大坂城の大手門(追手門)へ入るには堀を土橋で渡らないといけませんが、この大手門へたどりつくのが大変です。
大手門の横から堀に張り出し、土橋に横矢をかける(横から攻撃)のが千貫櫓。1620年、大坂の陣が終わり、徳川秀忠が大坂城を造り直した時にできた、大阪城内に残るもっとも古い建造物の1つです。
千貫櫓の名前は古く、織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢の攻撃で難渋した櫓があり、信長が「あの櫓を落とした者には、千貫文を与えてもよい」と言ったことに起因しています。
■千貫文っていくら?
永楽通宝1貫文で米4石が買えましたので千貫文となると4000石です。1石は1000合で、成人1人が1年間に消費する量に該当します。1石は約150kgですから現在の米価10kg3,000円で計算すると4万5千円。4000石だと180,000,000円=1億8千万円になります。
戦国時代の軍役は100石につき6人ほどでしたので、4000石ですと4000石/100石×6人=240人となり、240人の兵をまとめる将ぐらいの褒美だったんですね。
■千貫櫓
本願寺が信長と和睦して退去する時に教如が火をつけたようで石山本願寺時代の建物はなくなりました。堀や土塁などはそのままですので、丹羽長秀が城を預り、織田信孝を総大将に四国攻めに向かおうとした、まさにその時に本能寺の変の知らせが届きます。
去年、石谷家文章が発表され、明智光秀の謀反の動機は、この四国攻めを阻止するためという説が注目されるようになりました。いろいろ調べると西美濃三人衆だった稲葉一鉄と斎藤利三との確執もからんでいるようです。
やがて豊臣秀吉が大坂城を造りますが、同じような隅櫓を作り、千貫櫓と名付けたようです。これが秀忠が造った大坂城にも名前が受け継がれたようです。