関ヶ原シリーズ。今回は本多忠勝陣跡。
■桑名藩の初代藩主
本多忠勝といえば酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並ぶ、いわゆる徳川四天王の一人です。三重県人としては桑名藩・初代藩主として有名で、桑名城跡の九華公園には鹿角の兜をかぶった本多忠勝の像があります。すぐ隣が中食で有名な柿安本店。最後は桑名で亡くなっています。
桶狭間の戦いで徳川家康が丸根砦、鷲津砦に囲まれた大高城に兵糧を入れますが、この時が初陣でした。武田信玄との戦いとなった一言坂の戦いで徳川軍が大敗しますが、本多忠勝は殿(しんがり)を守り、無事に徳川家康を逃がします。武田軍からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」とたたえられます。唐の頭というのは家康が愛用していたヤクの毛で作られた兜のことで、本多平八とは忠勝のことです。
蜻蛉(とんぼ)切という名前の槍を愛用し、鹿の角の兜がトレードマークで、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という本多忠勝をうたった川柳が伝わっています。関ヶ原では徳川本陣にあって、本多本隊は嫡男の忠政が率いていました。
■真田信繁(幸村)の親戚だった
本多忠勝の娘が上田の真田信之に嫁いでいたため、信之は東軍に味方します。この信之の弟が真田信繁(幸村)で、関ヶ原の戦後処理で真田昌幸・信繁(幸村)親子の助命を真田信之と共に家康に嘆願します。結果的に助命されて九度山に流されます。大河ドラマ「真田丸」にも絶対に、この嘆願シーンが出てくるでしょうねえ。