンセーバの用途も様変わり。インテリア、癒しといった用途で使われています。
この懐かしいフラィング・トースターの復刻版が登場しました。
http://www.masswerk.at/flyer/flyer.html