上半期がまもなく終了します。
半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事が夏越の祓。今年の「夏越の祓」は6月30日(月)に行われますが、この日は名古屋にいますので、事前に河内一ノ宮・枚岡神社へ行き、家族の名前と生年月日を紙の人形(ひとがた)に書き、納めてきました。
夏越の祓って全国的な行事だと思っていたら、関西など西日本が中心なんですね。701年の大宝律令によって宮中の年中行事に定められたそうで、1300年も続く伝統行事です。
この時期、関西の神社へ行くと境内に茅の輪があり、この茅の輪を左に1回、右に1回、また左に1回まわってくぐりぬけます。くぐりぬける時に拾遺和歌集の歌を歌います。
「水無月の 夏越の祓するひとは ちとせの命 延ぶといふなり」
京都では和菓子の「水無月」という白の外郎生地に甘い小豆がのった和菓子を食べます。小豆は豆まきでも使われるので、魔払いの意味があります。
月: 2014年6月
一宮神社(神戸)
三宮神社、二宮神社の次は一宮神社。
一宮とは、地域の中で最も社格の高い神社で、例えば東大阪(河内国)は枚岡神社です。神戸は摂津国なので一宮は住吉大社になります。
神戸の一宮神社はこの一宮とは違って、生田神社を囲むように点在している生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)の一番目です。場所は三宮駅から北野(風見鶏の館など異人館街)へ行く途中。北野坂を少し上がり始めたところにあり、近くには神戸電子専門学校があって学生がたくさん歩いています。
ひょうご産業活性化センターの入っているサンパルから一宮神社へは歩いて10分ほどですので、昼休みに行って帰ってきました。小さな神社なんですが、酒樽が並んでいて、さすがは灘の地元ですね。
残りは四宮神社~八宮神社がありますが、三宮駅から、けっこう遠いので、こっちはしばらくおあずけ。次は兵庫城跡を見にいかなくては。
ワードプレスへブログを引っ越し
MovableTypeでブログを運用していたのですが、調子が悪くなりとうとうログインもできなくなったのでWordPressへブログを移行しました。
サブドメインで複数のブログ運用ができるとあり、やってみたのですが、これはなかなか難関。結局、あきらめて単独のブログにしています。
23歳で散った木村重成 若江の戦い
若江城のあるあたり一帯で大坂・夏の陣「若江の戦い」が行われました。
若江城は大坂城築城に伴い城が破却されていたので、城はなく、当時は湿地帯だったようです。大坂・冬の陣の和睦条件で大坂城の堀は埋められていたので豊臣側は籠城できず野戦するしかありません。
大阪城の東部で行われたのが若江の戦い。1615年なので、400年ほど前になります。井伊直孝、榊原康勝らを迎え撃ったのが木村重成。生年が分かっていませんが、当時23歳だったという説が有力です。大河ドラマ「真田丸」ではイケメン俳優が演じるんでしょうね。
木村重成の母は豊臣秀頼の乳母で、秀頼の小姓から重臣となりました。冬の陣が初陣で、今福の戦いで佐竹義宣軍を窮地に追い込み、敵味方にその名前が知られました。
若江の戦いで木村重成は奮戦し、藤堂隊、井伊隊に大打撃を与えましたが、ついに討ち取られてしまいました。首が家康の元へ届けられましたが、頭髪に香が焚きこめてあり、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っています。
写真は蓮城寺にあ木村重成陣所跡で、付近には若江木村通という交差点があります。
若江城
織田信長の臣下だった太田牛一が書いた「信長公記」によく登場するのが若江城。
難波から近鉄奈良線に乗ると途中に若江岩田駅があります。ラグビーで有名な花園の手前にあり、普通しか止まりません。若江岩田駅から商店街を抜けて、ずっと南に行くと若江城跡があります。遺構はなにも残っていなく碑がたっているだけ。
若江城は南北朝時代に北朝方の有力な守護大名である畠山基國(もとくに)が対南朝の防衛拠点として築城。大坂城の築城の時に破却されました。よく戦乱に巻き込まれ河内をおさえるには若江城攻略がかかせませんでした。足利義昭が京を追放された時も、まず若江城に入ります。織田信長が石山本願寺と戦ったいた時に織田方の前線であったのが若江城で、織田信長もよく滞在していました。
城下町には教会が建っていて旧字名に大臼(だいうす)という所がありゼウスからきているようです。遺構は残っていませんが、堀のかわりだった川は今も流れています。若江という名前は大昔にあった河内湖の港からきているのでしょう。
コリアタウン(鶴橋)
午後、鶴橋で打ち合わせだったので、少し早い目に出かけてコリアタウンをぶらついてランチを食べてきました。
日本全国にコリアタウンはありますが、大阪のコリアタウンは歴史が古く、できたのは1500年前。当時は百済郡(くだらのこおり)という地名でした。
631年に百済の王子が来日したのですが、唐・新羅連合軍に攻められて祖国・百済が滅びてしまいます。起死回生を狙って天智天皇が起こしたのが白村江の戦い。ご存じのように日本軍は大敗してしまいます。故郷をなくしてしまった王子は、日本に渡来人として定住。また百済からたくさんの難民が亡命してきました。こうして出来たのが百済郡。
もっとも当時の渡来人は長い間に日本に融合してしまいましたので、現在は済州島からきた在日コリアの人たちの町になっています。これは1923年に韓国の済州島と大阪を結ぶ直行船が就航した影響が大きいですね。
コリアタウン、平日だというのに観光客、しかも女性が多かったですね。修学旅行生の団体もいました。白菜キムチを買って、焼肉定食を食べに店に入るとワールドカップの放送が店内で流れていましたが、ハングルでした。(笑)
そういえば大阪には百済駅という貨物駅があります。
二宮神社 神戸
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ひょうご産業活性化センターで窓口相談。
お昼休みにサンパル近くにある二宮神社へ行ってきました。神戸には三宮神社だけでなく一宮神社から八宮神社まであり、これが生田神社・八柱の裔神を祀った生田裔神八社。生田神社を取り囲むように配置されています。
二宮神社近くにあったのが二宮商店街。古い商店街で一角には、今や懐かしい公設市場がありました。ただし空いている店は少なく、和菓子屋のご主人に聞いたら、震災後の補助金が出た時に皆、出ていってしまったということでした。なかなか雰囲気がある商店街で、三宮のすぐ近くにこんなところがあるんですね。
斎藤さんの故郷 斎宮
三重で多い名字が伊藤。
平安時代後期、藤原氏が朝廷中にあふれたため、新しい名字を名乗りました。伊勢守となった尾藤基景が起こしたのが伊勢守と藤原を組み合わせた伊藤という名字で、濃尾平野一帯で広まりました。松坂屋の創業家も伊藤です。
斎藤さんの故郷も三重県です。伊藤と同じく藤がつくので藤原氏の末裔。伊勢神宮へ奉仕するのが斎王で天皇の内親王または女王(親王の娘)が任命されました。斎王に仕えるための役所があり、これが斎宮寮。藤原北家だった藤原叙用(のぶもち)が斎宮寮のトップである斎宮頭になったところから斎宮の斎と藤原の藤から斎藤を名字にしました。
全国の斎藤さん、伊勢神宮参拝のついでに故郷である斎宮跡に立ち寄られませんか。ただ近鉄の普通しか止まらない駅になっています。斎宮歴史博物館や奈良時代から続く古道、復元された当時の道などがあります。
熱意がちがう!
今日は名古屋市新事業支援センターで窓口相談。
通常相談以外に多いのが創業補助金へ応募する事業計画書のブラッシュアップ。6月末締切なのでちょうど佳境をむかえています。
というわけで今日も計画書のチェック。相談者は締切が近づいてきてから補助金があることを知って、急遽、計画書作りに取り組んでいる女性。事業計画書に書かないといけない項目がいくつかあるのですが、その一つに「熱意」という項目があります。もちろん事業に対する熱意を書きます。
”事業をはじめるため名古屋市新事業支援センターへ相談に行ったところ創業補助金があることを教えてもらいました。....ない頭をふりしぼって一生懸命考えて書類作っています...”
「ウーン、こりゃ計画書作りに対する熱意じゃないですか。」
「だって、一生懸命書いている、この熱意を知ってほしくって」
「気持ちは分からんでもないですが、残念ながら書き直し。事業に対する熱意を書いてください。」
このまま出したら創業補助金の審査員にはうけるだろうなあ!
津の難読地名 万町
津の難読地名の一つ「万町」。
三重会館や都ホテルがある中心市街地から安濃川に架かる塔世橋に向かい、橋の手前あたりの町名で、「よろずまち」と読みます。
参宮街道で賑わったとことで、町屋が立ち並び、最初は「かや町」と呼ばれていました。茅のおいしげる野原にできた町に由来しています。さらに発展して、いろいろな商家や宿屋が軒をつらねたので「よろず町」と呼ばれるようになります。
幕末にはお台場が置かれ、川をさかのぼってくる異国船に対応するため砲台が設置しましたが、一度も使われなかったようです。
塔世橋の塔世は川向うにある四天王寺は聖徳太子が建立したと伝わっていますが、当時、塔があり川の瀬に映った塔瀬からきているようです。織田信長の母である土田御前の墓があることで有名。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では大谷直子が演じています。