岡山へ行ったついでに備中高松城と付城(敵城を攻めるための城)を巡ってきました。まず、備中高松城を見下ろす石井山。ここに秀吉の付城がありました。石井山の頂上に登ると開けたところがあり、ここが秀吉の陣跡。備中高松城が眼下に見えますが、かなり近いので人の識別ができるほどです。ここなら清水宗治の姿もよく見えたでしょう。
この秀吉の陣に飛び込んできたのが「本能寺の変」の知らせ。通説では毛利軍と間違って使者が紛れ込んでしまったとありますが、旗指物を見たら、どの軍かわかるし、毛利軍は水攻め堤防の先の山々に陣取って、同じように旗指物を上げていましたから、間違うことはなかったでしょう。となると明智光秀が秀吉に知らせたことになりますが、抜け目ない秀吉だったので、なにか変事が起こればすぐに知らせを送る自前の通信網をあらかじめ作っていたのでしょう。
いずれにしても、この場所で安岡寺恵瓊を通じて毛利方と交渉が始まります。清水宗治の自害と引き換えに城兵を助けることで話がつき、清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、小舟に乗って、舞を踊った後に自害。首は秀吉の陣に運ばれて、首実検が行われ、篤く葬られました。陣のすぐ隣に清水宗治の首塚がありました。
毛利軍の撤退を確認した後、水攻めの堤防を決壊させ、ここから秀吉の「中国大返し」が始まります。ここが、まさに、その場所だったんですねえ。以前に書いたガイド記事が、ちょうどこの場所のことでしたので感慨深いものがありました。
→ 中国大返し 秀吉に本能寺の変の第一報が