間違えて天守を壊された亀山城

亀山城 多聞櫓
関氏が亀山古城から移転した亀山城を、豊臣秀吉の部下だった岡本宗憲が新たな城主となり、天守、本丸、二の丸、三の丸などを整備。
ところが江戸時代の初め、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて、伊勢の亀山城の天守を取り壊してしまいます。天守は再建されず、本丸北隅の三重櫓が天守の代用となりました。
本当のところは津藩に比べ、石高の少ない亀山城に天守はいらないと幕府が判断し、ただ地元の反対もあるので、間違えたということにしたようです。
亀山城は交通の要衝だったこともあり、城主がめまぐるしく変わるお城で関氏以来、9回も変わっています。
他のお城と同様に明治の廃城令によって、ほとんどの構造物が取り壊されてしまいましたが、亀山城には三重県下で唯一現地現存の城郭建築物である多聞櫓が残り、公開されています。建物はなくなりましたが縄張跡はよく残っています。堀が畑などになっていたりしますが、高低差がよく分かります。
発掘が行われ、二の丸帯曲輪や埋門が復元されていますが、公園の奥の方にあるので、ここまで見に来る観光客はほとんどいません。

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